いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

4月、教育はエンターテイメント。 knowledgeable entertainment

2010-03-31 19:30:30 | 日記
 天然資源も乏しく、国土も狭い日本。教育国家(educative nation)を目指して、人的能力
の開発で先端技術を活用して効率的、画期的生産能力によるGDP(国内総生産)を高める。
 教育(国民共有、共通の初期、初等教育)というのは、国民共有の人的資産として普遍性
の高い連続線が求められる底辺拡大型の能力資産。
 普遍性、連続線が求められるので、教育方針の一貫性が必要なのは言うまでもないが、日
本の教育の現状は、近年、時代、社会の変遷に迎合して一貫性を欠いてきた。

 高度成長期の「詰め込み式」から、多様な価値観の応用性に対応する「ゆとり教育」へと
転換して、しかし、その後基礎教育(知識)の劣化に危機を感じて、再び10年度からは教
育指導内容の拡大による「脱ゆとり教育」へと再転換する。

 教科書は40%強もページが増えて、厚くなる。特に、理科、数学内容はともに70%弱
も増えて、自然科学系の教育内容の充実を目指す。
 高度で先進的な科学技術の開発でノーベル賞受賞者も目立つ日本の、科学離れの傾向に
興味を促すものとなっており、また、世界各国と比較しての初等教育の遅れ(国際学力比較)
に配慮したものだ。
 たしかに、国際学力の単純比較による初等教育の劣化には問題はあるのだろうが、こうい
う破片的、部分的、現象的なことに左右される国の教育視点、方針にこそ深い問題の溝があ
る。

 「ゆとり教育」そのものは、教育の基礎アイテムの取り上げ方によっては効果のあるもの
なのだ。「ゆとり」とは、課外の時間拡大とか教育内容の簡素化ではなく、むしろ「時間」
を長く広く活用してトコトン教育内容を深く広く進化(考え、推論し、読み解く連続線プロ
セス)させるための、「豊かなゆとり」であるはずだ。教育の本質は、「トコトン」やることだ。

 授業時間を一日十分取って、場合によっては画一的な授業時間ではなくて、教科、テーマ
によってはフレキシブルな授業形態、時間帯で一日、ゆったりと教育と向き合う余裕、ゆとり
が大切だ。

 今日、よく目にする昼の日中から下校の生徒が街にあふれている現状は、教育の質の劣化
を招く事例だろう。
 初期、初等教育を受ける期間はせいぜい長い平均人生の10%程度、9年間だ。この期間
こそは、教育に豊富な時間を費やす季節だ。

 「教育」とは、「未開のモノへの知識欲」、「旺盛な好奇心の喚起」なのだ。教育とは、よく言
われる社会に出て何の役に立つの、の「知識の詰め込み式」ではない、時間に拘束されない
自由な「知ること、物知り」のエンターテイメント(knowledgeable entertainment)。

 モノの見方は多様であってもいいが、たとえば「ゆとり」概念のように取り違えては効果もな
い。
 今のこの国に欠如している先見性、普遍性、連続線が教育に求められる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

治安能力と資質と信頼。  reliable public peace

2010-03-30 19:53:04 | 日記
 (1)治安(public peace)というのは、高度の科学技術(鑑定)と精度の高い捜査能力に
人格が備われば、社会的信頼が集まって治安は維持される。
 高度の科学技術も操作の誤りや取り違えがあったり、捜査能力に思い込み、初動の遅
れで精度を欠き、人格にも問題があるとすれば、今の社会のように治安は悪化する。

 治安も、みだりに不適格者に権限を与えても、強権社会を形成して冤(えん)罪を生み、
だからといって、捜査そっちのけで調書、書類作成に四苦八苦、うつつを抜かしてばかりの
レベルでは、平和な社会生活は訪れない。

 近年の重要事件の検挙率が30%程度で、ここ1,2年の社会を震撼とさせた凶悪事件の
ほとんどが未解決のままだ。事件現場に駆け付けた警察官の目の前にいた犯人と思われ
る人物が、当の警察官がその現場から離れたスキに姿を消したまま、未だに手がかりもな
い(有力情報の報道がない)始末のものまである。

 警察組織、従事者の「資質」に問題があるのは間違いない。危険を伴う仕事なので適格者
の為り手がない時代背景もあり、警察組織、治安の立て直しには相当、相応の手当を支給し
て、捜査能力の精度の高い人格者を募い、徹底した「教育」が必要だ。

