Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

複雑さがもたらす意識

2015-09-25 20:39:18 | 複雑性と意識の法則

「意識する」とか「意識がある」という言葉は、いつも何となく使われていますが、そこで関係しているのは行動の主体となる自分自身あるいは他人自身というものを考えているようです。私たちはまわりの状況のなかで自身の存在において意識を感じます。猫や犬などの動物たちも、眠たそうなときにかまうと嫌がるので、おそらく意識があると思います。この意識とは何でしょうか、何が意識をもたらしているのでしょうか。生きているものが自律して行動すること自体が意識なのでしょうか。生命あるものは外界との間に明確な境界があって、その中に閉じて自分自身としてのまとまりを持っています。生命体は、自身をコントロールして生命維持のための行動をします。生命あるものは、それ自身が主役となって敵から逃れたり助け合ったりして、有利な道を選択しながら行動します。それは意識ではないのでしょうか。

生命体は自己を維持するために、その個体独自の内面からの欲求に従った行動をします。1個の生命全体を維持するために栄養を摂取し必要なものを吸収したり不要なものを排泄したりします。もし個体の各部分がそれぞれの欲求で勝手に動けば、生命としてのまとまりが成り立ちません。1つの生命は全体が中心化されてまとまっていないと生命そのものが維持できません。つまり生命には中心化してまとめているものがあって、そこに行動を起こす主体があります。自己の存在を確固として強烈に集中させていなければ、何らかの強い刺激でバラバラになってしまうと、単なるたんぱく質の塊となってしまいます。その中心化している力の方向に意識が生じるのではないでしょうか。そして自律して生きているという意識が、人間の思考という現象によって4次元の方向に広がり、精神となっているのでしょうか。これは科学的にどう説明できるのでしょうか。

 

複雑さがもたらす意識

「精神の原子性」から意識について抜粋

 ピエール・テイヤール・ド・シャルダン

 

I. はじめに

 人が物事を深く考えるとき、この宇宙のあり方を理解しようとするときに、その対象を精神か物質かに分けている障壁があって、これがすべての問題の深い根源にあるのではないかと思われます。物理学、哲学、道徳、社会学そして宗教において、私たちは個々の問題について絶えず議論しても、なぜ物質と精神の壁を超えて先に進むことができないのでしょうか。

その理由を考えて見ると、この宇宙に発生した人間の「思考」という現象について、その本質を正確に定義できていないということであり、私たちはまだ「物質」の迷路のなかで、自分自身の方向を見出すことができていない、ということではないでしょうか。この知的な要求に対して、徐々に明らかにできる道があることを、私はここで示したいと思います。

まずこの道の始めに、人間が多様で複雑という「奇妙」で明確な事実を取り上げます。それは特定の一人だけではなく、無数の人々にあてはまることです。夜空に瞬く星と同じように、私たちの周りの宇宙の粒子が、数多く織り成して人間までに統合されています。人間が分子からなっている構造は、私たちが生きている基本的な条件であり、これは何も驚くことではないし、あえて私たちは気にかけず、あまりにも「自然に」思っています。けれども、まさにこの条件こそ、発見を絶望としたことに対し糸口をもたらします。この私たちの目の前に、輝く真実があるのに、私たちはそれを見ていません。ここで、科学的あるいは哲学的にも、何らの前提を仮定することなく、なぜ人間そのものが多様なのかを理解できるように試みましょう。そしてその途中で、宇宙に織りなすものを分析し、その糸の符号が正か負か識別しながら道を進めましょう。

あらゆる現実は自然に統合されていて、私たちの知覚は必然的に特別な関連に結び付けられています。私たちが知っているように、見るということは、単に目を開く以上のことをしています。加えて私たちが観察を進めていくと、見ることに付随する何か特定のものに強制されるように思われます。現実の例から人間の多様性を私たちにわかりやすく示す意味で、まずは準備としての考え方(あるいは直感)を2つ取り上げます。この2つは「大きさの次元から見た宇宙の領域」と「生きるものの領域にある複雑さ」についての考察です。まず、この宇宙を大きさの次元から見てみましょう。

