思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

命の目的  天使との対話    空想です 

2017-07-20 15:23:54 | 思想、哲学、宇宙論
・・・・命はどのくらい重いのですか。


天使曰く

命ってとっても軽いんだよ。

だから命は、死んで体から離れると上に昇っていく。

重いのは体の方さ。

物質の粒子というのは、命のエネルギーがギュッと固まって質量を生じたものだからね。

宇宙の本体は命のエネルギーで、物質は命のエネルギーの塊だ。

生命は、命のエネルギーの塊である物質的身体に、命のエネルギーが合わさったものだよ。

だから生きていることができるんだ。



・・・・・なるほど、では死ぬとはどういうことですか。



死というのは命のエネルギーが体から抜け出すことだよ。

命のエネルギーだけになっても、その人の意識は残り続ける。

宇宙の本体である命のエネルギーには大きな目的がある。

それは宇宙を進化させることだ。

生命は物質宇宙を進化させるために存在する。

特に人間は宇宙の進化に重要な存在であるため、

人間を殺すことは宇宙の進化を妨げる行為になる。

そういう意味では人の命は重いと言えるだろう。





・・・・・・・・それでは人を殺しても許されるのですか。





3回目までは許されるが、4回やると宇宙から消滅される。

仏の顔も3度までじゃ。


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魂の法則

2017-07-19 16:53:52 | 思想、哲学、宇宙論
http://tamashiinohousoku.blogspot.jp/p/blog-page_3.html
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物質と命

2017-07-18 12:38:48 | 思想、哲学、宇宙論
ビッグバンは命のエネルギーの緩やかな大爆発であり、

宇宙は命のエネルギーで満たされている。



命のエネルギーは共鳴により意識を生じさせるので、宇宙は意識を持っている。


物質は、命のエネルギーがギュッと固まり凝固したものである。

物質とは命の活動を止めた命のエネルギーの塊であり、

核爆発は、固まった命のエネルギーを一気に解放した結果である。

科学は物質がテーマであり宗教は命が主要なテーマであるが、

物質と命が命のエネルギーの異なる状態に過ぎないとすると、

科学と宗教の融合は可能であると思われる。


命のエネルギーの本質は愛と創造と進化であり

宇宙の歴史は命の歴史です。

命のエネルギーとは現代科学では測定できない電磁エネルギーで

光よりも音に近いエネルギーであり、音楽で表現が可能です。


人工的に作ることも可能ですが、作り方によっては

死のエネルギーになってしまうようです。
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宇宙の命 神

2017-07-17 13:00:22 | 思想、哲学、宇宙論
神とは宇宙の命である。

宇宙はこの命の働きで進化し発展し続けるのだ。


宇宙の全てはこの命の現れである。

秩序、法則、物質、生命、自然はすべて宇宙の命の働きが生み出した。

宇宙の命は目に見えない次元に存在し、バイブレーションによって万物に働きかけ進化を促す。

個々の生命は宇宙の命の一部が宿ったものである。

一つの命は巨大な命の一部である。

人間のエゴイズムとは命が歪んだ形で現れたものである。

宇宙の命が目指すのは共存共栄と進化である。

ビッグバンは命のエネルギーの大爆発です。
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『万物の理論』ケン・ウィルバー[著]/岡野守也[訳]

2017-07-15 12:43:36 | 思想、哲学、宇宙論
『万物の理論』ケン・ウィルバー[著]/岡野守也[訳]

本 文

訳者まえがき

 ケン・ウィルバーは、現代アメリカの、というよりは現代の世界の、もっともすぐれた思想家の一人であり、二十一世紀という海図なき嵐の海で漂流2遭難することなく航海し続けるための、今望みうる最善の羅針盤、最高の水先案内人であると思う。
 もし読者が、環境の崩壊、貧困、民族2宗教紛争、テクノロジーの暴走、グローバリゼーションのマイナス面などなど、列挙すれば果てしない現代の危機に直面して、「これはいったいなぜなのか」「どうすればいいのか」「はたして人類は生き延びられるのか」といった、深い不安をともなった疑問を抱いておられるとすれば、ぜひ本書を繰り返し熟読されるようお勧めしたい。

 宇宙の進化の中の人間の現在位置を明らかにすることによって、未来の方向をも明示するという、おそらくこれまでに接したことがないであろうスケールの大きな発想に触れて、当初、とまどいを感じ、理解に苦しむかもしれない。なぜこんな面倒なものを努力して読まなければならないのかといった思いにおそわれて、放り出したくなるかもしれない。
 しかし、立ち止まって考えていただきたい。すでに知っている知識や理論では、先のような現代の危機が起こるのはなぜなのか、どうすればいいのか、見通しがきかなかったから、もしかという期待で本書を手に取られたのではないだろうか。もしそうだとしたら、新しい、未知の理論を消化するのに、そうとうな心理的なコストをかけることは必要やむをえないとは思われないだろうか。投資しないで利潤を得ることはありえないというのは、経済だけの原則ではない。「そうか、こう考えればいいのだ」「こうすればいいのだ」という思想的2実践的な展望を得るにも、理解のための努力という投資が必要である。

