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大智と大悲

鈴木大拙『仏教の大意』(角川ソフィア文庫)によれば、仏教という建築を載せている二つの柱に「大智」と「大悲」があるという。

「智は悲から出るし、悲は智から出ます。元来は一つ物でありますが、分別智の上で話するとき二つの物であるように分かれるのです」(p. 78)

どうも、大智とは論理や知性であり、大悲は感情や感覚のようなものであるらしい。

「大智の面が強調せられると大悲の面が軽視せられるようになり、これを逆にするとまた逆の面が見えるので、人間のやることはいつでも面倒なものです。が、それは十分に気をつけるべきです」(p. 130)

IQとEQのようなものかもしれない。

「日本の仏教では、禅は大智の面、浄土系は大悲の面を代表するといってよかろうと思います」(p. 132)

ということは、自分で悟ること(禅宗)と、仏にすがること(浄土宗)の両方が大事になる、といえる。

人生においても、「自分で考えて行動」しつつ「神を信じて頼る」ことが、幸せにつながるのだろう。



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『仏教の大意』(読書メモ)

鈴木大拙『仏教の大意』角川ソフィア文庫

鈴木大拙が昭和天皇に御講義されたときの講義録。なかなか難しく、陛下もさぞかし苦労されたことだろう。

一番印象に残ったのは「業(ごう)」の問題。

「人間である限りは業を離れるわけに行かぬということは、人間は元来業そのものだからです。人間の在るところ行くところには、業は必ず影の形に添うようについて行きます。しかし人間が業を離れ業を超えることのできるのはまた実に業につきまとわれているからです。普通に申しますと、われらは業繋(ごうけ)のゆえに苦しむのでありますが、この苦しみはかえって人間をして人間自身の上に超出せしめんとする霊性的衝動となるのです。キリスト教的にいえば、自らを洗い浄めて神に近づかしめんとの自省・自督の途に進むことになるのです」(p. 51)

キリスト教では、自分の罪に気づき、それを何とかしてもらいたいからこそ神にすがろうとする。そこが出発点なのだが、仏教も同じなのだろう。

では、どうやって業から離れるのか?

「業が人間の生命そのものだとすれば、業を免れるということは死するという義にほかならぬのです。しかし業繋苦からの解脱がないと霊性的生活はないのです。(中略)自覚のうらに霊性的なものがあるのです。それがないと業繋苦ということそのことが無意味になるのです。これが矛盾なところです。死んで生きなければならぬということ、業に繋がれていながらこれを離れること、ここに人間の運命の不可思議があるのです」(p.49-50)

業から離れるためには、業をもったまま業を自覚しなければならない。つまり、罪を自覚することが罪を離れるスタートになる。では、それからどうしたらいいのか?

「業苦の繋縛が解消するということは、それ故に、業を業とまともに認覚すると同時に、われら存在の根源そのものはそれで縛られていないということを自覚することです」(p. 56)

このへんからよくわからなくなってきた。仏教の二大支柱は「大智」と「大悲」である、ということが語られており、大智とは知性を使って理解することで、大悲とは感じることのようなのだが、どうもこの「大悲」にヒントがあるらしい。左脳だけではだめで右脳も使え、ということだろうか。

すっきりとしないが、「業」「大智」「大悲」がキーワードであることがわかったので、これでよしとしたい。





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光の子として歩みなさい

光の子として歩みなさい
(エフェソの信徒への手紙5章8節)

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『人生タクシー』(映画メモ)

『人生タクシー』(2015年、 ジャファル・パナヒ監督)

ベルリンの「金熊賞」を受賞した本作は、イラン社会を批判した映画。パヒナ監督自らがタクシー運転手となり、イランにおける等身大の現実を映している。

乗り合いタクシーには少しビックリしたが、テヘランはいたって現代的な都会である。ふつうのオッちゃん風のパナヒ監督が、違和感なしにドライバーを務めているのだが、後半になると徐々にイラン社会の闇や圧力が伝わってくる。

ちなみに、パナヒ監督は、政府から20年間の映画製作禁止を出されながらも平気で映画を撮っているすごい人。

ただ、イラン政府に対する怒りだけではなく、イラン社会への愛も伝わってくるところがチャーミングだと思った。






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『西行 魂の旅路』(読書メモ)

西澤美仁編『西行 魂の旅路』角川ソフィア文庫

平安末期に活躍した歌人・西行は、名門の家に生まれて崇徳天皇在位中に北面の武士を務めるものの23歳で出家。それからは和歌にすべてをささげる人生を送ったという。高野山や伊勢神宮を拠点として活動した西行は1190年に73歳で亡くなっている。

西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌。

何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる

編者の西澤氏によれば、実はこの歌、西行が作ったものではないことがわかっているという。当時、お伊勢参りが爆発的に流行した際のキャッチフレーズのような歌らしい。

確かに他の歌と比べると少し大げさな気もするが、歌としては好きである。

西行がいてこそ、この歌がこの世に遺された、ともいえる。
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わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる

わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる
(イザヤ書55章7節)

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『異邦人』(読書メモ)

カミュ(窪田啓作訳)『異邦人』新潮文庫

なんとも不思議な読後感だった。

堅実な勤め人であるムルソーは、養老院に入っていた母の死にも感情を動かすことがなく、恋人マリイから結婚しようといわれても「君が望むのなら結婚してもいい」と答えるような、どこか現実から距離を置きながら生活している人間。

そんなムルソーは、ちょっとしたハプニング(正当防衛)から殺人を犯してしまうが、裁判のプロセスにおいても、どこか他人事のよう。

がゆえに、事態はどんどん悪い方向へとすすむ。普通の感覚を持つ人から見ると、ムルソーは非人間的で冷血漢に見えるからだ。

この小説を読むと、いかに世間が、共有した規範・倫理観・道徳を前提に動いているか、また、そうした前提を無視すると、とたんに排除されてしまうかがわかる。

世間における「あたりまえ」の恐ろしさに気づかせてくれる本書は、やはり名作だと思った。



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強すぎるレジリエンスの問題

ストレスのかかる困難な状況に負けず、心理的に回復する能力を「レジリエンス」と呼ぶ。

一見大切な能力に思えるが、プレミュジックとラスクによると、レジリエンスが高すぎても問題があるらしい。

なぜか?

それは、レジリエンスが強すぎると
・達成不可能な目標に固執し
・過度の自信や楽観主義のせいで、ムダなエネルギーを使い
・部下や他者からも拒絶されてしまう

からだ。

要は、レジリエンスが普通レベルだと、良い意味での「あきらめ」が働き、軌道修正することができるが、レジリエンスが高すぎると軌道修正が難しくなる、ということだろう。

精神が強靭すぎても問題が起こるという点が面白い。

出所:ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー2019年11月号, p.92-94.

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『用心棒』(映画メモ)


『用心棒』(1961年、黒澤明監督)

とある宿場町にぶらりと寄った浪人(三船敏郎)が、二つに割れたやくざの抗争を解決する物語。強さだけでなく知力を使ってうまく切り抜けるところが一流の用心棒の証である。

ストーリー的には大したことないが、仲代達矢、東野英治郎、加藤大介等、役者の迫力が映画を作っている。

この映画は、他の黒沢映画に比べて、三船敏郎の存在感がずば抜けているのだが、なぜだろうと考えたところ、用心棒役にぴったりはまっているからだと思った。

『七人の侍』『赤ひげ』『酔いどれ天使』『羅生門』の三船敏郎も良かったのだが、どこか本人とずれているように感じた。それに対し、自信に満ち、飄々として、自然体な用心棒役はとても「三船敏郎らしい」のだ。

組織においても、自分の強みと役割がうまくマッチすると、「自分らしい」仕事ができるのだろう、と思った。
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何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
(箴言4章23節)
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