 

II. 1つめの準備:大きさの次元から見た宇宙の領域

 私たち人間が活動している領域の範囲外で、経験上から対象となる大きさは2つあります。無限に大きくなる方向のものと、無限に小さくなる方向のものです。それは巨大な宇宙の星の世界か、あるいは微小な原子の世界ということになります。物理学の世界でミクロの世界やマクロの宇宙のことを聞いた当初は、多少の当惑とともに、人間が制限された枠内に閉じ込められているとうっすらわかっても、日常の日々ではそれに気づかず生活しています。けれども、それが「奇妙」であることは、私たちにそれほど理解されていないし、私たちが漂うこの2つの深淵の奇妙さもめったに言われることがありません。2つの深淵を語ったパスカルは、多くの宇宙の集合体の1つとして、私たちの宇宙を含む別の宇宙を想像しましたが、ここで彼と同じように想像を駆使して考えてみましょう。私たちが観察可能にしたまま空間的に大きくあるいは小さくなるという矛盾の線上で考えるみることにします。2つの極端な領域のどちらかの位置になったと心に描き、私たちは形を変えた宇宙というものを認識してみる必要があります。

小さくなる方に動いてみると(私たちは意識を失わずにそんなに小さくなるのは不可能ですが)、奇妙な力のすべて(毛細管引力、浸透圧、ブラウン運動、磁界特性など)がすぐに私たちを襲ってきて、猛烈なダンスの中で動きもとれずに引っ張られて分裂しそうになってしまうでしょう。そしてもっと小さい方に行くと、もう日常の経験では表せない世界になってしまうでしょう。この無限に小さい世界に入ると、そこでは想像できない、ものすごい速度に会うことになります。私たちが最初に失うのは、物質の化学的な性質でしょう。というのは、私たちは、その下を旅行しているからです。熱、光、抵抗は消え去り、すべて意味がなくなってしまい、私たちのスケールでは宇宙の安定した基盤と思われたものが、最も流動的で柔軟なものになっているでしょう。

大きい方へ(無限に私たちの大きさを増加させることを想像して)動いてみると、別の急激な変化が起こって、私たちの見方を強制してくるでしょう。本質的に巨大さの物理学は微小な世界に比べて、把握や想像がたいへん難しくなります。私たちが物質を扱う場合、巨大な量やほとんど無限にゆっくりした速度になると、感覚とか想像にまだ何か印象を残せるものでしょうか。同時に、この非常なる宇宙では、3角形の角度の和が2直角に等しいという中間ゾーンでのユークリッド幾何学のような保証はもはやない、ということを私たちは知っています。私たちが困惑しながらも発見した、もっとも重要なことは、この巨大さのなかでは、私たちの実際の生活では単純で基本的なこと、二つの事象での同時性(あるいは同期性)というものが実際の意味を失って使えなくなっていることです。私たち中間ゾーンのスケールでは相対論的効果は知覚できませんが、スケールが大きくなると、その変換が単純に(融解点での変化のように)相対論的変化によって効果を及ぼし優勢になってきます。あるいは、私たち自身の宇宙と同心円的に、物理値が反転して交わる微妙な空間表面が実際に存在するかもしれません。いずれにしても宇宙の巨大さにあっては、私たちのいる領域と異なった状況であるのは確かなことです。

 

III. 2つめの準備:生きるものの領域にある複雑さ

 ここで、巨大や微小での論点を離れて、明らかに異なった別の世界の場面へと移ってみましょう。原子や宇宙から離れて、私たち自身の中間ゾーンの近辺にある、生命物質を見てみましょう。

