(1)地球温暖化で日本はかなり以前から亜熱帯気候に移っているといわれて、それを実感する季節を毎日過ごしているが、それでも3月、4月には桜の花は咲き、陽にまぶしい新緑の季節はやってくる。冬とは違う明るいあたたかい日差しの中に緑の木々、花々が輝いてきて、自然の力、輪廻(metempsychosis)の大きさを目の当たりにする。
(2)自然の摂理(providence)、輪廻を感じる季節だが、木々、花々はこの季節を待っているかのように背伸びしてゆうゆうと誇らしげに自由にいきいきと咲き誇るのがすばらしい。
自然の摂理、輪廻はすべてに普遍的な原理的な「設計」どおりに「理」にかなって進行するものと感心してみているが、ふとそれに逆らってわれわれ人類世界の科学的原理どおりの動きをするものもある。
(3)牡丹(ぼたん)は純白の大きな美しい花を咲かすそれは自然の摂理、輪廻の力の大きさを伝えるものだが、なぜか大きな白い美しい花を茎は持ちこたえることができずに夜中に雨が降ると翌朝には白い花は地上に崩れて茎は持ちこたえることはできない。
自然の摂理ならうまく立たせて美しく見せるものではないのか。われわれ人類世界の重力(gravity)の原理に従う牡丹の花の科学的な動き、行動には人間としては親近感を覚える。
(4)自然の摂理も意気な計らいで、人的に茎を支えて牡丹の白い花を無理に立たせることが自然の摂理に反するのではないのかと大きな白い花が重力に従って「自然」に倒れて地に帰るという自然の摂理がすべてを支配していない自己主張が見えて、それもまた美しく見える。
地に帰った牡丹の大きな美しい白い花がそのままでもすばらしく存在感を放って美しく見えることを発見して、それも自然の摂理が教える深さだとわかる。