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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

正しい絶望のすすめ⑩

2018年01月20日 | 正しい絶望のすすめ
正しい絶望のすすめ⑩

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし. 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけ たてまつる(浄土和讃)

私の価値観、豊かさ、願い、幸せは、強く賢く美しき、いわゆる弱肉強食でプラス志向です。仏さまの豊かさ、願い、幸せは、弱く愚かで醜いものをどこまで摂め取ることができるかです。その豊かさ願いの極まりが慈しみ仏である阿弥陀如来です。私が、その阿弥陀仏に願いや思いに意識が開かれるということは、私が弱く愚かで醜い状態にあっても、阿弥陀仏の慈しみによって意味づけられていくということでもあります。

「日本書紀」には、徳・慈・恩澤を「うつくしび」と訓読されています。「うつくしび」とは、“すべてのものをいとおしむこころ”を言ったようです。
そしてこの「うつくしび」が、平安初期以降、小さいものや幼いものに対する「かわいい」「いとしい」といった感情を表すようになり、平安末期頃から[うつくしい]は「きれいだ」を意味するようになったようです。

 その“美しい”ものを表現したものが仏像であり、仏像の本質は、弱く愚かなものを捨てることなく抱きとるということで、その極まりが阿弥陀仏です。

名前というものは興味深い。『生きものの名前のなぞ』(岩崎書店)に、動物の名前の由来がしめされていました。
いちばん多いのが、その勣物の生活や行動のしかた(習性)からつけられたものだという。その本によると、イヌは、いつも人間のそばにいる(居る=居ぬる)からイヌになった。クマの名は、「隈=奥まったところ」からきている。冬の間、木の根元や岩陰などの奥まった穴にもぐって冬眠する。カワウソはふるくは、カワオソといったそうで、川に住む恐ろしい動物という意味。サルは、なかもといつもふざけ合って遊ぶ。それで、戯(ざ)れるからサルになった。
すがたかたちから名づけられた生き物もある。ウサギの名は、「薄毛(うすげ)」かたきた。「薄い毛のけもの」という意味だそうです。トンボは、羽が透きとっていて、まるで棒が飛んでいるように見える。それで「とぶ棒」になり、「トンボ」になったという。

また人間の都合によってつけられて名前もあります。イモリ、ヤモリは、井守、家守で、人間の共存して暮らしてきたようです。ニシンという魚も、内臓は魚かす(肥料)に、また背肉は加工して出荷したので、身を二つに分けたことからニシン(二身)という名がついたとも聞きます。
すべてのいのちをあるものを摂め取る法のはたらきをアミダといいます。摂取とは、生物が物質を食べたり、飲んだり、吸い込むなどして体内に吸収することです。アミダという如来は、いのちあるすべてのものをアミダとなさしめるという仏さまです。
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