猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

前橋の路地は『馬場川沿いの路地 その一』です。それと、黒猫の熊野詣とはかりめ丼

2017-11-24 07:08:12 | 前橋の路地

昨日の朝は夜来の雨がまだ降り続いていました。ご用で上京する糸駒は傘をさしてタクシーに乗り込んでいました。
糸駒が出かけて間もなく雨はやみました。二階の窓からご近所さんちの屋根の間に赤城山の鍋割が雲間に浮くように姿を見せてくれました。

 雨粒の波紋がなくなった水溜りには、葉の落ちた柿の木の枝が映っていました。
でもね、昨日も庭仕事はパス、ずぶ濡れになっちゃいますから。で、他の頼まれ仕事だの、自治会の組長の仕事なんかしてたら昼過ぎになってしまいました。

  用足しに出かけるのに通りかかった裏弁天通、裏路地には落ち葉がいっぱいです。

今日から、前橋の路地で三河町1丁目の馬場川沿いの路地を取り上げます。明治7年開校の中川小学校のところから国道50号と赤城県道の交差点にあるホテルの裏手までの路地です。馬場川は本町と三河町の境界を流れてますけど、川沿いの路地は三河町です。
一度で書けないのでしばらくシリーズで書き続けることになります。よろしくお付き合いください。

 

   
前橋の路地 第19回 馬場川沿いの路地 その一 眼鏡探しの思い出

 物心ついたころから通ってきた道だ。
当時は天川の戦災住宅で暮らしていた。母につれられてまちへ出るとき、両毛線の線路伝いを歩き、新町の踏切から日赤病院の方へ進むと焼まんじゅうやかき氷を商っている下山商店の角に出る。そこから、線路と並行している路地をまちに向かうと中川町(今は国道50号沿いの朝日町と本町の東ハズレ)の松竹院の裏手に出て、そこで馬場川に出会う。川は国道50号の道路の下をくぐり抜けて来ている。国道を渡ると、中川小学校の校庭の南西の隅でまた姿を現し、国道の崖下、流れはまちまで続いていた。
流れの北側、芳町(今の三河町1丁目)側に川沿いの路地が続いていた。母に手を引かれて歩いた道だ。

 写真を撮っていたら犬を連れて散歩しているおじさんが、「おい、お前も撮ってもらいな」と犬にすすめる。「住む人が減っちまって、寂しくなったいね、昔は賑やかだったんだけど、芳町も…」という。
犬の背後に水門がある。この水門は馬場川が農業用水として使われてきた名残だ。ここから馬場川は南へ流れ、天川原町の田んぼに水を届けている。この水門で分水した水は、中川小学校の中を流れ、旧中川町から大塚町にかけての田んぼに水を届けてから、端気川に合流していた。

馬場川には対岸の家の数だけ橋が架けられている。川の南側で暮らす人は川に橋を架けて出入り口を確保している。水道管も川を渡って繋がれている。
川に浮かんでいる小舟は、ここでアヒルを飼っていた人がいて、そのアヒルの休憩場所だ。今はアヒルはいない。

  以前、この辺りの薮でカルガモが営巣し、川面で子育てをした。その時は、小舟はカルガモの幼鳥の休憩場所となっていた。

まだ、6畳と4畳半二間の戦災住宅で暮らしていた時のことだ。夜寝ていたら大きな声が聞こえ、一緒に寝ている姉二人とそっと起き出して声の方を見る。土間で、父が頭から水を浴びせられていた。冬のことだ、冷たかろうに…

  川にかけられた橋だ。左は住む人を失った家の橋、右は今も暮らしのある橋だ。端に並ぶ植木鉢がその違いを教えてくれている。

翌朝すべてが分かった。父は酒に酔って帰宅する途中、馬場川へ落ちたのだ。それで、どろどろになって帰ってきて水を浴びせられていたのである。県の教育委員会から通勤用に支給されていた自転車は川から引き揚げて押してきたらしく土間にあった。
「眼鏡落としてきたから、探してきなさい!」、母から命令が下った。

 当時の川沿いの路地には住宅だけでなく店屋もあった。今も青柳商店という食糧品を商っていた店の建物が残っている。営業はしていない。
店の前の路地、馬場川の岸にフェンスが見えているが、昔はフェンスなどはなかった。落ちるのは簡単だった。ここではないが、今の東和銀行本店裏の馬場川に軽自動車が落ちているのを見たことがある。「酔っ払いがさ、みんなしてもちゃげて、抛りこんじゃったのよ…」、近所のおばさんの嬉しげな解説を聞いた記憶が残っている。

 使われなくなった丸木を二本結わえた橋だ。こんな簡便な橋も残っている。落ちて不思議はない。

中川小学校のところから川底をのぞいて歩いた。一所懸命川底にメガネが沈んでいないか見つめていた。冬の馬場川は水量も少なく、水も澄んでいる、落ちていれば見える。

 でも、眼鏡は見つからなかった。父は、しばらくの間、眼鏡なしで仕事に出かけていた。まことに変だった。まだ5歳ごろの記憶、馬場川にまつわる一番古い思い出だ。

馬場川沿いにはいくつもの寺が並んでいる。まちに向かって最初は旧中川町の松竹院、次が正幸寺、その次が養行寺、そして隆興寺、赤城県道近くの東福寺、県道渡って明聞寺、六つの寺が並んでいた。
中川小学校のところから川沿いの道に入って最初の寺が正幸寺、その手前のおおきな紅葉した樹のある空き地には米屋があった。猫が飼われていた。

 
           前橋の路地 おしまい

 

 夕方近くまちで黒猫に出会いました。立川通りの蕎麦屋『大川屋』の脇の路地です。どこから来たのかは分からないのですが、どこかへ行こうとしています。ついていくことにしました。

   黒猫は立川通りの裏通りに向かいました。角でちょいと呼吸を整えて周りを窺って、左の歯科医院の建物に沿って歩いて行きます。まさか歯医者に用があるわけはないと思ってたら、道を横切って反対へ進みます。

  熊野神社の鳥居をくぐって拝殿前まで来ると、すっと背筋を伸ばして社をしばらく見上げていました。それから拝殿の脇へ回って姿を消しました。
黒猫の熊野詣でした。

 昼過ぎには晴れたのですけど、勢いよく雲が流れていた一日でした。
日が落ちるころ、上京していた糸駒が帰ってきました。

 

   夕食はアナゴ丼に野菜汁、ヤリイカのカルバッチョ、それとヤリイカのげそと金時草の柚子ポン酢和えでした。

 このアナゴ丼、いつものと少し違うんです。
テレビの『三宅裕司のふるさと探訪』って番組見てたら訪ねた先が千葉県の富津市、そこで「はかりめ丼」って食べ物探してたんです。「はかりめ丼」って何だろうなと思って見てたら、富津で獲れたアナゴを煮て丼飯に載せて炙ったものだったんです。アナゴ丼なんです。なんで「はかりめ」っていうかというと、生のアナゴの皮目の模様が竿秤(さおばかり)の竿に彫りこまれた「秤目」に似ているからなんだそうです。知りませんでした。

ただね、普通のアナゴ丼と違ってさすがは富津なんです。ご飯の上にたっぷりとモミ海苔を盛って、その上に煮アナゴ載せてバーナーで炙ったんです。海苔です、千葉海苔です。
それなんで、昨夜のアナゴ丼には、鳥山海苔店の千葉海苔をもんでたっぷり使わせてもらいました。うまかったです。江戸前の味になりました。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

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