仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

風見鶏体質

2011年12月27日 | セレモニー
昨日は時間がなく、政教分離についての記事をアップするだけに終わってしまいました。記録として残したいということと、この意見から何が伺えるかという興味があって掲載しました。

何が伺えるかとは、もちろん論旨である政教分離のあり方は、深く考える必要があるでしょう。でも私が興味を持ったのは、国民葬を主催する当局が、葬儀の形式を風見鶏的に、その時その時の世間の風を気にしながら実施するこの体質です。

「和合をもって旨とする」と言えば聞こえがいいですが、当たり障りのないあり方を求め実施するというあり様は、国民葬に限ったことではあしません。多くの政治家諸氏も、もちろん個人の意見はあるのでしょうが、どの意見が国民の風に合致するかという基準で行動しているようにも思われます。

2010年7月17日、改正臓器移植法施行された法案も、初期の法案「臓器移植法」が制定した97年の時には、衆院では2つの法案が出され、6日間に分け26時間の審議をしましたが、今回は4案あるのに、2日間で8時間の質疑で事実上打ち切りでした。これは、法制定条件の最大の関心事が問題の本質である法の中身ではなく、国民の目線がどこにあるかを伺うことが行動の基準となっているからでしょう。

この風見鶏的な体質とともに、建前と本音の使い分ける体質です。おそらく国民葬を企画実施した人たちは、国民葬がどんな形式で行われることが良いのかという本質論には興味がなく、重視したいのは建前としての法要形式です。この建前と本音を使い分ける体質が、“まあまあ良きように”というなれ合いを生み出し、オリンパス事件にみられるような隠ぺい許す体質にもなっているように思われます。

しかしこのことは他人ごとではありません。私の体質も“風見鶏体質”と“隠ぺい体質”で構成されているのだと思います。まずはそのことをしっかりと見据えることでしょう。
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