思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

魂の真実

2008-04-10 14:22:12 | Weblog
医者が書いた本です。

霊魂や霊界について科学的見地から

書かれています。

世界観が変わります。

ぜひ読んでみてください。



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ノーベル賞物理学者レオン・レーダーマンが「対称性」を切り口に、ビッグバン理論や相対性理論から量子力学や最新宇宙論までを語る科学読み物。

宇宙は対称性で満ちている。

「物理系とは原子のような単一の粒子、あるいは分子、岩石、人体、惑星、全宇宙のような粒子の複雑な集まりであって、物理学のいろいろな法則にしたがって運動したり行動したりするものである。物理学というプリズムを通して見れば、本質的にすべてのものは物理系となる。もしある物理系にある変化を起こさせ、変化の後でもその物理系が変化の前とまったく同じであれば、その物理系は対称性をもつという。われわれが物理系に起こさせるそのような変化を対称操作または対称変換という。ある変換を加えても物理系が同じであれば、系はその変換に対して不変であるという。」

たとえば完全な球体があるとする。球体はその中心を通るどんな軸に沿って回転させても外観は変わらない。このとき球体は回転という変換に対して対称性を持っているという。そして、ちょっと動かしてもたくさん動かしても対称性は変わらないので連続対称性を持つともいう。(これに対して三角形や四角形は正確に120度や90度回転させたときだけ対称性を持つので離散的対称性をもつ。)。

本書はほとんどネーターの定理の本である。ネーターの定理とは「物理法則の何か一つの連続的対称性があれば、それにともなって一つの保存則が存在するはずである。何か一つの保存則があれば、それにともなって一つの連続的対称性が存在するはずである。」というものだ。対称性があるところには必ず保存則があり、保存則があるということは対称性があることを意味する。

たとえば、さきほどの球体の回転対称性には角運動量保存の法則が働いている。フィギュアスケートの選手が回転するとき、手を大きく伸ばしていれば回転はゆっくりだが、縮めると速くなる。角運動量が一定に保存されているからだ。

対称性は回転という変換に限らない。ビリヤードの二つの玉が衝突するとき、二つの玉は相互作用して別々に転がる。別の空間でまったく同じ状態を再現して衝突させれば、同じように転がる。そして全運動量は2回ともまったく同じである。空間の並進に対して運動量は対称である。空間に対する対称性には運動量保存の法則が対応しているのだ。

そして物理法則は時間における並進に対して不変である。厳密な環境で行うならば今日の実験結果が明日には変わるということはない。物理法則は時間という変換に対して対称性を持っているということだ。時間が進もうが戻ろうが宇宙という系全体ではエネルギーは増えもしないし減りもしないということを意味する。ネーターの定理の示すとおり、物理法則にはエネルギー保存の法則という対応を見出すことができる。

レーダーマンはさらに電荷の保存法則、バリオン総数の保存法則、クォークのカラー保存法則など、ミクロの世界、量子力学の世界における対称性と保存則について言及していく。ゲージ変換、ゲージ対称性、対称性の破れや超対称性など、変換や対称性の抽象度、複雑度が後半になるにしたがって次第に上がっていく。一般向けの本だが、後半の難易度は高めで要予備知識だ。

相対性原理、不確定性原理、量子力学、統一場理論など古典物理学と現代物理学の主要理論における対称性の役割が論じられている。こうして科学史を振り返ると、対称性を発見してそれに対応する保存則を見出すということが、科学の革新のパターンになってきたように見える。だから現代のノーベル物理学者である著者は、歴史に埋もれがちな女性科学者エミー・ネーターがいかに偉大であったか、を大いに讃えている。先にも書いたが本書はほとんどネーターの定理の本なのである。



1、心脳問題の歴史


The Qualia Manifesto

 私たちが心(mind)を持つという事実は、人類が自覚的な意識を持ってから長い間、当然の前提とされてきた。心の存在を前提にして、人間中心的な世界観が形成された。人間が心を持つことは当たり前のことであって、それがどのように成立するかということが深刻な問題として自覚的に問われることはなかった。このような態度は、例えばキリスト教における人間中心主義的な世界観に表れている。

 ニュートン力学の成功を一つの金字塔とする機械論的な宇宙観が成立するにつれ、世界全体を自然法則に従って機械的に発展する物質システムとしてとらえる見方が定着してきた。このような物理主義的な世界観が支配的になり、このような世界観の中には、私たちの「心」のある場所はなかった。

 デカルトは、心的現象と客観的物理現象を分離し、客観的物理現象のみを自然科学の対象とする方法論を打ち立てた。心的現象は明らかに存在するにも関わらず、それは自然科学の対象からははずされた。私たちの感覚の持つクオリアは、あたかも存在しないかのような擬制の下で、物理学を典型とする自然法則の解明が進んだ。

