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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

正しい絶望のすすめ⑧

2018年01月15日 | 正しい絶望のすすめ
正しい絶望のすすめ⑧

如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。(顕浄土真実教行証文類)
 
私の闇が明らかになる。そのために如来は色々と姿を変えて私の上に至り届いて下さっている。

ビデオで「百名山」北岳への登山を見ていたら“ブロッケン現象”の一コマがありました。私は登山のことには関心がなかったので、後でネットで調べると、「ドイツのブロッケン山頂でよく見られることからこの名称がつけられた現象で、太陽を背にして立ったとき、自分の影が前方の雲や霧に映り、その周囲に色のついた光の輪が見える」とありました。
 私はビデオを見ながら、「ああ、あれは本当だったんだ」と全く関係のない話を思い出していました。拙著冊子「阿弥陀如来は慈しみの仏さま」に、次のような逸話を紹介しています。

 昔、浄土真宗に安定(アンジョウ・1735年没)という高憎がいました。この安定にこんな逸話か伝わっている。安定はある時、越中の雪山立山に上り絶壁に至ったとき、空中に三尊(彌陀、観音、勢至)の御影を拝した。同行の人たちはみな地上にひざまずいて合掌礼拝したが、安定ひとり立つたままで、その現象に向って「我らは凡夫である。このおそまつな汚れのまじった肉眼で、どうして無相の悟りの風光に接ずることが出来よう。我らの肉眼に映ずる三尊は決して真実の三尊ではなく、悪魔の変現に違いあるまい。妖径は早く化けの皮を脱いで正体を現すがよい」と叫んだ。するとたちまち空中の三尊は消えて悪魔が正体を現したという。
 これはおそらく安定の仏道に向かう姿勢の厳しさから、生まれた逸話であろう。仏道の目的は、自分の思い通りになるというエゴイズムの満足ではなく、あくまで、自分の真実の姿を明らかにし、私への固執から解放さる道である。生活が順調で満ち足りている時は「お陰様で」と仏に合掌し、満たされないときは仏に祈る。これは信仰の主体が「自分の欲望」である。その欲望の投影としての仏にしか過ぎない。(以上)

 この安定が見た“空中に三尊”はブロッケン現象で、“同行の人たち”とあるので、きっと3人の影が光の輪となって見えたものでしょう。ビデオを見ながら、「ああ、あれは本当だったんだ」というのは、このことです。
 浄土真宗で仏に出遇うというのは、空中に如来を仰ぐというのではなく、私の愚かさが明らかになることです。なぜ愚かさが明らかになることがそれほど大切なのか。それは、自分自身がはまっている自分の知性や感情への絶対依存を立ち切ることが出来るからです。アミダとは、インドの言葉で「無量の光」のことです。光に遇うとは、私の闇が明らかになることなのです。その闇を明らかにするための仏さまの巧みな企てが今の苦しみかもしれません。
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