科学による精密な測定装置の力を借りて、生理学者は私たち自身の肉体にその研究調査を掘り進めています。化学的な分析や統合が信じられない微妙さになり、あらゆる種類の試薬が使われて、小さく細かい研究になっています。顕微鏡で直接観察できる倍率は10万倍以上にまで向上していますが、ここではその興奮するような成果を挙げるつもりはありません。重要なことは、生物物理学や生物化学の実験データが巨大な量にまで積み重なり、一般的事実と言えるものが1つ現れてきたことです。それは、我々の知性にとって、どんな特別な事実よりも重要なことです。ここで私が意味するのは、有機体としての生物が信じられないほど「複雑」であるということです。

最初に、粒子が連携している「数の多さ」という複雑さがあります。1つのたんぱく質の分子には6,000から20,000に相当する水素原子が含まれます。この数は血液中のヘモグロビンになると68,000にまで増え、肝臓の赤い色素には4百万ものヘモグロビンがあります。1つのウィルスには17,000,000から25,000,000の分子があるとさえ言われます。1つの生きた細胞でたんぱく質の分子を数えた研究調査はないと思いますが、一人の人間の体のなかには何千億兆もの分子があるのか、まったく実際に調べることはできないくらいの「数の多さ」になると思います。

2番目に、集まって組み合わさったメカニズムの「多様性」という複雑さがあります。生物あるいは非生物の粒子のなかに集中している多数の化学的要素は、同質的なものが集合しているのではありません。実際には、単純な物体の全体が徐々に包含されつつ、組織的な物体を作り上げています。そしてこの組み合わせが生じる状況では、その役割の差別化と階層的な序列が内部的結びつきとなっており、これはすでに私たちの分析や理解の方法を越えています。一番低いレベルでは、これらの組み合わせは分子ですが、それが「高分子」となって、粒状、細胞、組織など、あらゆるオーダーの組み合わせに発展します。これらの配列は互いの上に築かれており、ほとんど思いもつかないような幾何学的成長の中に組みこまれ、ここに私たちには生命の不思議を見て心を惑わされています。

最後には(結論として)、生命物質の「一般的メカニズム」での複雑さがあります、そこではこれらの無数の部分の機能が互いに適切に組み合わされていることが確認できます。

そして指摘しておきたいのは、このすべてが驚くほど細密なスケールで起こり作用していることです。ウィルスの(写真でよく見るような)繊維の長さは1ミリメートルの1000分の30以上はありません。最も小さいバクテリアも同様な大きさです。人間のわずか数十センチの脳の中には百何十億もの細胞があります…。

ここで私たち自身の身体を細かく調査していけば、新しく見出された{理解を拒む}断絶に再度驚くことになるでしょう。それは微小の方向への断絶ではなく、もう一方の巨大への断絶でもありません。3番目の方向にあるもの、それは統合へ向かう生命組織を見るとき、{あまりにも複雑であるという}断絶です。生命物質のもつ計り知れない奥深さ、それはほんの小さなものでも、それ自身のまさにその中心で、それ自身を築くために際限なく遂行されつつあるものです。もし私たちに出現した「思考」という現象の「立ち上がる竜巻」を見ることができるならば、そしてもしこの3番目の断絶をもっと深く内省するならば、宇宙の分類のなかで平衡を保っている状況に、創造神の意図が分かり始めるのではないでしょうか。

 

IV. 複雑さと意識

 それでは、準備の考察で紹介した2つの観察事実を一緒に組み合わせてみましょう。まず1つは、私たちが気づいたように、大きいとか小さいという、空間的な方向が極端になるとき、物の材質の観察される状況が変わってしまい、その特性に変化が現れるということです。そして先ほど指摘したように、物質が巨大と微小とで観察される相違だけでなく、もう1つの軸方向があります。それは、内部構造において超単純から超複雑になっていることです。ここで私たちは、複雑度が高くなっている形態は生物という物質の領域に現れることを観察しました。