 (2)95年に、警察組織の最高責任者の警察庁長官が何者かに狙撃されて重傷を負い被害
者となった事件。最高レベルの警護で、標的になることがまず考えられない構成要件の中の
事件が、未解決のまま時効をむかえた。
 朝の通勤時間帯のマンションで目撃者が複数いながら、当然のように警護の警察関係者も
いたと思われる中での事件で、15年もの間の未解決事件だ。

 治安能力、捜査能力の劣悪さを示すものだ。当時の被害者で警察庁長官も「捜査は不合格
だった」(報道)と述べている。

 (3)さらに、時効をむかえた3月30日。警視庁はこともあろうに、この事件の捜査段階での検
証内容として、すでに解体された宗教団体、同関係者が事件に関与していたとして、捜査対象
としていた事実を公表した。

 捜査対象の団体がすでに存在しない気安さがあったのか、ことに及んでのみっともない、
あきれた非常識だ。
 事件は未解決のまま時効をむかえた。15年の長い期間には多岐にわたる捜査は当然あっ
たろうが、未解決の時効となればそのどれもが、誰のせいでもない、警察庁の責任のもとで
公然と事件に関与したかのような思惑で公開されるべき対象ではなくなっているのだ。
 最近無罪となった冤(えん)罪事件の「教訓」はどこにいったのか不可思議だ。

 社会生活の平和、治安を担うべき関係者が、信じられないこのような稚拙な非常識な判断
力しか持ち合わせていないことが、警察能力の現状を示すものだ。

 (4)もとより、このように適格性に問題のある組織にみだりに権限をばかりを与えると、パラドッ
クス(paradox)に危険性はあるが、しかし治安は適正に維持されなければならない。
 治安を維持する相当、相応の手当を支給して、捜査能力の精度の高い人格者を育成しなけ
れば、「複雑化」した社会の治安維持に対する社会的責任も果たせず、信頼も得られない。

 どう考えても不自然な「政治とカネ」の問題で、権力にある者の責任が問われない不可思
議な「現状」は、社会の「価値観」にも暗い影を落としているのだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKおおさか。  k . zaitsu concert 2010

2010-03-29 19:37:14 | 日記
 満月の夜です。午後7時40分。NHK大阪に来ています。財津和夫コンサートツアー
2010。今、ダブルアンコールの「二人だけの夜」が終って、大阪のNHKホールから出
て来たところです。満月が南口広場の東大寺大仏の半身像のイミテーション(imitation)
を映し出しています。

 NHKホールは、多分放送用の多目的ホールとしての多様な設計になっているのでしょう、
音の質が少々硬質で、淡泊質に響いてきます。
 財津さんは、以前、ホールというのは、観客の入っていないリハーサル(rehearsal)の時
の音と、観客が入ったホールとでは、極端に音質が違うことがある、と言っています。
 コンサート用ホールは、音が広域に反響する設計になっていますが、講演会、話し言葉に
使用するには、音は反響してはかえって聞きづらい訳です。

 しかし、音が硬質で淡泊質な響きのホールでは、財津和夫さんの歌のうまさがかえってよ
くわかります。今日も、音符ひとつひとつ、言葉ひとつひとつを丁寧に踏んで、しっかり歌う音
程の良さが際立った財津和夫さんです。

 午後5時40分、グレーのシルキーシャツの財津さんがブルーライトに映し出されたセンター
マイクに登場してきました。桜の季節、今週の水曜あたりが見ごろと話して、ステージがパ
ッと桜が咲いたような満開の照明の中、「wake up」でコンサートはオープニング。

 「メルティング」。シンプルにシンプルに、どちらかと言うと情感を押さえたメロディアス
(melodious)な美しい曲に仕上げました。すばらしいアレンジ(arrange)の出来栄えです。
 映画のワンシーンを映像として切り取って感じてほしい、と言うニューアルバム「二人が
眺めた窓の向こう」の「こもれび」から80年代チューリップの「たった一人のオーディエンス」
への流れは、ゆったり、ゆっくりしとしたメロディアスの曲調から、段々とリズムを駆け上るよ
うに高めていく高揚感の曲への流れは、いいですね。