 本書にそうした努力に報いるだけのものが十分にあることは、筆者が保証する。筆者自身、『進化の構造』以来のウィルバーの著作に触れて、目の前が驚くほど大きく、そして明るく開け、そうか、これなら人類に未来はある、と感じ続けている(やや詳しくは巻末の「解説とあとがき」参照)。特に本書は、具体的にどうすればいいか、基本的な方向を実に鮮やかにしめしていて、きわめて説得的である。大きな問題に直面して、なぜかわからず、したがってどうすればいいかもわからず、途方に暮れかかっている時、本書は、「そうか、こうすればいいのか」という方向を示してくれる。
 もし読者が人類の未来に深い不安と疑問を感じておられるなら、それを勇気と希望に変える力を本書から得ていただきたい。ぜひ、理解の労を惜しまないでいただきたいと思う。
二○○二年 おそらくまちがいなく温暖化による猛暑の夏
岡野守也




読者への覚え書き

 千年紀の夜明けにあって、知の最前線のもっともホットな話題は何だろうか。アカデミズムの世界だけでなく、『アトランティック・マンスリー』とか『ニューヨーカー』といった知的流行雑誌の関心も惹くような話題とは。それは専門家だけでなく一般の関心も捉えるものだろうか。それは、長い間隠されてきた人間の条件を明らかにするものだろうか。「事情通」と称する人々は、説明しなくても、すぐに名前をあげ、その焼けるほどホットな新しい思想に顔を輝かせるだろうか。

 それは「進化の心理学」だという人もいるかもしれない。これは人間行動の研究に進化論的な原理を適用したものである。ご存知のように、数千年の自然選択の結果、ヒトのオスは性的に浮気者でありメスは巣づくりをするということになっている。確かに進化の心理学は、とてもホットな話題になっている。かつては最高に新しいホットな話題だったけれど、いまや気のないあくびとさりげない軽蔑で迎えられるようになった三十年続いたポストモダニズムに、取って代わろうとしているからだ。つまり、ポストモダニズムは過去のものになってしまったのだ(それにしても皮肉なことではないだろうか?)。ポストモダニズムは、学問の丘の王または女王であったし、破壊の権力を行使し、自ら以外のすべての思想を脱構築する能力のために、広範囲にわたって膨大な追従者の隊列を作り出してきた。

 進化の心理学は、人間の行動に関して、あらゆる行動は文化的に相対的で社会的に構築されたものだというポストモダンのおきまりの主張よりも、進化の原理のほうがはるかに面白くて説得力のある説明ができることを示すことで、そういうハシゴをはずしていた人々のさらに下から、ハシゴをはずそうとしているわけだ。進化の心理学は、実際人間の条件には普遍的なものがあり、よほど支離滅裂な考え方をしないかぎり進化は否定できないこと、そして何よりもポストモダニズムはもうまるで面白くなくなったことをはっきりさせたのだ。

 進化の心理学は、実際、進化の理解そのものの根本的に新しい分野である。それに先行するネオ・ダーウィニズム説では、進化はランダムな遺伝子の変異によるもので、自然選択によって、その中の(生存についての価値という観点から)より適切なものが残っていくと見なされていた。この理論は、いつも多くの人に非常に納得できない感じを残してきたものである。すべての並みはずれた生命力と複雑さが、宇宙は明らかに下降に向かっていると主張している法則、つまり物理法則だけに支配されていると推測された宇宙から、どうやって生まれてくるのかと。熱力学の第二法則は、現実の世界ではたえず無秩序が増大しているという。ところが現実の世界をほんの少し見ただけでも、生命はあらゆるところで秩序を生み出している、つまり宇宙は下降しているのではなく、上昇していることがわかる。

「カオス」と「複雑性」の理論において発見された革命的に新しい理解は、風呂桶からカオス状態で流れ出ていた水が突然、美しい渦へと自己組織化するように、物理的な宇宙には事実として秩序を生み出す内在的な傾向があると主張する。生物学的な生命そのものが、至るところでカオスから秩序を創り出している一連の渦なのである。そしてそうした新しくより高度に秩序化された構造は、物理的なものから文化的なものまでのあらゆるレベルに作用している、さまざまな選択のプロセスを生み出している。人間の領域において、そのことは、当然ながらきわめてホットな話題になっている、新しい進化の心理学によって研究された行動に関してはっきりと示された。
 とはいえ、進化の心理学はとてもホットではあるが、最高にホットではない。一九八○年代初めに本格的にはじまり一九九○年代終わりにしだいに高まりつつあるのは、物理学の世界で「万物の理論」がささやかれはじめたことである。それは、これまでに知られてきた宇宙の諸法則を、文字どおり存在するすべてのものを説明する一つの全包括的な理論へと統合するかもしれないモデルである。ある人が「まさに神の手の手法がわかる」とつぶやいたほどである。「ついに究極の神秘の顔からヴェールが上げられた」と言った人もいる。暗黙の合意が、「最終的な答えはすぐそこだ」と示唆している。

「ひも(ストリング)理論」(あるいはより正確には「M理論」)として知られているものは、電磁力、核力、そして重力を含む既知の物理学モデルのすべてを、一つの全包括的な超理論へと統合する見込みがある。この超モデルの基本的な単位は「ひも」、あるいは一次元の振動するコードとして知られ、これらの基本的なひもが奏でる「調子(note)」のさまざまなタイプから、宇宙で知られているあらゆる素粒子や力を引き出すことができるという。

