いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

国の形態と原発。 national political form and atomic power plant

2011-07-31 19:37:50 | 日記
 (1)世界の国の形態(national political form)は千差万別、民主主義、自由国家もあれば社会主義、共産主義国家もあり全体主義国家も主権を主張して内政不干渉の国民を抑圧統治している。
 軍事力を整備拡充して主権を守り、他国、領域を侵略して主権に介入する国もあれば、戦力不保持で中立、同盟関係で主権を維持する国、政治、経済、平和を地域同盟として国家連合体を組織して共生共存する国体と組合わせは自由自在の時代だ。

 主権と言えば、領域、国民、統治(政治)が基本となるが、国家形態によってそれぞれの比重価値、考え方が違ってくる。みな同じとはいかないから、「問題」、「課題(political subject)」への取組み、解決方法(solution)、対応に個別差が出るのは当然だ。

 (2)軍事力で他国を威嚇し侵略し、主権に介入するテーゼ(these)の国では、自国民に対する「犠牲心」の度合いは総じて高い。国民の犠牲を踏み台にしても、国家目的、世界戦略、覇権のために国民を投資することがプライオウリティ(priority)になる。
 
 戦力不保持で主権を主張する国では、国際的な同盟、経済協力関係では「国民」は貴重な財産で、国力のすべてを代表することになる。

 (3)核兵器を保有し、世界戦略で強大な戦力を使用する国の「原発」対応と、戦力不保持の国の「原発」対応とは、自(おの)ずと基本理念が異なってくるから、理論理念上は追随も同意も本来不可能だ。

 米国は、使用済核燃料の最終処分場を異国モンゴルに建設する計画がある。「10万年から20万年もの間、安全に管理する必要がある」(報道)途方もない原発使用済核燃料の処理が必要な原発事業だ。

 (4)日本は世界で唯一の被爆国だ。「核」能力、その被害の大きさに対する特別な思いは毎年の広島、長崎で確認し続けている。戦力不保持(自衛権は論議のあるところ)の憲法で核兵器、核の影響力のない世界に向けてイニシアティブ(initiative)をとるべき立場の国だ。

 そういう国がとるべき「原発」対応は、当然核兵器を保有して国民の犠牲のもとに戦力で世界戦略、覇権を目指す国とは比較にならずに違う。
 原発の「危険性」、パラドックス(paradox)としての「安全性」がエネルギー対効果(環境適応性)以上に分析、検証されての導入理念が求められていたはずだ。
 高速鉄道事故でも、犠牲者が出ていながら原因究明も不十分(または不作為)なままの運転再開の国もある。

 (5)国家体系、形態の違いはグローバル化した国際政治、社会の中でも基本理念の違いが本来鮮明のはずで、一様に同様とはいかないことを知るべきだ。
 グローバル化された政治理念の中でも、米国には米国の「やり方」があれば、日本には日本の「やり方」がある。米国追随ではない、日本の良心、正義、信念、国民主体の主権理論で原発、経済、政治の今日の課題を検証し、世界に発信することが主権国家日本としては重要だ。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内外を取り巻く深刻。 seriousness surround at home and abroad

2011-07-30 20:14:29 | 日記
 (1)日本を取り巻く内外の政治、経済、社会環境が厳しい中(seriousness surround at home and abroad)、被災地、被災者の間では復興支援、原発事故収束の遅れで現実のものとして受け取られているだろうけれど、国民には本当の日本の置かれた現状を正しく把握しそれ相当の危機感を持って捉えられているのだろうか不可思議に思える。

 ①日本と同じ上、下院ねじれ現象で米国家財政不安(連邦債務上限引き上げ問題:国債発行増枠)、デフォルト(default 債務不履行)が懸念されて、欧州金融不安と相まってこれが1ドル77円の急激な円高に反映されて日本の輸出基幹産業を直撃している。