 最近のコンサートでは、財津さんのキーボード1本で歌うシンプルな「僕がつくった愛のうた」
をつなぎの歌というよりは、とても大切に歌うスタンスが見えます。
 印象的な言葉(lirics)とメロディを多彩なピアノコードで構成演奏する、むずかしい演奏スキ
ルを自由自在にこなして楽しんでいるのが見事です。最近のこの歌での観客の拍手がしばら
く鳴り止まず、今日も鳴り止みません。

 「あの星に戻ろう」の間奏で、財津さんの「ダダダダダー」のスキャット(scat)と同じカット音
の柳澤くんのギターとのアドリブ(ad lib)掛け合いも、息があってます。
 大阪NHKホールをいっぱいに埋め尽くした観客にダブルアンコールの「二人だけの夜」
で応えて、最後はちょっと財津さんお疲れ気味でもフルスロットル(full throttle)にサービス
満載のコンサートが終わりました。

 来週は、ヨーロッパオペラハウス仕様の本格的なコンサートホールの愛知県芸術劇場ホール
でのコンサートです。深みのある、メロウ(mellow)で包み込むような財津サウンドが楽しみで
す。

 満月が朧(おぼろ)月になって、大仏のイミテーション(imitation)を映し出す午後7時40分、
NHK大阪でした。

 ミュージシャン
  財津和夫(V G Pf)
  柳澤二三男(G) 3月25日からのプライベートライブを含めて4日間連続の勤務、でした。
  山内和義(B)
  小泉信彦(Pf)
  田中トオル(Dr)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共同正犯。  preventible railway,traffic accident

2010-03-27 20:22:42 | 日記
 被害者感情も含めて「共同正犯、共同責任」をどこまで求められるのか。求めるべきなの
か。

 (1)乗客106名が死亡したJR福知山脱線事故。遅れを取り戻そうとして、急カーブを
安全スピード無視で運転走行して事故を引き起こしたとされる運転者は同事故で死亡し、当
時の常務責任者で前社長が危険性を予見できたのに安全対策(ATS:自動列車停止装置)
を怠った責任を問われている。

 事故現場の安全対策を同じく放置してきた「JR西日本」としての責任を問われていた、歴代
の元社長3名については、地検は再三の控訴にも刑事責任を問えないと不起訴にしてきた。
 事件の背景には、私鉄との競合の中で収益優先偏重で安全性(対策)がなおざりにされて
きた「JR西日本」の体質があった。

 被害関係者からすれば、そういう「JR西日本の体質」を支えた歴代の執行責任者(社長)
の責任を許すことはできなかった。
 検察審査会は、関わるすべての執行責任者が問われない被害者感情、事故の起因として
のJR西日本の「体質」の責任を問うことが必要と決議して、元社長3名を強制起訴とした。

 指定弁護士が検察となって、当時の事故状況証拠をもとに立件することになる。ゼロから
の事件の掘り起こしで困難もあるが、不特定多数の安全輸送が最優先される企業の安全対
策を放置してきた歴史的、歴代の「体質」は問われて当然だ。

 (2)深夜の市内交差点で、パトカーに追われて赤信号の交差点に突入した外国人4名同乗
の乗用車。歩道で待機していた3名の若者をはねて死亡させて、現場から逃走した。その後、
警察に出頭して危険運転致死容疑で逮捕。外国人4名はカーナビ窃盗目的で、運転中に警
戒中のパトカーに追われて事故を起こした。

 運転者のひとりは危険運転致死容疑で起訴されたが、他の同乗者3名は同罪としては不起
訴(別の自動車窃盗罪で起訴)となった。
 パトカーに追われて逃走する乗用車に同乗する4名の危険運転致死罪の「共謀」は成り立
つのか問題となった。

 危険運転致死罪は、本来は運転者の責任を問うものだ。運転者の意思に他の3名の同乗者
の意思がどう反映されたのか、この事件では、しかし、地検の捜査の結果、共謀(危険運転の
申し合わせ)を示す証拠は見つからないとして不起訴処分となった。

 無謀な運転で死に追いやられた若者3名の関係者からは、同乗者4名全員の同罪での責任
を問えないことに、納得できない無念の声を聞く。
 同乗の4名は自動車窃盗犯であり、全員が警察(パトカー)からの逮捕を逃れるために法規無
視の自動車運転で逃走を続けた。

