松尾睦のブログです。個人や組織の学習、書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。
ラーニング・ラボ
お互いさま
『老妓抄』の中で印象に残った作品のなかに「食魔」がある。
大きな寺の住職の子として生まれながら、父の死後、さまざまな苦労を経て、かなり性格がねじ曲がってしまった料理の天才・鼈四郎が主人公なのだが、その中に、次のような一節がある。
「こう思って来ると、世の中に自分一代で片付くものとては一つも無い。自分だけで成せたと思うものは一つもない。みな亡父のいうお互いさまで、続かり続け合っている」(p.252)
自分の力で生きてきたかのように錯覚してしまう私たちであるが、改めて「お互いさま」の中で生きているなのだな、と感じた。
出所:岡本かの子『老妓抄』新潮文庫
大きな寺の住職の子として生まれながら、父の死後、さまざまな苦労を経て、かなり性格がねじ曲がってしまった料理の天才・鼈四郎が主人公なのだが、その中に、次のような一節がある。
「こう思って来ると、世の中に自分一代で片付くものとては一つも無い。自分だけで成せたと思うものは一つもない。みな亡父のいうお互いさまで、続かり続け合っている」(p.252)
自分の力で生きてきたかのように錯覚してしまう私たちであるが、改めて「お互いさま」の中で生きているなのだな、と感じた。
出所:岡本かの子『老妓抄』新潮文庫
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『老妓抄』(読書メモ)
岡本かの子『老妓抄』新潮文庫
岡本太郎のお母さんである岡本かの子の短編集。
奔放なイメージが強いかの子さんだったが、作品のクオリティの高さに驚いた。まるで川端康成の作品のようだなと思っていたら、後でウィキペディアで調べたところ、川端康成に小説を教えてもらっていたらしく、そのことにも驚いた。
一番印象に残ったのは「鮨」。
「先生」と呼ばれる上品な常連客と、鮨屋の娘が街で出会う。
「あなた、お鮨、本当に好きなの」
「さあ」
「じゃ何故来て食べるの」
「好きでないことはないさ、けど、さほど食べたくない時でも、鮨を喰べるということが僕の慰みになるんだよ」
「なぜ」
(p.55)
この後、先生の小さいころの話しが展開されるのだが、これがまたいい。
読者の心に沁みてくるようなストーリーと文章に出会い、「読んでよかった」と感じた。
岡本太郎のお母さんである岡本かの子の短編集。
奔放なイメージが強いかの子さんだったが、作品のクオリティの高さに驚いた。まるで川端康成の作品のようだなと思っていたら、後でウィキペディアで調べたところ、川端康成に小説を教えてもらっていたらしく、そのことにも驚いた。
一番印象に残ったのは「鮨」。
「先生」と呼ばれる上品な常連客と、鮨屋の娘が街で出会う。
「あなた、お鮨、本当に好きなの」
「さあ」
「じゃ何故来て食べるの」
「好きでないことはないさ、けど、さほど食べたくない時でも、鮨を喰べるということが僕の慰みになるんだよ」
「なぜ」
(p.55)
この後、先生の小さいころの話しが展開されるのだが、これがまたいい。
読者の心に沁みてくるようなストーリーと文章に出会い、「読んでよかった」と感じた。
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わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています
(ローマの信徒への手紙7章18節)
(ローマの信徒への手紙7章18節)
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『クマにあったらどうするか』(読書メモ)
姉崎等・片山龍峯『クマにあったらどうするか』ちくま文庫
アイヌ民族最後の狩人と呼ばれる姉崎等さんが、クマについて語ったのが本書。
タイトルにもあるが、クマにあったらどうするのか?
クマに遭遇したときの姉崎さんは、次のように行動したらしい。
「もう無我夢中ですから、右や左に出す顔の先には必ず私の銃口を向けるんです。そして「ウォー、ウォー」と私も声を出す。絶対にこれは声を出す。どんな場合でも声で圧倒するだけの力で「ウォーッ、ウォーッ、ウォーッ」と声を出す。その声にはやっぱり向うもひるむから飛びつかない。すきがないから飛びつけないんですよ。向うは「ワウ、ワウ、ワウ、ワーッ」とおもいきりうなる。そのうなり声に負けないだけの声を出すんですよ」(p.223-224)
その後もクマとの闘いが続くのだが、要は、クマに負けないくらいの気迫を持たないとやられるらしい。
一番驚いたのは、クマに食べられそうになったときにやるべきこと。
「クマは人間をかじろうとして口をあけるから、手を握って、こぶしを作って腕をクマの口の中に突っ込んでベロ(舌)をつかんで押したり引っ張ったりする。そうやって喉を塞がれると、クマのほうも嫌だから逃げて行ったというハンターの話しはあります」(p.330-331)
クマの口に腕を突っ込むなんてとてもできそうにないが、クマに限らず、窮地に陥ったときには気迫がものをいうのだな、と思った。
アイヌ民族最後の狩人と呼ばれる姉崎等さんが、クマについて語ったのが本書。
タイトルにもあるが、クマにあったらどうするのか?
