思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

思想と科学とのハザマ より

2009-07-10 12:41:46 | Weblog
思想と科学とのハザマ
近代以降になって蔓延している大いなる誤解の1つに、真理を探求する「思想」と、宇宙・自然の真実を
追及する「サイエンス(科学)」の混同があげられる。仮に誤解という言い方が適切でなければ、多くの人が
サイエンス(科学)というものに抱いている幻想といったほうが正確かもしれないが、いずれにしても、
思想と科学との間にある境界はじつに厄介なものである。なぜなら、思想と科学の関係、あるいは「科学思想」
というテーマの論題になると、どれほど秀逸な論客であっても、内的自己言及で折りたたまれたメビウスの話の
ような展開で終始してしまうことが多いからだ。

ではなぜあえて連載の初期の話のうちにこうした厄介なテーマをとりあげるかといえば、Web2.0/Web2.0+
など次世代ウェブの孕む問題を点検するときに、思想と科学との間にある境界は避けて通ることができない
だろうと筆者は考えているからだ。同時に、この「厄介さ」の壁を崩し、融合・架橋する役割が、Web2.0の
持つ1つの存在意義・価値となるかもしれないという期待も抱いている。

ではまず、科学の秩序と哲学知の問題点から見てみよう。

いきなり辛口の批評となり過ぎないようにしたいところだが、科学者のオントロジー(存在学)には多くの
矛盾がつきまとっている点が1つ目の問題点としてあげられる。なぜか現代ではほとんどの科学者は、
主観・客観の二元論に何の疑問も抱かず、「観察」という矛盾について悩むことも知らないことが多いように
感じられる。おそらくその理由の1つは、多くの科学者は、「自然の世界」はそれ自身で独立した領域である
という前提に依拠していること、また、科学者自身がそうした自然の働きや営みの只中に囲まれていながら、
あたかもその自然の外側に立ち、他からあまり干渉されない環境のなかで観察していられるという幻想について
何の疑問も持たなくなっているからであろう。

さらに2点目として、科学の「客観性」重視、反復・再現可能性重視の問題点があげられよう。現代においては
科学の成立根拠として、科学の成立根拠として、何がなんでも「客観性」を保証したいがために、極力、
例外的な事象を排除し、反復・再現可能性重視、平均的・統計的アプローチの重視、数量化重視という価値観
になびき易く、いったんこの価値観に親しんでしまうと、そのトリックからなかなか抜け出せなくなる傾向が
ある。この話とも関係するが、なかには、科学者の人格・品性・倫理と科学的な真理は別物という逸脱した
考え方に疑問をもたないことも珍しくない。何も科学者たるもの品行方正たれということではなく、
感情・感覚などを軽視し、個性というものを薄めてしまうことを良しとする風潮が恐いのである。

どのような科学者であっても、“世界がそこにあること”を自明の前提として理論や体系化がなされるが、思想や哲学では、そもそも日常世界の実在、あるいは実在のあり方を問題にしているため、「問いかけ」のレベルが根本的に違っている。さらにいえば、なぜか多くの科学者たちは「実在」をめぐる思想的な問題について考察しようとする意図すら放棄し、もっぱら仮説演繹的理論モデルと「説明能力」を競い合い、知的操作に専念するという見かけ上の科学的学知を規定する方向に傾いてしまっているのではないだろうか。

こうした逆立ちした矛盾にいやおうなく突き当たってしまった量子物理学では、すでに世界は自分たちとは独立に客観的に存在するという態度を反省し、新たなブレイクスルーをとっくに獲得し、さらに前進の途上にある。かつてフッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(1936年)』において、数学化・理念化された自然科学的世界の欺瞞と隠蔽を見抜き、ガリレオのことを「発見する天才であると同時に隠蔽する天才」と規定した上、生き生きと知覚される「生活世界」というモデルを通して科学世界に批判を企てたことがあったが、当時はまだこうした危機意識も希薄であり、フッサールのような鋭い指摘に対する直接の応答も乏しく、現行の科学観を擁護する風潮が大勢であった。

20世紀後半以降、量子物理学の領域では、自分たちとは独立に客観的に存在するという幻想に依拠しているどころか、フリッチョフ・カプラ、ズーカフ、タルボット、アーノルド・ミンデル、ラッセル・ターグはじめ、並み居る量子物理学者はこぞって、意識と物質の相関プロセスに対する探求を深め、量子物理学で希求していた世界観とスピリチュアルな世界観が似ているということに気がつきだしている。

これらと併走するかたちで、言語・論理領域の解釈においても、たとえば、ポパー派による社会的環境における「科学の進歩」に関する問題提起、後期ウィトゲンシュタイン学派による「論理的原子論」の意味論的・語用論的な問題提起など、科学論の内部から新たな科学情報革命のルネサンスが起き、Folksonomy(フォークソノミー)やアブダクション的アプローチ、あるいは開かれた知性を現前させるアイデアの創発システムを重視する動きが目立ってきつつあることを見逃すわけにはいかない。

その他、社会的要因で是認されている科学者集団及び研究規範(パラダイム∥思想的要因)の枠内で確立される「通常科学」と、既成のパラダイムとの衝突も厭わず、新たなパラダイムを携えて現われる「異常科学」という区分で科学認識をとらえ、これら複数のパラダイム間には共通の尺度もない(通約不可能性)としたクーンの登場以降、クーン派とこれと対峙したポパー派のあいだの職烈な論争については、本題から外れるおそれがあるのでここでは省く。

ともあれ、近世以降、現代にいたるまで科学の歴史とは不断のパラダイムの連続であり、思想と科学の緊張関係を積極的に評価し、パラダイムの断続的転換そのものによって思想も磨かれるととらえるなら、科学思想の根底にまで目を向け、相対化しようとする動きは、これからもますます活発になることであろう。