 ②やめると言って条件を示して、個人的見解の政策論議に終始して無為無策ひとりよがりの首相のもとでは、エネルギー政策の転換(エネルギー環境会議)も復興基本方針(復興対策本部)も具体性に欠ける基本軸のない政策実行力、推進力、効果に欠けるものだ。

 減原発、再生可能エネルギーへのシフト、温暖化、電気料金、電力供給への影響の検証は先送りして、復興財源として当初5年間で10兆円規模の臨時増税を目指しながら、5年~10年のスパンでの臨時増税と期間を曖昧(あいまい)にして見直され、決定された政府の復興基本方針からは結局そっくり削除された。
 やめる首相のもとでは、将来にわたる政策の拘束力に必然的な歯止めがかかって、政策、理念は「絵に描いた餅」で復興支援、国民生活を直撃している。

 ③首相は一旦は個人的見解とした「脱原発」をわざわざ「政府として進めていく」と大見栄を切って見せても、エネルギー環境会議が出した中間整理では「減原発」と首相との方向性の違いを意に介さない。

 (2)内閣支持率が軒並み10%台のやめる首相のもとでの「政府無統治」状態だ。首相と何かと確執のある経産相は、復興対策本部会議を欠席して同党議員パーティーに出席し首相の政権運営を批判して、委員会審議では答弁中に悔し涙を流すと言う異常ぶりだ。

 4か月経過しても財源の裏付けのある本格的な復興方針も出せずに、急激な円高対策、雇用不安、値上げラッシュに原発事故の影響力(放射性物質、健康、食品肉牛)の拡散と5年、10年と国民投資(税)、生活に負荷、負担を増やすことを覚悟しなければならない。

 税と社会保障の一体改革でも財源を国債発行か消費税増税か所得税、法人税増税かで結論が出ずに支給年令の先送り、電力会社、それを指導監督する原子力安全・保安院の「複合やらせ」問題は、社会のパラダイム(paradigm)を根底から破壊する。

 日本の内外を取り巻く環境は大変深刻だ。首相は、1年余りの政権運営を直視して、かって市民運動にかかわった国民生活利益を守る理念からも、早期に退陣して現状を回復、改善することが進むべき道だ。
 回復、改善に向けた政権、党の「あきらめ」は、その分、後年になって国民に大きな負荷、負担を強いる。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電力値上げと独占。 price raising and monopolistic enterprise

2011-07-29 19:53:06 | 日記
 (1)電気・ガス料金が9月から最大で1.5%全社値上げされる。6か月連続の全社値上げは原燃料価格の変動相場制が始まった09年5月以来、初めてのことだ。(報道)
 政府は、当初は原発事故収束を料金に還元しての値上げを認めないと大見栄を切っては見せても、脱原発にシフトして料金反映も止む得ないとまたもや方針転換の有り様だ。急激な円高(1ドル77円台)効果は、今後の値下げ要因ではある。

 福島原発事故の政府対応を受けて、電力各社は原発から火力発電再開へシフトを余儀なくされて、予測もしない再稼働経費がかさみ軒並み赤字決算を予測している。
 政府の原発主導のエネルギー政策の中での事業展開が、同政府の脱原発シフト(首相の個人的見解)により変更を求められて応急設備投資(火力発電)の急増が今は「経営を圧迫」しているという、やむを得ない特殊事情は一応考えられる。

 (2)「一応考えられる」とは、農業同様に国のエネルギー保護政策で全国地域を分轄して、各電力会社に独占経営権(monopolistic enterprise)を与えて、長らく市場独占による利潤独占化体制を敷いてきた。

 競合のない市場独占(寡占)化は、有利な経済環境時には将来設備投資留保のためとして値下げせずに資金を留保して、不利な経済環境時には即座に料金値上げに反映してひたすら独占経営体質の強化につとめてきた。