 M理論(Mは、マトリックスから膜、神秘、すべての理論の母までの略だと言われている)は、実にエキサイティングで見込みのあるモデルであり、まだ広範囲な確証が必要ではあるが、やがて完全なものになるだろう。それは、実際、あらゆる時代の科学的な発見の中でも、もっとも意義深いものの一つになるだろう。それが、事情通の人々にとって、ひも理論ないしM理論がホットな知的話題の中でも、もっともホットなものであり、進化の心理学さえ単に面白いというだけのありふれたものにして片隅に追いやってしまうほどの、爆発的に革命的な超モデルだという理由である。

 M理論は、まちがいなく知識人たちの思考を引きつけ、これまでとは違うふうに考えるようにした。もし「万物」を解明する理論があるとして、それは何を意味するのだろう。それにしても、そもそも「万物」とは実際には何を意味するのだろう。この物理学の新理論は、例えば、人間の詩の意味とか、経済がどのように動くかとか、心理的2性的発達の段階といったことを解明するのだろうか。この物理学の新理論は、生態系の成り行きや、歴史のダイナミックスや、なぜ人間の戦争はかくも恐ろしいほどに一般的なのかといったことを解明できるのだろうか。
 クォークの内部に振動しているひもがあり、これらのひもが万物の基本的な単位だと言われている。なるほど、もしそうだとしたら、それは灰色で生気のない、日々あなたや私に豊かな姿を現わしているのとはまるで異質の、奇妙な万物である。ひもはまちがいなく、より広範囲な世界の重要な部分であり、基本的ではあるだろうが、しかしもっとも意味あるものではないように思える。あなたや私にはすでに、そういうひもは存在するにしても、全体のごくちっぽけな部分にすぎないとわかっているし、そして自分のまわりを見回したり、バッハを聴いたり、愛し合ったり、雷の激しい音に立ちすくんだり、夕映えの中にうっとりと坐っていたりという、極微の、一次元のちっぽけなゴムバンド以上の何かからできているように見える輝かしい世界を熟視するなどあらゆる時に、そのことはわかっている。

 ギリシャ語には、〈コスモス〉(Kosmos)という美しい言葉があり、それは物理的、情動的、心理的、霊性的な領域を含む、すべての存在の様式化された全体を意味している。究極の実在は、単なる宇宙(cosmos)または物質的次元だけではなく、コスモスまたは物理的、情動的、心理的、霊性的な次元もすべて存在するものである。生命も心情もないただの物ではなく、物質、身体、心、魂、そして霊性の生きた全体なのである。コスモス! ここにこそほんものの万物の理論がある。しかし私たち哀れな現代人は、コスモスを物質的な宇宙へと還元し、物質と身体と心と魂と霊性をただの物だけに還元し、そして、この単調で退屈な科学的物質主義の世界で、物理的な側面を統合する理論が、真に「万物」の理論であるという考えに陥れられている。

 新しい物理学は、真に神の心を私たちに示していると言われる。なるほどそうかもしれないが、それは神が塵について考えている時だけの話だ。そこで、統合的な物理学の重要性を無視することなく、こう問うてみよう。ただの宇宙のではなく、コスモスの理論というものがありうるのだろうか? ほんものの万物の理論というものがありうるのだろうか? こうした問いを発すること自体、意味があるのだろうか? で、私たちはどこからはじめるべきなのか?

「統合的なヴィジョン」または「ほんものの万物の理論」は、自己、文化、そして自然の中で現われているままの、物質、身体、心、魂、霊性を包括することを試みる。総合的で、バランスがとれた、包括的なものであろうとする理論である。それゆえ、その理論は、科学、芸術、そして道徳を含むものであり、同じく物理学から霊性までの学問分野、生物学から美学、社会学そして瞑想的な祈りまでを包括する。それらは、統合的政治学、統合的医学、統合的ビジネス、統合的霊性……などにおいて姿を現わすのである。

 本書は、万物の理論の簡潔な概観である。もちろん、そうしたあらゆる試みがいろいろなかたちで失敗してきた歴史がある。失敗してきたいろいろなかたちでは、不当な一般化が行なわれ、専門家が正気を失って、たいていホリスティック(全体的)に包括すると表明されていたにもかかわらず、その実現には失敗してきたのである。それは、そうした課題が一人の人間の能力をまったく超えているからというだけでなく、課題そのものが本質的に実行不可能なものだからである。つまり、知識はそれを分類する方法よりも早く拡大してしまうのだ。ホリスティックな理論というものは、永遠に遠ざかる夢であり、地平は近づこうとするといつも退いていく。それは、決して手の届かない虹の果てにある黄金の壺のようなものなのだ。

 それなのに、なぜそういう不可能なことを試みるのか。それは、全体性の小さな一片でもまったくないよりはましであり、統合的なヴィジョンは、細切れの代用品よりはかなり全体性を示してくれると私は信じているからである。私たちは、より全体的であるかないか、より断片的であるかないか、より疎外されているかいないかのどちらかでありうる。そして、統合的なヴィジョンは、私たちの仕事や生活や運命を、より全体的で、より断片的でないものにしてくれるのだ。

