仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

おひねり文化の衰退

2012年06月17日 | セレモニー
今月3日に、「もし本当に、昔、贔屓の力士が花道をさがるときに汗をかいた背中にお札を貼り付けたのであれば、あのパチパチが、どれほど心地よかったか、考えるだけでも愉快です」と書きました。

京都へ行く車中で、古本で買った『おすもうさんのおしり』(日本ペンクラブ編。1993)を読みました。いろいろは人が相撲に関することを書いている本です。その中に相撲後援会の第一人者ともみられている内館牧子さんのエッセイがありました。その中に、贔屓の力士が花道をさがるときに汗をかいた背中にお札を貼り付けた逸話が紹介されています。

内館さんは、本心から相撲が好きなようで、このエッセイを読んでいたら、本気で相撲を見に行きたいという思いが沸き起こりました。

まずは、そんな思いが沸き起こった部分を紹介します。

 朝から観ていると、良質のサクセスストーリーのドラマを観た気になる。横綱や大関になるのがどれほど大変なことか、肌でわかる。私は相撲界の徹底した階級意識が非常に好きである。
 前相撲、序の口、序二段、三段目、幕下、十両、幕内とランクがあがるのだが、三段目あたりまでは館内の照明も半分程度しかついていない。幕下までは土俵入りもないし、大銀杏も結えない。マワシも黒い木綿で、さがりは糊(のり)でかためてないのでフラリと下がている。マワシの色とさがりの色がちかっていたりして、その哀しさがかいい。幕下以下は塩もまけない。
 行司にも階級意識は出ている。上位力士を裁くのは当然、上位の行司である。下位の行司は膝(ひさ)までの短いモソペのような装束をつけ、裸足である。十両、幕内行司は白足袋、三役行司になるとやっと草履をはくことを許される。
そして立行司だけが腰に短刀をさしている。これは差し違えたら割腹して責任を取るという決意を示しかもので、六百年前からの心意気が生きている。
 もっと面白いのは「物言い」。テレビで見ていると、勝負審判が全員土俵にあがり、協議する。しかし、「裸足行司」あたりだと、勝負審判が土俵下から座ったままで怒ったりする。
「東じゃない。西だよ、西ッー」
膝丈モソペをはいだ若い行司はあわてて東にあげたウチワを西にあげ直したりするのどかさが哀しい。(以上)

といった具合です。さてその中に次のようにありました。


以前、蔵前国技館の花道近くの席に粋筋風の女性が一人、座っていた。午前中の、人気のない薄暗し館内で、白っぽい着物のその人はまるで夕顔のように浮かびあがっていた。
 序二段のある力士が勝ち、彼は花道を引きあげて行った。その時、その人は汗でぬれた彼の背に、お札をはった。そして静かに消えた。これを熱烈ファンというべきか、粋というべきかはともかく、うなるほどカッコよかった。(以上)

よく飲み会に芸人を招き、気に入ると割りばしの先にお札を挟んで芸人の胸元にさすことを、私もやったことがあります。また町の芝居小屋でも見かけます。

築地本願寺の説教所でも、昔は、普通におひねり(紙でお札を包んで控室で渡す)があり、聞かせる布教使だと、本願寺のお礼の額よりも、おひねりの方が多かったということもよく聴きました。“おひねり文化”そのものが衰退しているのでしょうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 婦人会の担当となりました | トップ | 通信教育―ランク別指導法 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

セレモニー」カテゴリの最新記事