 この独占企業体質は、コンプライアンス(compliance)無視の隠ぺい、改ざん体質を生んでさらに「やらせ」まで加えて、企業利益偏重主義で経営実態の不透明を増長させてきた。
 震災非常時の電力の総供給力分析でも、一部除く各社20%もの見積もり不足が指摘されて自己保身ばかりのエネルギー供給の社会的使命、要求、貢献に応えようとしない企業体質のままだ。

 (3)今回の値上げでも東電の値上げ幅(1か月当たり93円)が最も大きくて、東日本大震災の被災者への負担増をも強いる以上、まずは市場独占企業としての経営実態、能力、留保資産の内容、実態、情報の開示をして合理性、整合性のある理解を求める必要がある。東電の資産処理(売却、年金充当)、国営化の話題もいつしか不透明のままの中での値上げ容認だ。

 競合、自由競争のない市場、産業は淀(よど)み、開発力、技術力、経営効率力、推進力は衰退する。
 政府も脱原発、再生可能エネルギーシフトに向けて、発電、送電の分離による電力自由化競争を検討している。将来対応は別にしても、独占企業としての電力各社の「経営実態」(株主総会もどきでない)について全容開示を義務付けるべきだ。

 それでも隠ぺい、改ざん、やらせ体質の回復、信頼回復には時間を要するほどの不透明な電力事業経営だ。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマトの品質が悪い。 a tomato bad in quality

2011-07-28 19:55:09 | 日記
 (1)夏にはトマトが欠かせない。水分は豊富にあるし、赤もの野菜の希少価値もあって夏にはまとめて毎日食べる。野菜も果物も、近年は本来の土着の味を改良して総じて甘みに基準が統一されて出回るようになった。

 食材の味も、本来の独特な味であっても両極端を切り捨てて中庸の甘みに近づけた成育、味付けで、費用対効果の高いリスク回避の結果としてどの野菜も果物も特徴のない「味覚没個性化」の時代だ。

 多様多売、競売の効率化を目論む小売り、スーパーからの購買力に応えるための独特の味、品質で勝負できない注文、需要に応える生産者(農家、事業者)の経営偏重の農業事情が反映されている。

 (2)5年前ぐらいからトマトも含めて野菜、果物の味、品質の不作(a tomato bad in quality)が目につくようになってきた。その間、ある年は余りにもひどい味、品質が続くので、1年トマト食用を止めたこともあった。

 地球温暖化による天候不順、5月から発生、早くから影響力を及ぼす台風の気候変動も大きな要因ではあるが、一次産業(農業、漁業、林業)の継承者不足による技術継承力、開発推進力不足も影響しているのではないのか。

 (3)日本農業は食糧自給率確保のために、高い技術力、開発力を持ちながら他の産業に比較して国からの過保護政策、丸抱えが長く続いてきた。
 その間の産業構造の変化、革新に対応できない農業潜在力の衰退にともない、農業にも産業としての企業参加が相次いで栽培システム、環境(科学性導入)の変化、成育の効率化で味覚、質感、品質の「水準化」が進んで、野菜、果物の本来の土着性、品質力が失われていった。

 (4)一部には独自の思想、理念にもとづいて、栽培に工夫、改良、開発を促進して消費者の支持を集め貴重な農業スタンスを確立している事例もあるが、こういう事例が特殊であることにパラドックス(paradox)として農業全体のレベルダウン、衰退を示すものだ。

 農業は、国の過保護政策の中で自ら活性化、成長力を損ない、味と品質力の劣化を招いてきた。産業構造の近代化、変化は基本にあるとはいえ、他の産業同様に自由競争の中での相互に活性化、成長力を備えるべきであった。

 (5)日本の農業力は、天候不順などにも対応できる栽培力、開発力、技術力の潜在能力(potentiality)は高いものがあり、国際競争力も十分に備えている。
 この期に及んで日本農業は時代錯誤の国の過保護政策にすがるのではなく、TPP条約のもと他の産業同様の構造基盤の中で自立し、競合し活性化の努力、成長をはかる決意、意欲が求められている。