 以下の頁に見られるとおり、そこにはただちに役に立つことがある。前半の四章では「万物の理論」を紹介し、後半の三章では「現実の世界」との関連性を概観する。その後半部分では、統合的な政治、統合的なビジネス、統合的な教育、統合的な医学、および統合的な霊性について論じるつもりだが、それはすでに広範囲に広がっており真剣な応用がなされているものである。第七章では、「統合的な変容の実践」あるいは、本気で望むなら、私たち自身のものとして使える心理学的および霊性の統合的なアプローチのあり方について述べる。(注は、さらに進んで学びたい方や二度目に読む方のためのものである。また、第七章で、統合的なヴィジョンと万物の理論をさらに探究したい方のために推薦図書をあげておく)。

 本書は『ベビーブーム世代(Boomeritis)』(未訳)と並行するものである。というのは、いまや、世界全体がそうだが、特に私たちの世代はある種の分岐点にあるからである。私たちは、このまま科学的物質主義、断片化された多元主義、脱構築のポストモダニズムを続けることもできるし、あるいはまさにより統合的、抱擁的、包括的な進路を選ぶこともできる。『ベビーブーム世代』も『万物の理論(A Theory of Everything)』も同じところから出発しているので、最初の一章半はどちらの本も基本的には同じである。『ベビーブーム世代』は、続いて私たちが今日までたどってきた道、すなわち断片化と疎外の道について探っていく。『万物の理論』は、全体論と統合的な包括に向かうオルタナティヴ(代替的)な道を探る。最終的にどちらの道を採るかは、もちろんあなた次第である。

 以下の頁で述べる考えは、単なる示唆として使っていただきたい。自分にとって意味があるかどうか、それを改善できるかどうか、いずれにせよ、あなた自身の統合的なアイデアや志を前進させるのに役立つかどうか、確かめていただきたい。私の知っている教授がかつて、よい理論とは「よりよいものが得られるまでは持ちこたえられるもの」と定義したことがある。「万物の理論」についても同じことが言える。それは、固定的で最終的な理論ではなく、単にもっとよいものを得る手助けになるかどうかという目的のためにあるものなのだ。そしてまたそこには、出発点から存在の光をいっぱいに浴びた、常にはじめる前にすでに完成されている、探究することそのものの不思議さと栄光がある。
二○○○年春
コロラド州ボールダーにて
ケン・ウィルバー



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とは生命エネルギーの固まりだ 本当は一つの魂しかない

2017-07-14 23:34:25 | 思想、哲学、宇宙論
魂とは生命エネルギーの固まりだ 本当は一つの魂しかない

ニール  あなたは、「魂は、身体の内外のあらゆる所にある」と言います。

     しかしそうすると、「個別の魂が無い」ことになりませんか?

 神   そうでもあるし、そうではないとも言える。

     本当には、魂は一つしかない。 しかし「一つ」の中には、多くの魂がある。

     これが、『最大の神聖なる二分法』だ。

     それぞれの魂は、様々な速度、様々な密度で物質世界に現れる。

ニール  どうして速度が関係するのですか?

 神   生命はすべて「振動」だ。

     生命は「純粋なエネルギー」で、このエネルギーは常に振動している。

     そして、異なる速度で振動する波は、異なる密度あるいは光を生み出す。

     これが、物質世界の異なるかたちを創り出す。

     だが、かたちはそれぞれであっても、エネルギーは同一だ。

     エネルギーが集まって合体すると、物質になる。

     物質になるとエネルギーは凝縮し、つき固められ、まとまる。

     まとまると、一つ一つが別の単位の様に「見えるし、感じられる」。

     だが、『同じエネルギーが別のふるまいをしているだけ』なのだ。

     この「エネルギーの固まり」の一つ一つが、あなた方が『魂』と呼ぶものだ。

     一つのエネルギーが分かれて、沢山の魂になったのだ。

     物質は、それぞれが「別々の単位」に見える。 だが実は、分離などしていない。

     宇宙全体の奥は、その様になっているのだよ。

ニール  本当にそうなのですか?

 神   科学者はすでに、全ての生命が同じものから出来ている事を発見している。

     月の岩は、木々と同じものから出来ているし、木々はあなたと同じものから出来ている。

     (原子や分子などの事を言っているのだと思います)

     私たちはすべて、同じエネルギーだ。

     それが違った方法で凝集して、異なるかたちや異なるものを創っている。

     全ての父は、『純粋な思考』だ。 これは、生命エネルギーだ。

     これは、あなた方が『絶対的な愛』と呼ぶものだ。

     これが神であり、動かざる動かして手、第一の源である。

     私たちは「ただ一つ」だ。 従って、あなたは神である。

(『神との対話3』から)



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ケン・ウィルバー~「ワンネス統合:すべてのものとひとつ」

2017-07-14 13:36:00 | 思想、哲学、宇宙論
ケン・ウィルバー~「ワンネス統合:すべてのものとひとつ」



人間の生死の意味は宇宙の自己進化の流れの中にある

宇宙には自己進化の力が働いている。
そして人間は自らが宇宙の自己進化の働きの一部であることを自覚しつつ、
その使命を果たすことのできる唯一の存在。
つまり、私たち人間は、宇宙が自らを見る眼。
私たちの生死を通して宇宙が花開き、宇宙の意味が生成していく。

ケン・ウイルバー

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万物の理論 ケン・ウィルバー

2017-07-13 19:37:16 | 思想、哲学、宇宙論


万物の理論
ケン・ウィルバー

 

これなら人類に未来はある!

 

万物の理論の原則:誰もがただしいこと

 

ウィルバー>世界はコスモスは、物でも心でもなく、ホロンからなっている。

岡野>それにどんな意味があるのか

ウィルバー>そこがポイントだ。世界がホロンの階層から成り立っていることは世界にはレベルの高い、低い、深い、浅いがあることを意味する。宇宙には少なくとも物質、生命、心という3つのレベルがある。あとのものが、前のものを「含んで超える」という形で進化している。

岡野>つまりそのレベルの高さが、深さが「意味」なのですか?

ウィルバー>そう、すなわち、宇宙には意味がある、あるいは宇宙は意味を生み出す方向に進化してきており、さらにより深い意味を生み出すべく進化し続けている。

岡野>だかだどうしたというのだ?

ウィルバー>一言でいうと「宇宙はただの物質の平板で並列的な寄せ集めではない」こと意味する。これが大切なポイントだ。

 

近代の科学は基本的に人間も含め全てを個別であれシステムであれ、「物質」に「還元」し「分析」して捉えてきた。

そころが<<<<物質に意味は無い>>>>。

人間についてそういうものの見方をつきつめると、所詮物の寄せ集めにすぎない人間にも意味は無いということになりかねない。

そういうもの見方からは、当然ながら、「いい」も「悪い」もでてこない。生きていることそのものに意味がないとすれば、何をしても意味はないし、何をしてはいけないということもないはずだからである。

倫理が完全に崩壊する。

ここが、現代人が子供から大人に至るまで直面しているもっとも深刻な心の問題なのではないだろうか?

「全ては物」という世界観では、子供が「関係ないだろ」「どうだっていいじゅやないか」「オレの勝手だろ」と言った時、大人は自身と説得力をもって「そういう考えは違う」と反論することができない。それどころが、大人自身にかけるブレーキもみあたらない。

しかし、よく・深く見ていくと、宇宙は平板な物質の寄せ集めでは無い。宇宙は階層をなしており、より高い深い秩序を生み出すべく進化し続けており、ただの物にとどまらず、「生命」を生み出し、いまや人間の「心」を含んでおり、やがてはさらに高次の心・「霊性」をも実現しようとしている。

なぜ「いけない」のか。それはコスモスの流れから逸脱し、それを裏切り、その開花を妨げるから。「絶対に-コスモス的普遍性に基づいて-そんなことをしてはいけない」のだ。私をコスモスは本質的に「関係がある」、だから「勝手」は許されないし、「どうでもいい」などということはないのだ。

ウィルバーコスモロジーの画期性は、ますそれが、近代の物理学科学主義に潜んでいたにニヒリズムを完ぺきに乗り越える理論を明らかにしているところにある。

しかも科学を含む近代の知をあやゆる分野の成果を否定せず、すべてを含んで超えているところに非常な妥当性・説得力があると思う。

コスモスの4つの顔

コスモスの4つの領域の全域にわたって見渡すことが大切である。

4象限

近代人は、世界観を物だけ、右だけ、の象限へと折りたたみ矮小化してしまった。だから、近代は価値や意味や真善美の見えない、単調で荒涼とした、フラットランド(平板な世界)になったのである。

近代-現代が、どんなに人間尊重(ヒューマニズム)、さらには全生命の尊重(エコロジー)を追及しても、なぜかうまくいかないのは、一つはどんなに善意から出発していても結局は意味を見失ってしまうような見方を基にして、一生懸命追求してきたからなのだ。ホラーキーな構造、4象限を見落とした、進歩的改良主義、平等主義、文化相対主義、エコロジー・・・・・・は意図がどんなによくても、結果はよくならなかったし、これかもよくならないだろう。

コスモスの再発見と進化への参加

ではどうすればいいのか。

 

シンプルに言えば、まずコスモス(これは、「神」や「空」とほぼ同義語)がホラーキー構造をなして四象限にわたて自己を展開・進化・自己超越しつつあること、そして私たち人間はそういうコスモスの進化の一部であり、ある意味で先端である(物・生命・心全てを含み、霊性spiritをも実現するよ可能性を含んでいるから)ことを再発見することである。

それはまず頭でわかること(認識)から始まり、全身心で獲得すること(意識の変容)に至る課題である。そして次にというか、同時にというか、コスモスの四象限すべてにわたる進化の開花に自覚的・能動的に参加することである。

我々はコスモスの進化の先端を担わされたものとして、意味も、権利も、責任も与えられている。

そして、その進化を自分自身において開花させる権利と責任、それらからコスモスのほかの部分-例えば、全人類や全生態系-の全面的な開花(ビッグブルーム)にも協力する権利と責任が与えられている。

 

そこに人間が人間として生きる意味がある。

 

ヒトの形をかぶり、物の心をもつ者が闊歩する-そんな世界にしてはならない。

ヒトとして生まれ、ヒトのこころを維持するのは、尊厳をもてることなのだ。

 




 

 


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ケン・ウィルバー『進化の構造』

2017-07-13 18:06:51 | 思想、哲学、宇宙論
https://sites.google.com/site/kyototekken2011/rejume/ken-u-iruba-jin-huano-gou-zao


<序論>

『何かが――あらゆることが――起こっている。これはとてつもなく不思議なことである。何も無かったところに、ビッグバンが起こり、そして今ここに私たちがいる。これは非常に奇妙なことだ。

 シェリングの切実な疑問「なぜ無ではなくて、何かがあるのか」には、二つの答え方があった。最初は「もののはずみ」の哲学とも言えるものである。宇宙の事象は単に起こるのであり、その背後には何も無く、すべては偶然であり、バラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる――「おっと!」という具合に。この「もののはずみ」の哲学は、いかに洗練され、もっともらしく聞こえようと――実証主義から科学的唯物論まで、分析哲学から史的唯物論まで、自然論から経験論までその現代的な名前も数も膨大なものにのぼっている――煎じ詰めればいつも同じ答えになる。すなわち「そんなこと聞くもんじゃない」。

質問それ自体(なぜものごとは起こるのか?なぜ私はここにいるのか)が混乱しており、病理的であり、意味をなさず、幼稚であるとされる。こうしたバカげた混乱した質問をしないこと、これが宇宙での成長の証しであり、成熟の証拠なのだ、とこの哲学は主張する。

私はそうは思わない。こうした「現代的で成熟した」哲学の答え、すなわち「おっと!」というのは、人間という条件から発するものとしてはもっとも幼稚な反応であると思う。

もうひとつの答えは、宇宙には何か別のことが進行しているというものである。偶然のように見えるドラマの背後に、より深く、より高度な、より広いパターン、秩序、知性がある。

この「深層の秩序」にも、もちろん、様々な名前がある。タオ、神、ガイスト(精神)、マアト、イデア、理性、理、ブラフマン、リクパ。それぞれの深層秩序はお互いにいくつかの点で異なるが、1つの点では一致している。すなわち、宇宙は見かけとは違う。何か別のことが進行している。「もののはずみ」などというものとはまったく違う何かが・・・。』



○本書は、志向的一般化という方法論のもとに組み立てられている。

例えば、道徳性の発達段階の場合、誰もが発達心理学者コールバーグによる7つの段階に細部まで同意するわけではない。しかし、人間の道徳性が少なくとも三つの大まかな段階を経るということについては心理学者の間で十分な一般的合意がなされている。前慣習期(いかなる道徳体系にもまだ社会的に組み込まれていない誕生期の人間)、慣習期(自分が育っている社会の基本的な価値観を表すような道徳的枠組みを学ぶ時期)、後慣習期(自分の社会を客観的に考え、ある距離を保ち、批判または改革する能力を得る時期)。

つまり、発達の過程の細かい部分については真剣に議論されているけれども、大まかに3つの段階が起こること、しかも普遍的に起こるということは、誰もが合意している。こうして「大きな合意点」が得られる。これが志向的一般化の方法論である。

この方法によって、物理学、生物学、システム科学と自己組織化理論(ベルタランフィ、プリゴジン、ヴァレラ…)、心理学(フロイト、ユング、ピアジェ…)、近代哲学(デカルト、ロック、カント…)、観念論(ヘーゲル、シェリング…)、ポストモダニズム(フーコー、デリダ、テイラー、ハーバーマス…)、解釈学(ディルタイ、ハイデガー、ガダマー…)、社会システム理論(コント、マルクス、パーソンズ、ルーマン…)、瞑想的宗教や神秘主義(禅仏教、チベット金剛乗、キリスト教神秘主義、ヴェーダーンタ、スーフィズム…)などから大きな合意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆく。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。本書は、数珠玉に糸を通そうという試みである。



詳細はどのようにでも埋めることができるが、大まかな輪郭は、様々な知の分野から志向的一般化によって得られた、単純ながら堅固な、驚くほど多くの証拠によって裏付けられている。にもかかわらず、こうして得られる見取り図は、固定したものでも最終的なものでもない。

『本書で私が試みたことを、おそらく多くの人が「形而上学」と呼びたがるだろうが、もし「形而上学」が証拠のない思考を意味しているとすれば、そうした意味での形而上的な文章は本書全体を通して一行もない』



<第一章 生命の織物>

『これは奇妙な世界だ。150億年は、まったくの無だった。そして10億分の1秒もしないうちに物質的宇宙が突然現れた。

さらに奇妙なことに、そうした生まれた物質はバラバラで混沌としたものにとどまらず、自分をさらに複雑で込み入った形態へと組織化していった。その形態は非常に複雑だったので、そのなかのある形態は何十億年も経つうちに自分を再生産する方法を見つけるほどだった。こうして物質から生命が生まれたのだ。

 さらに奇妙なことに、生命は単に自分を再生産することにのみ満足してはいなかった。それどころか長い進化の過程を歩み、やがて自分を別のもので再表現する方法を見つけた。記号、シンボル、概念を生んだのだ。こうして生命から心が生まれた。

 細かい過程はどうだったにせよ、進化は驚くべき順序で進められてきたようだ。物質―生命―心へと。

 だがさらに奇妙なことに、たかだか数百年前、あるとりにたりない星のまわりを巡るちっぽけな惑星で、進化は初めて自己を意識するようになった。

 そしてほとんど同じ頃、進化を自己を意識するまで進ませた同じ原動力が同時に進化自体を消し去ろうと計りはじめたのだ。

 これほど奇妙なことはない。』



○時間の二つの矢

初期の科学者(ケプラー、ガリレオ、ニュートン、デカルトなど)は最も複雑さの少ない領域(物質圏[1])で実験を始めた。物質圏は1つの巨大な力学的世界、厳密な因果の法則に支配された機械のように見え始めた。しかもその機械は停止に向かっていた(熱力学第二法則)。インクを一滴、コップの水にたらすと、インクは水全体に拡散する。しかしその逆は起こらない。

『問題はこうした初期の見方が間違っていることにあるのではない。物質圏はある面をとってみれば確かに決定論的であり、機械のように力学的に振る舞う。そして停止に向かっていくものもある。しかし問題なのはそうした見方が部分的であるということだ。』



一方、イオニアの哲学者からヘラクリトス、アリストテレスからヘーゲルやシェリングに至るまで、時間を通じての非可逆的な発達(進化)という考えは、古来からの長い歴史をもっている。そしてウォーレスとダーウィンの研究によって、生物圏は進化することが科学的・経験的な観察によって裏付けられた。アメーバはサルになるかもしれないが、サルはアメーバにはならない。だがここで明らかなことは、『この時間の矢の方向は、物質圏の時間の矢の方向と真正面から反対である』。この時点で物質圏と生物圏は分裂した。



 この切断を修復しようという絶望的な試みがただちになされた。すべての身体を物質と力学の組み合わせに還元しようとする物質還元主義(ホッブズ、ルメートル、ホルバッハ)。全ての物質や身体を心の現象に引き上げようとするもの(マッハあるいはバークレーの現象論)。これらの両極の間に、落ち着かない妥協案がずらりと並ぶ。デカルトの二元論(心圏を救い出すために、物質圏全体を機械論者の方へ投げ渡してしまった)。スピノザの汎神論(心と物質を神の絶対に交わらない並行した属性とみなした)、ハクスレーの付帯現象説(心は生理的現象に付随して起こる副産物であるとみなした)。



『これらの統合への試みは初めから失敗に終わる運命にあった。それは身体と心の分裂によるのではなく、もっと原初的で根源的な身体と物質の分裂によるものだった。すなわち生命と物質の問題である』



 こうして、物理学と生物学が分裂することにより、自然科学と人間科学が分離した。物質圏は「事実」の領域、心圏とは「価値」と「道徳」の領域であり、そのギャップは絶対に超えがたいものと思われたのである。



『二十世紀後半になってこの二つの正反対の時間の矢の謎が解決されるまで、物質と心、自然界と人間界のギャップ、すなわち現代西洋文明の「二つの文化」に橋を架ける試みはまったく基盤をもたなかった』



これらの致命的な裂け目は、現代科学の諸成果によって統合されることになる。排水口から流れ出る水は、突然、混沌とした状態をやめて完全な漏斗の形を作り、渦巻きを形成する。物質的なプロセスが「平衡から遠い」状態となったとき、プロセスは自力でそこから脱し、より高度に構造化された秩序へカオスを変容させようとするのである。純粋に物質のシステムも、生命のシステムと同じ方向に時間の矢をもっている。つまり、『物質は生命が誕生する遥か以前から自分を「進ませる」ことができた』のである。詳細については現在も熱心な探究が続いているが、しかし大事な点は、『かつては全く克服しがたいように見えた物質と生命の間のギャップ――かつては完全に解決不能の問題を提供していたギャップ――が、今や一連のたいしたことのないギャップに見えはじめた』ということである。

例)一般システム理論(ベルタランフィ)、サイバネティクス(ウィーナー)、非平衡熱力学(プリゴジン)、セル・オートマトン理論(フォン・ノイマン)、カタストロフ理論(ルネ・トム)、オートポイエーシス理論(マトゥラーナおよびヴァレラ)、ダイナミック・システム理論(ショーとアブラハム)、
など[2]



こうして今や、3つの大きな領域(物質圏、生物圏、心圏)全てに大まかに適用できるような一定のパターンが発見され、「科学の統合」(整合性のある統一された世界観)がついに可能になったのである。
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途轍もない日本語の表現力

2017-07-13 11:04:54 | 思想、哲学、宇宙論
https://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-12250387600.html



日本人てすごい 21 「てにをは」の持つ途轍もない日本語の表現力



2017-02-23 04:34:17
テーマ:日本人てすごい


今回は日本語が英語などヨーロッパ言語や中国語にない特殊な構造ゆえに日本語が他の言語と比べて途轍もない表現力を持った言語であることを、理系的な視点から論証してみます。また、時々巷で私が耳にしたことがある、



「ヨーロッパ言語の方が日本語に比べて論理的な表現に適した言語である」



との俗説の反論にもなっています。私は、物理学者として、日本語を使って科学的な表現をする努力と訓練を今までずっとやってまいりました。その経験に基づいた話です。



さて日本語の凄さは「てにをは」すなわち助詞の持っている驚くべき力にあります。言語学者の間では常識なのですが、日本語では文章の中で各言葉の役割は主に助詞が決めます。語順の場所ではありません。ですから、助詞が適切に付いているならば、その言葉が文章のどこに出てきてもその役割は変わりません。ところが、英語や中国語では、言葉の役割は主に文章の中に現れる場所で決まります。例えば、



「太郎はご飯を食べた」







「ご飯を太郎は食べた」



と書いても、あるいは、会話の中では、



「太郎は食べた、ご飯を」



と言っても、それが同じ動作を表していることに皆さん同意するでしょう。ところが、英語では、



Taro ate a meal. (太郎はご飯を食べた)







A meal Taro ate (太郎が食べたご飯)



は全く意味が違ってしまいます。多分言語学の本では、この違いがあることを指摘するだけに止まり、それ以上は、言語構造のもっと緻密で詳細な分析に興味を向けて論じて行くのでしょう。しかし、この違いからくる言語の表現力の違いを、多分言語学者が語らないような理系的な視点から分析してみます。



まず、言語は時系列的に並んだ1次元空間の列で表現されています。そして、英語や中国語はその1次元の空間の中の位置で役割が決まっている。この場合、物理学者は英語や中国語は1次元的な自由度を持つといいます。そして、この空間は例えばx軸という一つの空間軸だけで出来ていることになる。



ところが、日本語ではその1次元空間の位置で役割が決まらず、自由自在に位置を入れ替えることができる。すなわち、「てにをは」によって場所を自在に動かせるという、英語や中国語にはない自由度をもう一つ持っているのです。ですから、日本語のその側面だけを取っても、日本語はx軸だけで構成されている1次元空間の位置で表すことができない。日本語には、時系列的なx軸とは独立な「てにをは」軸、あるいはy軸とでも名付けられるもう一つの軸が存在しているのです。別な言い方をすると、日本語は少なくとも2次元的な空間構造を持っている。



このことは、話し言葉ではそうですが、それが書き言葉になるともっと多次元になっている。実際、その表現として、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、という自由度まで持っているのです。さらに、日本語では漢字に音読みと訓読みという自由度がある。だから2次元どころか、それ以上の多次元構造を持っているのです。これは、世界的にも類を見ない言語構造です。



例えば、私たちが日本語を書くときに、漢字とかなの出方のバランスを無意識に考えながら書いています。ちょっと漢字が多すぎたと思ったら、ある部分を意識的にひらがなで書いてみるなんてことをしばしばやっている。そのことに関して、ある日本の文学者が米国の詩人に次のような質問をしたと、ある本に書いてありました。すなわち、英語のアルファベットの中にも、hやtやkのように頭の高い文字があり、gやjやyのように尻尾が下に出ている文字があるが、その文字の並びのバランスを考えながら書いたりすることがあるかと。その詩人は「そんなことはない」とびっくりして答えたとのことでした。普通の日本人でも、それを別に訓練をされているわけでもないのに、そんなバランス感覚の表現は日常茶飯事のこととしてやっているのですね。そんな芸当は、日本語が多次元的言語であり、日本人はそんな多次元の世界に生きているから出来るのです。



実は理系の人間なら誰にでもわかることなのですが、次元が1次元多くなると、その少なかった次元の世界よりも無限大倍の可能性があるのです。例えば、数学にはこんな面白い定理があります。曰く



「どんな小さな領域の2次元平面の面積でも、それを1次元の曲線で覆うことができない。」



すなわち、どんなに稠密に1次元曲線を描いても、2次元平面の中の無限に多くの点を取り残してしまうことが証明できるのです。このことを日本語に敷衍すると、



「日本語は2次元構造を持つので、英語や中国語などの1次元構造を持った言語と比べて、無限大倍の表現能力がある」



ということができます。その能力の根源が「てにをは」なのです。日本語ってすごいでしょう。



これで話が終われば、めでたしめでたしなのですが、その日本語の自由度のゆえに、困ったことも起こり得るのです。逆に、自由度が多すぎるゆえに、それを使いこなしきれない人も時々いるのです。そのことが原因で一番最初に述べたような、ヨーロッパ言語の方が日本語に比べて論理的な表現に適した言語であるとの誤解をする人が出てきてしまうのです。



上に述べたように、日本語はヨーロッパ言語よりも自由度が多い。ですから、もちろん、ヨーロッパ語と同じ語順で表現することも可能なのです。ですから、ヨーロッパ語と同レベルの論理的表現は常に可能なのです。ところが、一般の日本人や、あるいは文学部出の国語の先生は、普段から日本語の持っている自由度を無意識のうちにフルに使いながら会話をし文章を書いている。そして、それでもちろん日本人には通じるのです。ところがそんな国語の先生は、自由度の制限されたヨーロッパ言語特有な表現には慣れていない。そして、そんな日本語的表現をそのまま外国人に打つけてしまうので、外国人から見ると何を言ってるのか支離滅裂に受け取られてしまう。そんな痛い経験を繰り返して行くうちに、知識走った外国かぶれな日本人の中に、「日本語はヨーロッパ言語と比べて論理的な表現には不適切な言語である」なんて妄想が出てきてしまうのでしょう。



私の持論なのですが、常々、



「理系で博士論文を書く訓練を受けた日本人には、少なくとも現代文の書き方や読み方を教える高校の国語の先生の免許を与えるべきである。その方が、余程文学部出の国語の先生よりも、しっかりした現代文を教えることができる」



と言っております。










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