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『ブルックリン・フォーリーズ』(読書メモ)


ポール・オースター(柴田元幸訳)『ブルックリン・フォーリーズ』新潮文庫

60歳になろうとするネイサンは、仕事を辞め、離婚した後、肺がんの再発におびえつつ、ブルックリンで独り暮らしを始める。

エリート研究者だったのに落ちぶれてしまった甥のトムと、ブルックリンの古本屋で遭遇してから、さまざまな難題がネイサンに降ってくる

自分の人生はもうすぐ終わる」という終末期感が吹っ飛び、八面六臂の活躍をするネイサンを見ていると、「自分ならではの、自分らしい仕事(活動)」が人生に活気をもたらすことがわかる。

本書で印象に残ったのは次の文章。

「私が言っているのは生存本能、生きる意志のことだよ。私としてはいつだって、信心深いお人好しより手練手管の悪党を歓迎するね。いつもルールを守ってプレーするとは限らんかもしれんが、とにかくガッツはある。そしてガッツがある人間がいるかぎり、世の中まだ望みはあるのさ」(p. 77-78)

「生きる意志」「ガッツ」って大事だな、と思った。
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力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9節)

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『ゴールデンスランバー』(映画メモ)

『ゴールデンスランバー』(2010年、中村義洋監督)

ずっと気になっていた映画をやっと観た。

宅配運転手の青柳(堺正人)が、国家的陰謀に巻き込まれ、首相殺害犯に仕立て上げられて追われるというストーリー。

元恋人の晴子(竹内結子)や大学の後輩カズオ(劇団ひとり)、そして通り魔キルオ(濱田岳)に助けられながら、警察から逃れるシーンは、日本版の「ボーン・シリーズ」のようで楽しめた。

ちなみに、悪い警察幹部役の香川照之と、いっちゃってる殺し屋役の永島敏行が憎たらしいところがよい。やはりアクション映画は、悪者が大事である。

なお、冒頭シーンとラストに工夫がされているため、思わず「上手い!」と言いそうになった。

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主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる

主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる
(箴言20章22節)

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『みなさんさようなら』(映画メモ)

『みなさんさようなら』(2013年、中村義洋監督)

小学校卒業後、中学にも行かず、町田の巨大団地の中で生きることを決めた悟(濱田岳)。中学は自学自習、卒業後は団地内のケーキ屋に勤め、奇妙なことに、毎晩、小学校の同級生が無事かどうかをチェックすることを日課にしている。

なぜか?

それは観てのお楽しみだが、日本ではめずらしい「トラウマ系映画」である。

13歳から30歳までを演じる濱田岳の演技が光る(さすがに中1には無理があったが…)。

ちなみに、同級生の安全を守るために、悟が極真空手を自己流で修行するところがよかった(師匠は大山倍達)。トラウマを背負うと、ふつうは自分を守るものだが、他者を守るところがすばらしい。

30歳になるまで、同級生がどんどん引っ越していき、誰もいなくなるのだが、それはそれで、守り抜いたということである。

人間だれもが何らかのトラウマを抱えていると思うが、他者のためにトラウマを乗り越えるのもありだと思った。

なお、僕は10歳まで町田の団地(森野団地)で育ったので、めちゃくちゃなつかしかった(町田第4小学校)。



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『無意識の心理』(読書メモ)

ユング(高橋義孝訳)『無意識の心理』人文書院

フロイトとユングを題材にした映画『危険なメソッド』を観てから、(僕の中で)すっかりイメージが悪くなったユングだが、本書を読んで一変した。

とても論理的でわかりやすく説得力がある本である。特に、フロイトとアドラー(フロイトの初期の弟子)の理論を統一的に説明しているところがよかった。

神経症(ノイローゼ)の原因として、フロイトが「両親(客体)との関係」を、アドラーは「個人(主体)が持つ権力欲求」を強調しているという。

つまり、精神分析には、エディプスコンプレックスのような両親との性愛的関係に着目する「客体的アプローチ」と、他人をコントロールしたいという自己の権力欲求に焦点を当てた「主体的アプローチ」があるのだ。

ユングの主張は、これら二つの理論を「道具として」を使いながら精神分析すればいいじゃないかというもので、大変バランスがとれている。

なお、性愛や権力といった「無意識の衝動」によって「心的エネルギー(心的強度)」が生まれるのだが、このエネルギーをどう利用するかが問題になる、とユングは言う。

「心的エネルギーはまさに気難し屋なのだ。それは自分自身の諸条件の満たされんことを欲する。エネルギーはどんなに沢山あろうとも、そのエネルギーのお気に召した斜面を作ることに成功しないうちは、われわれはそのエネルギーを有効に利用することが出来ないのである」(p. 84-85)

ちなみに、「斜面」とは、人間の心が自然に転がっていくような方向を意味しているようだ。

では、この斜面はどうやって作るのか?

「残念だがわれわれは自由の身になったエネルギーに任意の方向を与えることが出来ない。エネルギーは自分自身の斜面を流れて行く」(p. 101)

「ふーむ」。精神分析によって、無意識の中にある影の部分(性愛あるいは権力欲求)が存在することが「意識化」された後は、「自然に任せよ」ということなのだろうか?

このへんになってくると曖昧でよくわからないのだが、最初のほうに書いてあった次の箇所は腑に落ちた。

「精神分析が人間の動物的衝動を意識化するというのはまさにその通りだが、人がいうようにそれは動物的衝動に無制限な自由を与えようがためでなく、動物的衝動をしかるべき意味を持った一つの全体のうちに秩序づけようがためなのである。つまりどの途、われわれが自己自身の全体をしっかり掌握しているということはいいことなのだ。なぜならそうでないと、抑圧された諸内容が別の色々な面でその人間の生活を妨害するからである」(p. 39)

無意識の自己理解が鍵になるらしい(しかし、「自分の中の闇」を知ったら落ち込んでしまう気もするが…)。

本書の後半には「集合的無意識」の説明があるが、「常に繰り返される人類の経験の沈殿した神話類型的な概念」であることがわかり、それまで自分が持っていたユングへの偏見がなくなった。













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人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。

人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
(箴言16章9節)

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『Learning to Drive』(映画メモ)

『Learning to Drive (しあわせへのまわり道)』(2014年、イザベル・コイシェ監督)

有名な書評家ウェンディ(パトリシア・クラークソン)は、仕事に夢中になりすぎて、旦那に浮気され、離婚することに。

ひょんなことから自動車の運転を習うことになるのだが(ちなみに個人レッスン)、インド出身の先生ダルワーン(ベン・キングズレー)の誠実な教習を受けているうちに、自分の生き方についても振り返るようになるという物語。

なお、シーク教徒であるダルワーンは、インドからの(一度もあったことがない)花嫁を迎え入れるものの、お互いにすれ違うばかり。いつも教える立場のダルワーンが、ウェンディからアドバイスを受ける場面が良かった。

「君を理解していく
違いを乗り越えるべく日々戦う
君にはその価値がある」


と伝えなさいという内容である。

相手を理解しようという気持ちが「相互信頼」につながる、と改めて思った。
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『ほとんど見えない』(読書メモ)

マーク・ストランド(森邦夫訳)『ほとんど見えない』巷の人

マーク・ストランドは、カナダ生まれのアメリカの詩人。

本作は、詩というより「散文的小品」であるという(訳者解説)。右ページに作品が一つ書かれ、左ページは白紙である。

孤独感が伝わってくる作品が多く、内容は難解なのだが、なぜか響く

死後に」という作品を紹介したい。

彼女は何年もわたしの傍に立っていた、あるいは一瞬だったのか。わたしは思い出せない。たぶんわたしは彼女を愛していた、いやそうでなかったかもしれない。家が一軒あった。それから家はなくなった。木々があったが、一本も残っていない。誰もが思い出さないとき、そこには何があるのか。きみの時間が去り、死後の煙のように漂うきみ、わたしに何か言ってくれ、何でもいいから言ってくれ。
(p. 83)

生きること、死ぬこと」の意味について考えさせられた。




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あれほどの富が、ひとときの間に、みな荒れ果ててしまうとは

あれほどの富が、ひとときの間に、みな荒れ果ててしまうとは
(ヨハネの黙示録18章17節)

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