 今年の日本の夏の「スイカ」は、59%値上げの1個3000円超、高級料理並みの値段設定だ。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私的な財津和夫論。(第22回) private essay about k. zaitsu

2011-07-27 19:40:56 | 日記
 「私的な財津和夫論」第22回は、「welcome to my house」です。
 22 welcome to my house
長崎市。1600年~1800年代の江戸時代には江戸幕府から遠く離れた異郷の港町として出島にオランダ領事館が置かれて、唯一外国との交易、交流が行われた土地です。ヨーロッパの文化、経済、医学が伝えられて、オランダ坂、グラバー邸のオペラ「蝶々夫人」の舞台にもなった坂の街です。

 そして1945年8月9日に米国による原爆投下で世界で唯一、広島とともに被爆の非人道的戦禍を経験した街です。破滅的な惨事からその後の観光と造船、平和による「復興」は著しく、街はすっかり現代都市化して再生している。

 九州人にとっても長崎は特別ノスタルジア(nostalgia)のあるところで、財津和夫さんもずっとあこがれの地であったと言っています。
 財津さんの初期の作品は、よくビートルズの影響を受けた(もちろんビートルズサウンドに触発されていた)楽曲という捉えられ方をしているが、流れるように揺れてスピード感のある透明な小川のような美しいメロディラインの財津さん本来の持っているサウンド志向、特徴の強いものである。

 1976年6月5日にアルバム「all because of you guys」でチューリップとしてビートルズの完全カバーアルバムを発表して、1977年8月5日にアルバム「welcome to my house」を発表しますが、プロローグ(prologue)の「welcome to my house」は、これはビートルズサウンドを強く意識したビートルズがスタジオワークとしてよく使った変調も効かした(「ハロー・グッバイ」のような)曲想になっています。

 手元に当時東芝EMIから発売された同アルバムレコードがあります。アルバムジャケット(jacket)は、夏の木漏れ日の中、ヨーロッパ風建物の庭園の中で、財津さんと安部さんはシャーツのボタンをはずして胸をはだけて立ち、上田さんは上半身はだか、姫野さんは木陰で読書の構図です。犬が一匹横を向いてすわっています。ベランダの前に2つの大きな白いアジサイの花群が印象的です。

 このアルバム写真、スタッフが探し回って長崎市内の当時活水女子短大(現活水女子大)の何かの記念建物の庭園で撮影されたものです。余談として、当時チューリップの誰か(記憶にもうほとんどないのですが、上田さんだったか)が活水女子短大(高等部)出身の女性とフレンディなお付き合いがあった関係もあったと聞いたような気がします。

 数十年前に長崎を訪れた時に、その日も暑い晴天でしたが急な坂の路地を登って急にひらけた活水女子短大の誰もいないこの庭園を踏みしめたことがあります。もう、このアルバム写真とおなじシチュエーション(situation)、色合い、芝生がそのまま残っていて、チューリップ「welcome to my house」の気分を空気をそのまま味わった、これははっきりと記憶がよみがえります。

 このアルバムは、草野さん、新田さんのプロデュースコンビにデザインの大野さん、西田さん、小野さんのマネージメントに同郷のマンガ家長谷川法世さんの絵、文字に塩瀬さん(クレジットに for walking dictionary)という当時の強力スタッフが参加して制作されています。

 ちょっとハードスタイルな財津さんの詞曲「僕はライオン」、メロディラインの美しいイントロの音の韻を踏む印象的な「置いてきた日々」、「たしかな愛」、エピローグ(epilogue)の「人生の始まり」では「できることならば 命尽きるその日まで 声を限りに歌い続けよう たった一つの僕の道だから」力強く財津さんは歌い切っています。そして、来年は音楽活動40年を財津さんは迎えます。
                           〔転載禁止です〕

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする