思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

科学は神秘を奪うのか?

2018-01-05 17:12:57 | 思想、哲学、宇宙論
世界に対する二つの問い
―――科学は神秘を奪うのか?
/どうなっているのか なぜそうなっているのか 形而上学 アインシュタイン
/カテゴリ 科学全般、物理学













科学というのは、世界について探求する営みである。

科学は、世界がどのようになっているのか、という事を探求してきた。

その結果、科学は現在、世界に関して、非常に多くの知識を得ている。
















たとえば塔から落とした鉄のボールは、どのように落ちるか?という問いに対して、

ニュートン力学に従い、約9.8m/s2で、加速しながら落ちる、などと答えられる。

また、何秒後に何メートルの位置にあるか、その瞬間はどのぐらいの速さなのか、

といった事も、計算によって予言する事が出来る。
















他にも、雷はどのように落ちるか、太陽はどのように動くか、硫黄に硫酸を

かけたらどうなるか、深海では物はどのような変化を起こすか、などなどなど、

科学は、世界がどのようになっているのか、また、これからどうなるのか、

という事に関して、非常に多くのことを解明してきた。













また、科学、特に物理学は、この宇宙の森羅万象、すべての現象を

出来るだけ少ない理論によってあらわそうとする営みでもある。
















たとえば、上記のニュートン力学は、塔から落ちるボールだけでなく、

目の前で水がこぼれることから、空の上で星がめぐることまで、

非常に多くの現象に適用する事が出来る。

同様に、電気による現象と磁気による現象は、昔は別々の現象だと考えられていたが、

19世紀には、電磁力学という一つ理論によって、説明できるようになった。

そしてそのニュートン力学と電磁気学は、20世紀に提出された、

アインシュタインの相対性理論によって一つの理論として統合された。
















昔は、星が光る事と海が波立つ事はには、全く別の現象だと考えられていたが、

現在では、雪が降ることから、飛行機が飛ぶ事まで、ブラックホールからミクロの粒子まで、

同じ理論によって、本質的にはつながった現象だと理解する事が出来るのだ。

科学は実際に、我々がいるこの世界の、非常に多くの現象を、

ごく少ない理論によって説明することに成功しているのである。
















つまり科学は、この世界がどうなっているのか?という問いを探求してきた結果、

ごく少ない理論によって、それに答える事ができるようになってきているのである。
















このように、科学というのは、世界について探求する営みであり、

実際に、世界の様々な現象を解明してきた訳だ。

これはすばらしい事だと考えられるが、しかしこのことに関して、

次のような否定的な意見もある。すなわち、
















科学によって世界の不思議が解明されてしまい、世界はつまらない、

わかりきったものになってしまった。科学は世界から神秘を奪ったのだ。




というような意見だ。しかしこの考えは正しいのだろうか。

















たしかに、科学は世界の様々な現象を解明してきた。

だが、科学がどんなに世界に対しての知識を増したとしても、それはあくまで

「世界はどうなっているか?」という事の答えであり、

「世界はなぜそうなっているか?」という問いの答えではないのだ。

科学は「世界はなぜそうなっているか?」という問いに対しては、

答えを持っておらず、その答えは全くの謎なのである。
















たしかに、物体の動きは、F=maという法則に従って動く。

科学によって世界にはそのような法則がある事が発見された。

しかし、なぜそうなっているのか?

なぜ、物体はそのような法則に従って動くのか?という問いには、

科学は答えようがない。その問いは、科学の営み外の問いなのだ。

世界はそうなっているのだ、としかいいようがない。

(なぜそうなっているのか?に答える営みとしては、形而上学と宗教があげられるが、
 それについてはこちら)














なぜだかわからないが、地球上では物体は、約9.8m/s2 の加速度で落ち、

なぜだかわからないが、物質は、原子という小さい粒から出来ており、

なぜだかわからないが、世界は数少ない物理法則に従っている。
















科学の探求によって、この多彩な世界はそのようになっている事が発見されたが、

しかし、なぜそうなっているのか?

なぜ世界は、その理論のようになっているのか?という事に関しては、

今も昔も全く変わらずに、神秘に包まれているのである。
















先にあげた一般相対性理論の発見者アルバート・アインシュタイン(1879-1955)は、

このことに関して、次のような発言をしている。

彼の相対性理論は、人々にとても不思議な理論だと評されたのだが、

彼はそれに対し、

相対性理論が不思議なのではなく、

なぜ宇宙が相対性理論のようになっているのかが不思議なのである

という風に答えたという。
















つまりアインシュタインは、二つの問いが別のものである事を区別していた訳だ。

彼は自分が「世界はどうなっているか?」という事の答えとして、

相対性理論を提出したのだが、「世界がなぜ、そのようになっているか?」

つまり「世界がなぜ、自分の提出した相対性理論のように

なっているのか?」という事に関しては、全く答えを知らない事を

認識していたのである。
















また、先に書いたように、科学によれば、世界は数少ない理論によって

統一的に捉える事が出来る。















しかし、なぜ、世界はなぜそのようになっているのか?

もっと他の理論でもよかったのではないか?

もしくは、それぞれの現象が、無関係にたくさんの理論によって動いていても

いいのではないのか?

そもそも、世界は完全にでたらめで、何の秩序も法則も理論も

存在しない事だってありえたのではないか?

など、世界に対して、他の様々な可能性を想像することも出来るのだ。













だが現実には、科学によって発見されたように、この世界には法則が存在し、

それも森羅万象の非常に多彩な現象が、ごく少ない理論によって、

すべて統一的に捉える事が出来るのだ。

なぜだか全くわからないが、世界はそうなっているのである。
















世界は科学が描くようになっている。しかしなぜそのようになっているのか?

その答えは、一切わからない、まさに神秘としかいいようがない事なのである。













以上のことを考えれば、先にあげた、科学によって世界の神秘が奪われるという

ような考えは、間違いだといえるだろう。

科学が世界を探求する事は、世界がどのようになっているのか?という事を

探求するのであり、世界はなぜそうなっているのか?という問いの答えを

述べる事ではなく、世界から不思議さや神秘を奪う事でもないのだ。













むしろ、世界には非常に高度な法則性、均一性、統一性が存在する、

という科学による発見は、なぜ世界はそのようになっているのか?という思いを

かきたてるものであり、世界に対する畏敬や神秘の念を、

より一層、生じさせるものなのである。













以上の事のまとめにかえて、再び、世界を探求するという事と、世界の神秘に対する、

アインシュタインの言葉。







私たちはいつか、今より少しは物事を知っているように

なるかもしれない。

しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。













神を想像しようとは思いません。

私たちの不十分な五感で

世界を認識することを、

世界自身が許してくれるかぎりで、

世界の構造を畏敬する。

私にはそれだけで十分です













私たちは、好奇心に満ちた子供のようになってしまいます。

この偉大なる神秘、わたしたちが生まれてきたこの世界の前では。













私たちが体験しうるもっとも美しいものとは神秘です。

これが真の芸術と科学の源となります。

これを知らず、もはや不思議に思ったり、驚きを感じたり

できなくなったものは、死んだも同じです。











真の実在

2018-01-05 16:32:06 | 思想、哲学、宇宙論


現代科学は世界を客観的世界と主観的世界に分け、客観的世界を真の実在と見做し、

主観的世界を軽視または無視してきた。

このことが科学の欠陥を生み出したと言える。

客観的世界を真の実在と見做す現代科学は人間や宇宙の存在理由を解明できないし、

それを問うこともしない。

人間や宇宙の存在理由 その答えは主観的世界にあるのではないかと思う。

音楽は主観的世界と見なすことができる。

キタロウの音楽を例にとってみれば主観的世界は非常に広大であり

宇宙や自然を感じさせる独自の秩序や法則によって統一され発展し続ける豊饒な世界である。

客観世界の法則は主観的世界の法則が元になっているのではないか。