 今世紀の初頭、ホワイトヘッドは、私たちの自然観が、クオリアのような質感に満ちた心的現象の世界と、波動や粒子といった数、量で記述される客観的物質世界に分裂していることを指摘した。

 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーらの現象学者たちであった。サルトルは、ある時、パリのカフェの中で現象論学者に「君の目の前のコップ一つからも哲学をはじめることができるのだよ」と言い聞かされて、感動のあまり顔が青ざめたとボーボワールが証言している。

 心理学における行動主義(behaviourism)の運動は、クオリアや表象といった心的現象を本来特徴づける性質が存在しないかのような擬制の下で、個体における刺激ー反応の入出力関係のみを問題にした。行動主義は、心的現象の起源の解明という意味においては、不毛であった。行動主義は、やがて、機能主義(functionalism)につながっていった。

 一方、チューリングによるチューリング・マシーンの概念化や、フォン・ノイマンによる現代的なデジタル・コンピュータのアーキテクチャの設計によって、機能主義のプログラムは具体的なシミュレーションが可能になった。

 ミンスキーらによるstrong AIの立場(機能主義的にシステムを構成していくことにより、意識を人工的に再現することができるという主張)に基づく研究は、人間の知性を客観的なシステム構成によって再現しようという試みであって、機能主義の立場からの中心的な研究プログラムの一つであった。

 機能主義者は、しばしば「情報」(information)という概念に言及する。ここで言う「情報」とは、意味論を捨象した、シャノン的な意味での情報概念である。シャノンの情報概念は、統計的描像に基づいており、情報の意味論には何ら関与しない。それにも関わらず、シャノン的な統計的猫像に基づく情報概念が、脳の情報処理を解析するために用いられて来た。私たちのある事物の認識は、その事物にだけ選択的に反応する性質(反応選択性、response selectivity)を持つニューロン群の活動(一般には、時空間的なパターン)によってもたらされるという考え方が典型である。反応選択性は、統計的にしか定義され得ず、個々のニューロン群の活動の時空間的なパターンがいかにして私たちの心の中にある一定のクオリアを生むのかという心脳問題の核心には答えることができない。

 機能主義的な脳の情報処理へのアプローチは、行動主義と同様、「クオリア」や「主観性」のような心の問題の本質の解明には寄与するところが少なかった。

 機能主義に代表される客観主義的科学において「心」の問題が扱われていない間隙を縫って、いわゆるニューサイエンスやスピリチュアルといったジャンルが隆盛した。しかし、これらの文化的動きは、客観主義的科学との整合性について真摯ではなく、いわば人間の主観的なファンタジーの世界(それはとりもなおさず心の中のクオリアや表象の世界に過ぎないのだが)に閉じていた。したがって、ニュー・サイエンスやスピリチュアル・ムーブメントが心の科学の真のブレイクスルーに繋がることはなかった。むしろ、ニュー・サイエンスやスピリチュアル・ムーブメントは、心的現象への関心を持つことがいかがわしいものであるという科学者の間の偏見を増長したという意味で、ネガティブな側面を持っていた。

 このような中で、心脳問題に関する真摯な思考を積み上げてきたのは、哲学者たちだった。

 ダヴィッドソン(Davidson)は、"Mental characteristics are in some sense dependent, or supervenient, on physical characteristics. Such supervenience might be taken to mean that there cannot be two events alike in all physical respects but differing in some mental respect, or that an object cannot alter in some mental respect without altering in some physical respect." と述べて、この後心脳問題を考える際に重要になる「重生起」(supervenience)の概念を提唱した。

 1980年代の末から、科学者の間でも、意識の科学的解明に対する関心が高まった。

 クリック(Crick)は、意識の持つ様々な属性の中でも、視覚的アウェアネス(visual awareness)を解明することを最初のターゲットとするべきだとして、意識の科学的解明に関するキャンペーンを推進した。

 ペンローズ(Penrose)は、1989年に出版された「皇帝の新しい心」(The Emperor's New Mind)の中で、機能主義的な人工知能で意識が再現できるというstrong AIの主張を「裸の王様」であるとして激しく批判した。デジタル・コンピュータ上で実現できる計算は、「計算的」(computational)と呼ばれる範囲となる。ペンローズは、意識は、非計算的なプロセスを含み、このような意識の属性は、未解決の量子重力理論と関係しているというコンジェクチャ(conjecture)を提出した。

 デイヴィッド・チャーマーズは、1994年、The Conscious Mindの中で、「クオリア」こそが心脳問題における「難しい問題」(The Hard Problem)だと主張した。チャーマーズは、心脳問題において「クオリア」を表舞台に立たせる上で、一定の政治的役割を果たした。チャーマーズの主張の特徴は、機能主義と質的二元論(property dualism)を同時に主張した点にあった。

