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『テンペスト』(読書メモ)

シェイクスピア著(松岡和子訳)『テンペスト』ちくま文庫

シェイクスピアが47歳のときに書いた、最後の単独作である。ちなみに、テンペストとは「嵐」の意味らしいが、他の作品とはかなり異なる作風だ。

ミラノの正当な君主であったプロスペローが、弟アントーニオの策略にはまり、娘ミランダとともに孤島に流される。魔法を身につけたプロスペローは、アントーニオと関わる人々を遭難させ、復讐のチャンスを得る。しかし、自分を陥れた人々にリベンジするかと思いきや、あっさりと「赦してしまう」プロスペロー。

このストーリーは、どこか不自然である。なぜ、シェイクスピアはこのような作品を書いたのか?

解説を読むと、この作品が書かれた当時、若い劇作家が台頭していたことから、シェイクスピアは「もう自分の時代は終わった」と思っていたらしい。

「あのシェイクスピアでさえ、そうなるのか?」と驚いた。

本書を読み、歴史に名を刻む文学者も、衰えからは逃れられないのだな、と思った。










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『岸和田少年愚連隊』(映画メモ)

『岸和田少年愚連隊』 (1996年、井筒和幸監督)

2か月くらい前に観たのだが、面白かったものの「?」と思ってしまった作品。なぜなら、ひたすら不良少年達が抗争を繰り返しているだけの映画のように感じたからである。

大阪岸和田の中学校に通う主人公チュンバ(矢部浩之)は親友小鉄(岡村隆)とともに、宿敵サダ(木下ほうか)との喧嘩にあけくれる(中学生という設定に無理があるが…)。たとえ相手が大人数であろうと、仲間がやられたら必ず仕返しするチュンバ。その結果、ボコボコにされることも多い。

高校生になっても基本的パターンは同じである。鑑別所に入れられる寸前までいくチュンバだが、いつもおかん(秋野陽子)の泣き落とし作戦に助けられる(最後には入れられてしまうが)。

そして、印象的なのは、いつも家でぶらぶらしているおとん(石倉三郎)とおじい(笑福亭松之助)がテレビで「野生の王国」を見て感動している場面(なつかしい)。

という感じの映画なのだが、なぜか「残る」ものがあった。最近、それが「美学」であることがわかった。

チュンバには明確な「美学」「哲学」があって、その内容はともかく、こだわって生きているのだ。

あらためて、自分なりの「美学」を持って生きたい、と感じた。

ちなみに、矢部浩之の演技が上手くて驚いた。











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安らかに信頼していることにこそ力がある

安らかに信頼していることにこそ力がある
(イザヤ書30章15節)

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『世界を、こんなふうに見てごらん』(読書メモ)

日高敏隆『世界を、こんなふうに見てごらん』集英社文庫

動物行動学者の日高敏隆先生のエッセイ。

こどもの頃から虫が大好きだった先生は、とにかく観察を大事にする。

「いきものとおしゃべりするには、観察するのがいちばんだ。子どものころ、ぼくは、虫と話がしたかった。おまえはどこに行くの。何を探しているの。虫は答えないけれど、いっしょうけんめい歩いていって、その先の葉っぱを食べはじめた。そう、おまえ、これが食べたかったの」(p. 3)

さらに先生は言う。

「ぼくも生物学者のひとりだが、生物学が好きなのではなくて、生物が好きなのだ。こんなところにこんな虫がいて、こんな生き方をしているということがおもしろい。それが生物学にとってどんな意味を持っているかを考えたことはまずない」(p. 96)

この箇所を読み、「えっ!?研究者がそれでいいの?」と思ってしまった。しかし、本書を読み進めるうちに、日高先生は研究者という枠を超えて、純粋な「探求者」であることがわかってきた。この本を読んで一番驚いたのは、次の箇所である。

「小学校のころ、犬の死骸をじっと観察していたことがある。ウジはあまりおもしろくなかったが、甲虫類がいろいろいて、それがおもしろかった。虫たちが、ほかの虫をつっついたり、違うところから顔を出したり、ぶつかってけんかしたりしているところをつぶさに眺める。一回一回の観察時間はそう長くないが、とにかく毎日見る。日に何度も見る。あ、今さっきはこうしていたのに、今はこんなことをしている、ああ、こんなこともするんだ、とわかる。観察する犬の死骸にはあらかじめ狙いをつけ、段ボールなどでふたをかぶせておいた」(p.120)

そうとうな変人であるが、日高先生はこの好奇心と探求心を一生持ち続けていたように感じた。

自分もそういう姿勢で仕事がしたい、と思った。


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尊敬・応援・伴走

元編集者で小説教室講師の根本昌夫さんは、たくさんの小説家を育てている。今年の芥川賞を受賞した二人も根本さんの教え子である。

いったいどんな教え方をしているのか?

日経新聞記者によれば、根本さんの小説教室は次のような雰囲気らしい。「平日の夕方、都内の教室をのぞいた。生徒が作品を批評し合い、最後に根本さんが口を開く。「うまいねえ」「新人賞とれるよ」。ひとしきり褒めた後、思い出したように「最後はちょっとこうしたら」。優しい口調に場が和む」

基本的には「強みを伸ばし」「改善点を示唆する」指導のようだ。根本さんの信念にも感銘を受けた。

「編集者が作家を育てるのではない。応援して伴走するのが仕事」「生徒も書き手としてリスペクトしている」

相手を「尊敬」しつつ「応援」「伴走」するという指導は、ある意味、究極の方法である。

上司ー部下、教師ー生徒の関係においても目指すべき方法だと思った。

出所:日本経済新聞2018年5月20日






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ただで受けたのだから、ただで与えなさい

ただで受けたのだから、ただで与えなさい
(マタイによる福音書10章8節)


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『ミツバチのささやき』(映画メモ)

『ミツバチのささやき』(1973年、ビクトル・エリセ監督)

ずっと観たかった映画なのだが、イマイチよくわからなかった。しかし、とにかく映像がきれいな作品である。

時は、第二次世界大戦中のスペインの田舎町。移動映画『フランケンシュタイン』を観た少女アナ(アナ・トレント)はショックを受ける。その後、逃亡兵に食事を与えたりするが、その兵士が射殺され、そして映画は終わってしまう。

どうも、スペイン政府を暗に批判した映画らしい。

そのへんのところはあまり興味ないが、子供の頃の心象風景を見ているような気持ちになった。

意味はわからなくても、いい映画はあるな、と思った。


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『車輪の下で』(読書メモ)

ヘルマン・ヘッセ(松永美穂訳)『車輪の下で』(光文社古典新訳文庫)

大学生の頃に読んだが、すっかり忘れていたのであらためて読んだ。

田舎の秀才ハンスは、猛勉強の末に、難関の神学校に2番の成績で入学する。そこで孤高の詩人で異端児のハイルナーと出会ったハンスだが、彼が退学させられると、ノイローゼになり、成績もガタ落ちになってしまう。その後、学校を辞めて故郷に戻り、機械工としてやり直そうとしたが…。

解説によれば、この小説はヘッセの自伝的小説であり、ハンスとハイルナーはヘッセ自身の姿を投影させたものらしい(実際、詩人を目ざしていたヘッセは神学校を脱走している)。

本書の中で印象に残ったのは次の箇所。

「学校の先生はクラスに天才が一人いるよりも、正真正銘の鈍才が十人いる方を喜ぶものである。それはもっともなことである。というのも、教師の課題は極端な人間を育てることではなく、ラテン語や計算のできる小市民を養成することにあるからだ」(p. 154)

「そういうわけで、学校や時代が変わっても掟と精神のあいだの闘争という茶番がくりかえされ、我々は常に国家と学校が、毎年出現する何人かの価値ある深遠な精神を、たたき殺し根元で折り取ろうと息を切らして努力している様子を目撃するのである」(p. 155)

このことは、学校に限らず、企業においても当てはまるのではないか。

大企業においては、会社を根本から変えるポテンシャルを持つ「虎」のような学生よりも、従順で利口な「犬」のような学生をとりたがるからだ。特に日本企業はその傾向が強いように思える。

ちなみに、「虎」であるヘッセは、神学校を辞めたあとギムナジウム(高校)に入るが、そこも辞め、職を転々とした後、書店に勤めながら小説を書き出した。そして、27歳のときに『ペーター・カーメンツィント』で有名作家になる。

日本社会の虎たちは、どのような人生を歩んでいるのか、気になった。












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わたしたちはあなたの民 あなたに養われる羊の群れ

わたしたちはあなたの民 あなたに養われる羊の群れ
(詩編79章13節)

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『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(映画メモ)


『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年、ラース・フォン・トリアー監督)


魂が揺さぶられる映画である。

目が見えなくなってしまう病気の家系に生まれたセルマ(ビョーク)は、同じ病気を背負った息子の治療費を稼ぐために工場で懸命に働いている(ちなみに、自分の治療は諦めている)。そして、もう少しで手術代が貯まる、というところで悲劇が訪れる。

この映画の不思議なところは、最もつらい場面で、いきなりミュージカルが始まり、楽しい気持ちになること。セルマは、どんなにつらいときでも、音楽とダンスによって、幸せになれる人なのだ(アイスランド出身の歌手ビョーク(セルマ)の歌が心に響く)。

映画を観ていると「なぜ、彼女に悲劇が?」という問いが浮かんでくる。しかし、よく考えると、僕の周りにも、正直に暮らしているにもかかわらず、病気や事故で苦しむ人々がいることに気づいた。

セルマには悲しい結末が訪れるが、不思議に悲壮感はない

なぜか?

それは、彼女の周りには心から応援してくれる人々がいるからだ。

最後のときに、「良きつながり」を持っている人が、一番幸せなのかもしれない、と思った。











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