クマに遭遇したときの姉崎さんは、次のように行動したらしい。
「もう無我夢中ですから、右や左に出す顔の先には必ず私の銃口を向けるんです。そして「ウォー、ウォー」と私も声を出す。絶対にこれは声を出す。どんな場合でも声で圧倒するだけの力で「ウォーッ、ウォーッ、ウォーッ」と声を出す。その声にはやっぱり向うもひるむから飛びつかない。すきがないから飛びつけないんですよ。向うは「ワウ、ワウ、ワウ、ワーッ」とおもいきりうなる。そのうなり声に負けないだけの声を出すんですよ」(p.223-224)
その後もクマとの闘いが続くのだが、要は、クマに負けないくらいの気迫を持たないとやられるらしい。
一番驚いたのは、クマに食べられそうになったときにやるべきこと。
「クマは人間をかじろうとして口をあけるから、手を握って、こぶしを作って腕をクマの口の中に突っ込んでベロ(舌)をつかんで押したり引っ張ったりする。そうやって喉を塞がれると、クマのほうも嫌だから逃げて行ったというハンターの話しはあります」(p.330-331)
クマの口に腕を突っ込むなんてとてもできそうにないが、クマに限らず、窮地に陥ったときには気迫がものをいうのだな、と思った。
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あきらめることの楽しさ
隈研吾氏は、大手建設会社に勤務後、米国留学を経て、バブル期には、大きな建築物を設計する建築家として華々しく活躍した。
しかし、利き手の大けがをきっかけに、都会の仕事から地方の町や村の仕事へとシフトする。わずかな予算を工夫して、職人と話し合いながら、誰もやったことがない建築方法を模索していたという。
ただし、建築雑誌で友人が都会で活躍している様子を知ると落ち込むことも。隈氏は言う。
「いい仕事、たしいたことない仕事という業界の選別がすり込まれていたんだろうね」
その後、木や竹などの自然素材を取り入れた「小さな建築」「負ける建築」を提唱するようになる。
そのきっかけは、やはり右手の大けがだ。
「右手が動かないなら、それなりにできることを見つければいい。受け入れること、あきらめることの楽しさみたいなものを知った」
現状を受け入れるが、前向きに生きる。まさに、「いき」な仕事スタイルである。
そんな境地になってみたい、と思った。
出所:日本経済新聞2017年11月12日
しかし、利き手の大けがをきっかけに、都会の仕事から地方の町や村の仕事へとシフトする。わずかな予算を工夫して、職人と話し合いながら、誰もやったことがない建築方法を模索していたという。
ただし、建築雑誌で友人が都会で活躍している様子を知ると落ち込むことも。隈氏は言う。
「いい仕事、たしいたことない仕事という業界の選別がすり込まれていたんだろうね」
その後、木や竹などの自然素材を取り入れた「小さな建築」「負ける建築」を提唱するようになる。
そのきっかけは、やはり右手の大けがだ。
「右手が動かないなら、それなりにできることを見つければいい。受け入れること、あきらめることの楽しさみたいなものを知った」
現状を受け入れるが、前向きに生きる。まさに、「いき」な仕事スタイルである。
そんな境地になってみたい、と思った。
出所:日本経済新聞2017年11月12日
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『愛を読むひと』(映画メモ)
『愛を読むひと』(スティーブン・ダルドリー監督、2009年)
ずっと観たかった映画。初めから終わりまで惹きこまれた。
15歳のとき、年上の女性ハンナとひと夏の関係を持ったマイケル。その後、ロースクールの授業で裁判所を訪れた際、ナチ関連の罪でハンナが裁かれているのを知り、ストーリーが展開する。
ハンナ役ケイト・ウィンスレットの演技が凄かった。
希望と絶望は隣り合わせであることが伝わる作品である。
「赦すこと」と「忘れる」ことの大切さについて考えさせられた。
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修業と仏教
仏教というと「修行」というイメージがある。
しかし、ブッダは修行の限界に気づき、修行を中止した、と増谷先生は言う。
「ところが、釈尊は、その苦行をつづけているうちに、どうもおかしいということに気付かれたのであります。だんだん肉体の力を弱めてゆけば、精神の力が強まってくる。そうなるものと思って断食苦行しておるのに、どうもそうは行かないのです(中段)そこで、あえて申しておかねばならぬと思うのですが、釈尊というかたは、あきらかに合理的なお方でありました。だから、そのことに気が付かれると、これは方法が間違っていたのだとして、まもなく、その断食苦行を中止いたしました。しかるに、よく耳にする話では、釈尊は、たいへんな苦行にたえられたすえ、ついてに「さとり」を得られたといったことを聞くのでありますが、それはけっして正しい話ではありません」(p.13)
日本の文化は「修行しろ、修行しろ」といった考え方が強いように思われるが、そうした価値観はむしろ仏教の基本からは離れたものである、ということになる。
ブッダの精神に立ち返るのであれば、むしろ修行よりも、真理を言葉で理解することのほうが重要になる、といえるかもしれない。
しかし、ブッダは修行の限界に気づき、修行を中止した、と増谷先生は言う。
「ところが、釈尊は、その苦行をつづけているうちに、どうもおかしいということに気付かれたのであります。だんだん肉体の力を弱めてゆけば、精神の力が強まってくる。そうなるものと思って断食苦行しておるのに、どうもそうは行かないのです(中段)そこで、あえて申しておかねばならぬと思うのですが、釈尊というかたは、あきらかに合理的なお方でありました。だから、そのことに気が付かれると、これは方法が間違っていたのだとして、まもなく、その断食苦行を中止いたしました。しかるに、よく耳にする話では、釈尊は、たいへんな苦行にたえられたすえ、ついてに「さとり」を得られたといったことを聞くのでありますが、それはけっして正しい話ではありません」(p.13)
日本の文化は「修行しろ、修行しろ」といった考え方が強いように思われるが、そうした価値観はむしろ仏教の基本からは離れたものである、ということになる。
ブッダの精神に立ち返るのであれば、むしろ修行よりも、真理を言葉で理解することのほうが重要になる、といえるかもしれない。
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『釈尊のさとり』(読書メモ)
増谷文雄『釈尊のさとり』講談社学術文庫
すべてが絶えず変化している世の中において、人間は「生・老・病・死」という四苦から逃れることができない。
では、どのようにして四苦に対応すればよいのか?
その解をブッダは「さとり」すなわち直観によって理解したという。
人間の苦は、「無明(無知)」→「取(執着)」→「苦」という順番で生じるのであるから、それらを解消すればよい、と増谷先生は言う。
「まず無明をなくすることから始めねばなりません。無明をなくするためには、まず、一切の存在の真相を正しく見ることが必要であります。無知ではなくて、知が必要であります。仏教というものは、まさしく智慧のおしえであります。かくして、まず、その無明がなくなると、こんどは取がなくなるのであります。すべては時の移ろいとともに変化します。つまり、無常なるものに執着することはなくなるのであります。そして、取がなくなればおのずから苦もなくなるのであります」(p.51)
うーむ。理解しただけで苦がなくなれば苦労しないのだが…。
と思ったところで、「中道」という考え方が出てきた。中道とは「厳しい修行」でもなく「快楽をむさぼる」ことでもなく、その中間であり、「あるがまま」の生き方である。極端に偏らずにあるがままに生きる。それが、中道であり正道であるという。
運命を受け入れつつ、自分らしさを忘れないという意味では「いき」に通じるものがある。
と同時に、中道を歩むことの難しさも感じた。
すべてが絶えず変化している世の中において、人間は「生・老・病・死」という四苦から逃れることができない。
では、どのようにして四苦に対応すればよいのか?
その解をブッダは「さとり」すなわち直観によって理解したという。
人間の苦は、「無明(無知)」→「取(執着)」→「苦」という順番で生じるのであるから、それらを解消すればよい、と増谷先生は言う。
「まず無明をなくすることから始めねばなりません。無明をなくするためには、まず、一切の存在の真相を正しく見ることが必要であります。無知ではなくて、知が必要であります。仏教というものは、まさしく智慧のおしえであります。かくして、まず、その無明がなくなると、こんどは取がなくなるのであります。すべては時の移ろいとともに変化します。つまり、無常なるものに執着することはなくなるのであります。そして、取がなくなればおのずから苦もなくなるのであります」(p.51)
うーむ。理解しただけで苦がなくなれば苦労しないのだが…。
と思ったところで、「中道」という考え方が出てきた。中道とは「厳しい修行」でもなく「快楽をむさぼる」ことでもなく、その中間であり、「あるがまま」の生き方である。極端に偏らずにあるがままに生きる。それが、中道であり正道であるという。
運命を受け入れつつ、自分らしさを忘れないという意味では「いき」に通じるものがある。
と同時に、中道を歩むことの難しさも感じた。
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