 アリゾナ大学のグループは、意識の研究センターを立ち上げるとともに、意識に関する国際会議をアリゾナ州ツーソンで2年毎に開いている。アリゾナ大学の活動が一つのきっかけになって、意識の研究に関する国際会議が頻繁に開かれるようになった。しかし、アリゾナ大学の研究者たちが中心になって推進している意識への量子力学的アプローチは、行き詰まりを見せている。その最大の理由は、意識への量子力学的アプローチが、私たち人間が通常意味するところの「意識」を生み出している脳のシステム論的な性質に無関心であり、脳の素子のミクロな性質を論じることに終始していることである。極端なことを言えば、量子力学的アプローチにおいて問題にされている「意識」は、(そのようなものがあるとしてだが)全ての物質系に共通の一種の「原意識」(proto-consciousness)のようなものであって、脳科学者や認知科学者が問題にしているところの「意識」は全く別物であるとも言えるのである。

 

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2、「クオリア」と「主観性」


The Qualia Manifesto


 

 クオリア(qualia)とは、私たちの心の中の表象を構成する要素の持つ独特の質感のことである。例えば、「赤の赤い感じ」がクオリアである。

 私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。

 クオリアの中には、階層構造がある。クオリアが階層的に集合して、より複雑な表象(representation, Vorstellung)が生じる。例えば、ガラスの透明な質感や、ガラスの表面の色はクオリアであり、このようなクオリアが集合して、「コップ」という表象が構成される。

 クオリア(qualia)は、現在までの様々な神経生理学的データを検討すれば、ニューロンの活動、とりわけ活動電位(action potential)と呼ばれる膜電位の変化によって生み出されることは明らかであるように思われる。

 クオリアや主観性は、従来の客観的視点に立った物理主義の延長ではとらえきれない。客観的な立場からは、ある物質系がどのように時間発展をするかを記述できればそれで必要十分である。しかし、クオリアや主観性が、ある物質系の時間発展に伴ってどのように現われるかを記述する法則は、時間発展の客観的記述を与える法則とは全く性質が異なる。

 素粒子論的な意味での「究極の法則」(Theory Of Everything)が例え成立しても、それは物質系の客観的な記述を与えるだけだから、クオリアや主観性の問題の解明にはつながらない。例え、物理主義的な意味での「究極の法則」が成立したとしても、クオリアや主観性を記述する自然法則は、そこから始まる全く新しい領域に属する。ここで前提になっているのは、心的現象もまた自然現象の一部であるという描像である。

 クオリアや主観性に対応する脳の中のニューロンの活動を明らかにし、そこにどのような対応原理が働いているのかを理解し、脳を含むどのような物質系に、どのような条件が満たされた時にクオリアや主観性が宿るのかを明らかにすることが、現在人類に与えられている最大の知的挑戦である。

 クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように生まれてくるかということは、デジタル・コンピュータにおけるコーディングと同じ思想に基づいている「反応選択性」(response selectivity)の概念では説明できない。私たちは、認識におけるマッハの原理(Mach's Principle in Perception)から出発しなければならない。

 クオリアは情報の意味論的側面と深く関連する。クオリアは、シャノン的な情報理論では全く解明することができない。

 クオリアが埋め込まれる主観的な時空構造が、脳のニューロンの発火からどのように構成されるかを考える際には、因果性(causality)が本質的な役割を果たす。特に、主観的な時間の構成においては、相互作用同時性の原理(Principle of Interaction Simultaneity)が出発点を提供する。

 主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターン(The neural correlates of qualia)の解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。

 ここにおける「主観性」のアプローチは、量子力学の観測問題において示唆されて来た「主観性」の役割と直接の関連性を持たない。私は、量子力学における「観測」の概念、及びその背後にある「主観性」の概念は、いたずらに議論を混乱させてきただけだと考える。

 クリックとコッホが提唱している、前頭前野に直接投射する脳の領野の活動のみが視覚的アウェアネスにのぼるというようなモデルは、トリヴィアルな主観性のモデルである。このように、主観性の座(ホムンクルスのいるところ)をどこかに置き、そこへの情報の伝達としてアウェアネスを説明しようとする試みは、主観性の問題の本質的解決にはつながらない。私たちの最大の課題は、ノン・トリヴィアルな主観性のモデルを作ることであるが、このことは現時点ではとてつもなく難しい。

 ノン・トリヴィアルな主観性のモデルを作る上で、志向性(intentionality)の概念が重要になってくると思われる。ここで、志向性とは、ブレンターノが心的表象に特有の性質とした性質で、私たちの心が「○○に向かいあっていること」(directedness)を指す。両眼視野闘争や、ブラインド・サイトなどの現象を含めた視覚的アウェアネスの性質を説明するためには、志向性を、クオリアとは別の心の表象の要素と考える必要がある。

志向性と視覚的アウェアネスに関するTokyo '99の発表



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