 運命共同体の無謀な危険運転走行車だ。同車内で、危険運転を阻止する行為、促す意思表
示が他の3名にはあったのか。もし「逃亡」を共同目的として、無謀で危険な運転を見過ご
す「不作為」があったのなら、これは同乗者4名の「共同正犯」だ。
 無謀運転で逃走の申し合わせがあったのか、なかったのかではなくて、危険を阻止せず見
過ごした「不作為」によっても、事故の共同正犯。

 (1)のJR西日本事故。直接行為者ではない安全管理執行責任者(社長)がようやく検察審査
会の強制起訴で立件される。
 (2)の危険運転事故。直接行為者(運転者)でない同乗の3名の、共同認識の同罪による責任
を問われて当然だ。

 罰則の適用は、要因、証拠、意思の明確でより慎重な対応はもとより必然だ。法整備も含めて、
「なぜ事故は起きたのか」、「誰もが事故を防ぐことはできなかったのか」、「どうして被害は起き
たのか」、事故防止(preventible accident)に向けての検証が求められる。


 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

労働対価の預金補償。  deposit compensation

2010-03-26 20:02:18 | 日記
 民営化に大きくカジを切った郵政事業。3年で見直すこととなっていたとは言え、政権交
代で「Uターン+アルファー」の根本的な見直しの方針が担当大臣(連立与党)から発表さ
れて、これに閣内コンセンサス(consensus)がとれていないと反対意見もでて、お馴染の
閣内不統一を露呈した。
 おそまつな閣内不統一は、行政組織の基本にかかわることなので、言う言葉もなく置いて
おく。

 国(政治・政府・行政)は、国民の生命、安全と財産を守るため、国民の投資(税金)の
もとに、主権国家(地域、海域、空域)を形成して他の国(地域)と対等な関係を維持する。
 国民は、労働の対価としての資金を自らの意思で、たとえば金融機関に貯蓄して生涯の
生活基盤とする。

 その貯蓄先のひとつ「銀行」は、かって取り立て不能と思われる物件(債権)への融資
(一部国策によるものもあったかもしれないが)による不良債権問題で多額の債務を抱え
て、そのほとんどが経営破たん状態に陥った。

 この時も、国は国民の財産保護のため、しかし国民の税金を投入して銀行の経営を支え
て倒産を防いで、結果として国民の財産(預金)を守った。
 この頃、国の事業であった郵便事業の中の貯金事業は経営基盤も盤石(ばんじゃく)で、
金利も高くて国民の資金が潤沢に流れ込んでいた。

 それから、経営破たんによる銀行の預金者保護責任として、上限1千万円が設定されて、
郵便貯金事業の貯蓄上限もこれにあわせて1千万円と制限された。
 国民の労働の対価であり、生涯の生活基盤となる資金の預金が、『全額』補償(複数の銀
行に分轄する手間を省く)される金融市場体制の整備は、国民の財産を守る国としては当然
の責任なのだから、この上限1千万円の銀行預金補償制度は権利保護の原則に反して、理
解しがたいものだ。

 銀行は、その後、国民支援による投資配分で経営を立て直して、不況下の中小企業支援
(moratorium)ではこの時の教訓なのか、パラドックス(paradox)として「貸し渋り」、消極的ス
タンスが見えて、国民援助への恩をアダで返す仕打ちを見せる。

 今回提示されている郵政事業の見直しでは、郵便貯金の上限を1千万円から2千万円に上
げるもので、閣内からは民営(銀行、金融機関)との整合性を欠き、これを圧迫するとの反対
意見が出ている。

 国民からすれば、貯蓄の有効な選択肢、開発商品が増えるわけで、とりわけ一方の銀行
を守るためだけに市場一致協力をするわけにはいかない。銀行は、すでに国民の投資で企
業再生をはかったのだからだ。

 銀行も経営の自助努力、高機能の商品開発で市場競争を高めれば、国民にとってもいい
環境なのであって、郵便貯金改革を民営(金融機関)との整合性や市場の均等配分のため
に、国が関与して金融市場レベルをあわせる必要はない。
 選ぶのは、投資(貯蓄)する国民だ。

 郵政の潤沢な資金運用について、国民生活全般、社会資本に「還元」できる企画、開発、
システムを整備すべきだ。
 その他、組織再編によるサービス向上、雇用創出の効果もあり、しかし、この上郵貯と簡
保の500億円収益の消費税減免など、精査すべき問題点もある。

 国民生活にとっての政治、行政は不連続線(line of discontinuity)ではない。政府には、
高度な先見性をもって中、長期的な政策実行を求めたい。

 
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする