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『千曲川のスケッチ』(読書メモ)

島崎藤村『千曲川のスケッチ』新潮文庫

詩人で小説家の島崎藤村が、信州の小諸にある学校に教師として滞在していたときのエッセイ的な書。

やや上から目線で、のどかな自然や素朴な地域住民の暮らしが紹介されている。

実は、この本を読み通すのはつらかった。なぜなら、読んでいる途中で藤村が「問題のある人」であることがわかったからだ。

彼は、作家として独立後に、娘三人を栄養失調で亡くし、奥さんが亡くなった後に、家を手伝いに来ていた姪を妊娠させ、関係を解消するためにそれを題材とした小説を書いているのだ。

こんな事をしてきた人の本は読みたくなくなったのだが、藤村にとって、小諸時代が人間らしく生きることができた時だったのかもしれないということに気づいた。

人生遍歴を暴露されてしまう有名人も大変だな、と改めて思った。

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『ジャンヌ・ダルク』(映画)


『ジャンヌ・ダルク』(1999年、リュック・ベッソン監督)

イギリスとの百年戦争において、フランスを救った英雄ジャンヌ・ダルクを描いた作品。

冒頭部分、ジャンヌ(ミラ・ジョボヴィッチ)の姉が殺されるシーンが強烈すぎてトラウマになりそうになったが、全体的には良作といえる。基本的に、イギリス兵が極悪に描かれており、フランス人のイギリス嫌いが露骨に出ている点がおかしかった。

神の啓示を受けてフランス軍に参戦した農家の娘ジャンヌだが、その使命感が半端ではない。

私は考えない 神のご意志に従う。私は神の使者にすぎない

ジャンヌが参戦すると、兵士の士気が上がる場面もよい。

社会を変えていく人物は、強烈な使命感を持っているのだろうが、その後、世間からひどい目に逢うという点が悲しい。

環境問題のグレタさんのことが心配になった。







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悟りのない民は滅びる

悟りのない民は滅びる
(ホセア書4章14節)

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『苦海浄土』(読書メモ)

石牟礼道子『苦海浄土』講談社文庫

友人にすすめられて読んだ。

石牟礼さんの「語り」の迫力によって、水俣病の恐ろしさを感じるとともに、テクノロジーや経済発展への疑問が湧いてきた。

何も悪いことをしていないにもかかわらず、突然、人間らしい生活を奪いとられてしまう人たちの苦しみが伝わってくる。水俣病のため、生まれつき身体も動かせず、話もできない杢太郎少年(10歳)のおじいさんは次のように語る。

「あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん、それでも目はみえ、耳は人一倍ほげ、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆そうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眸(め)ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん。何ば思いよるか、わしゃたまらん」(p.212-213)

水俣病という限定的な問題を越え、文明がもたらす副作用について考えさせされた。

なお、水俣病患者の「語り」に、医療報告書・議会議事録を組み合わせた構成も巧みである。

驚くべきことに、本書は石牟礼さんによる「聞き書き」ではない。各家庭を訪問したのは1,2度くらいであり、この本の中の「語り」は石牟礼さんの解釈である。

だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」(解説 p. 371)

裏表紙の解説にあるように、本書は、ルポルタージュを越えた「いのちの文学」である。


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『好きにならずにいられない』(映画メモ)


『好きにならずにいられない』(2015年、ダーグル・カウリ監督)

舞台はアイスランド。

超巨漢、43歳独身のフーシ(グンナル・ヨンソン)は空港の貨物係。趣味は、戦場の模型作りやラジコンカーというオタクである。

無口でまじめに働くフーシだが、職場では同僚からのいじめにも逢っている。女性に関心を示さない彼を心配した母親が無理やりダンス教室に行かせたところ、シェヴン(リムル・クリスチャンスドッティル)と出会い、仲良くなるものの、いろいろな問題が発生する、というストーリー。

何が感動するかというと、フーシのやさしさである。ほとんどキリストに近いくらいの慈悲心がある。

心理的に不安定なシェブンに振り回されながらも「どうしてほしい?」と聞くフーシ。エロス(自分中心の愛)ではなく、アガペー(無私の愛)なのだ。こんなふうに優しくなりたいと思うが、絶対ムリである。

すばらしい映画だったのだが、タイトルとポスターは少し考えてほしかった・・・




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柔らかな答えは憤りを静める。しかし、激しいことばは怒りを引き起こす。

柔らかな答えは憤りを静める。しかし、激しいことばは怒りを引き起こす。
(箴言15章1節)
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『ライ麦畑でつかまえて』(読書メモ)

サリンジャー(野崎孝訳)『ライ麦畑でつかまえて』白水ブックス

大学時代に読んだ本だが、もう一度読みたくなったので、正月に読んだ。
(村上春樹訳ではなく、あえて野崎孝訳にした)

サリンジャーの語りかけるような文体に感銘を受けた大学時代と違い、やや「しつこい」と感じてしまったのは歳をとったせいかもしれない。

本作はペンシー高校を退学になったホールデン・コールフィールド(退学はこれで3回目)が、寮を出て家に帰るまでの数日間を描いたもの。自分の周りの生徒、教師、大人を「インチキ野郎」「低能野郎」とののしる一方で、すぐ憂鬱になってしまうホールデン。

そんなホールデンにも信頼できる人間がいる。まだ10歳くらいの妹フィービーである。

「兄さんは、将来なにになりたいの?」と問うフィービーに対し、「ライ麦畑のつかまえ役」と答えるホールデン(あまり書くとネタバレになるのでやめておく)。

心理学者のエリクソンによれば、青年期の発達課題は「「自分は何なのか?」「何のために生きているのか?」というアイデンティティの混乱を乗り越えることだが、ホールデンはまさにこの危機の真っただ中にいる。

しかし、本書のラストを読むと、ホールデンがこの危機を乗り越えつつあることがわかる。

中だるみ感があったものの、ラストに向けての展開は「さすが」だった。








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『しゃぼん玉』(映画メモ)

『しゃぼん玉』(2017年、東伸児監督)

ひったくりで生活していたイズミ(林遣都)は、強盗傷害事件を起こした後、宮崎県の奥地にたどり着き、ひょんなことから老婆スマ(市原悦子)を助け、彼女の家にやっかいになる。

スマの孫だと勘違いされたイズミは、シゲ爺(綿引勝彦)の強引な誘いもあって、山仕事や祭りを手伝うことに。初めはイヤイヤだったイズミだが、徐々に仕事に打ち込むうちに、自分の犯した罪に向き合う、という物語。

ベタなストーリーなのだが、市原悦子や綿引勝彦の演技がすばらしく、引き込まれた。親からないがしろにされながら育ったイズミが、「坊はいいこじゃ」と認められることで、自分を取り戻す過程が心に響く。すばらしい宮崎の自然も印象的。

ラストを工夫をしてほしかった、といいたいところだが、エンディングにホッとした





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どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように

どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように
(ルツ記2章12節)

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シャドーラーニング

カリフォルニア大学のBeane氏によれば、医療機関、警察、金融アナリストの世界に「インテリジェント・マシン(知能機械)」が導入されていることで、OJTによる人材育成が阻害されているという。

インテリジェント・マシンとは、手術ロボット、犯罪予測システム、企業評価システム等を指す。

こうした機械やシステムが導入されると、業務が自動化されてしまい、研修医、若手警察官、ジュニアアナリスト達は、熟達に必要な「見て、やって、教えて覚える」というオン・ザ・ジョブ・ラーニングができなくなってしまうのだ。

そんな中、障害を乗り越え、自ら成長を求める若手がいる。彼らが実践しているのが「シャドーラーニング」だ。

シャドーラーニングの実践者は、ルールをかいくぐって「現場で悪戦苦闘する機会を求め」「上級者にコーチを依頼し」「上級者のノウハウから学ぶ工夫をしていた」という。

シャドーラニングの実践は、AI棟を利用したシステムの活用と、伝統的な人材育成を両立することの重要性を示唆しているといえる。

出所:ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー2020年2月号, p. 116-127.




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