この観点を逆に考えて見ると状況がはっきりするかもしれません。今まで私たちが科学と呼ぶ立場から、生命現象をまとめられない、あるいは科学用語では生命を適切に表現できない、と思っていました。物理学の構成において、意識や思考を含めることはいつも不可能と言われます。これは誰が悪いのかと問えば、物理学者は自然現象の隠れた失敗を非難するかもしれません。しかし真実はむしろ、物理学者が勝手に自然を制限して、空間軸の方向だけに沿って組み立てることに固執しており、これでは生命が現れない軸だけを見ているというのが確かではないでしょうか。

非常に大きなものと非常に小さなものを見渡した際に、複雑度の軸の方向に明確なメッセージがあるという、この突破口(希望の光がある軸)を私たちがいったん了解すると、新しい宇宙環境がこの複雑性の次元の追加によって作られることになります。この設定では、物質の活性化はまったく不明瞭とかパズルではありません。反対に、高速度における質量の変化や、相対性の効果が非常に離れた距離で現れると同じように自然に思えてきます。ここで言いたいことは、この新しい次元の見方が新しい宇宙の特性をもたらすということです。一度、この宇宙で複雑度の高い特別な領域、もしくは特別に高度な複雑度の超統合のような構成が宇宙で認められれば、生命はもはや科学の絵空言のような展開にはなりません。単に、いままで私たちの見解にその領域がなかったために空いていた間隙を埋めるだけです。

生命とは、多数の集まりが組織化されて生じた特別な特性です。物質に特別な「複雑さの現れ」が、1つのまとまりの中に内部構造として極端な程度にまで高くなっており、これはすなわち、期待された現象という位置にスムーズに分類されるということです。巨大と微小とに続いて、この高度な複雑さということ(生命は実際に存在するので)、それ自身が、本質的で適切な特徴という以外の何ものではありません。では、それが何か見てみましょう。

 

V. 複雑さがもたらす意識

 複雑であること、中心があること、そして意識

 この再調整された同じ考え方に立って、宇宙をフォーカスし続けましょう。それは今までにはなかった、より進んだ発見になるかもしれません。本来の意味で「複雑」と言うと、私たちが生命体に関して知っていることは、必然的に多数の「統合された」要素を意味することになります。このファンタスティックな構造は、小さく活発な粒子が組み合わさって全体を構成することを表しています。言い換えると、ある程度に放射的に組織化がなされていなければ、塵のなかに消えてしまうようなものです。その本質からして、もし組織体が、構造的に中心のあるシステムを形成していなかったならば、それ自身がより複雑になる方向には存続しないし機能もしないと思われます。

そして、ここで「意識」と言うことは、必然的にそれ自身の包み込みのなかで、まとまって集中したものを表現することになります。見ること、感じること、考えることは、私たちのまわりに広がる物質や環境に対して、集中したまとまりの中心として行動することです。それが内部的には中心化されているということです。

そこで「意識」と「複雑さ」は1つの同じ事実である「中心」を見るときの2つの側面ということになります。それは私たちの見る観点が、外側から(複雑さ)なのか、内側から(意識)なのか、どちらから見て考えるのかによることになります。

つまり、これはただ1つのことを意味しています。それは複雑度という新しい変数を使って、私たちが基本的で一般的な言葉で、特別な変化の表現が可能になることです。それはこの宇宙が極端に高い複雑さの方向に、より高く上昇していくという変化があることを表しています。

私たちが「中心」という言葉をよく考えないで普通に使うときは、多分単に哲学的あるいは数学的な抽象概念の「中心」として扱うように考えます。この言葉の物理的な現実という意味では、すべての関連で1つの「決定的な」価値(いわゆる中心点としての価値)をその現実の点に当てはめるとか、あるいは、より単純な要素ほど完全な中心であるとか、1つの単純な要素が中心にあるとか考えてしまうかもしれません。しかし、こうした観点ではなく、ここで中心とは、物理学的に言えば、「中心に向かう力」によって置き換えられます。ここで対象とする「中心性」とは、抽象的な中心という質の話であるとか、中間部分を考えずに中心が「ある、ない」とか、中心の強さの程度を考えることではありません。そうではなく、ここで考慮している各々の宇宙的粒子にある、「要素の数とその要素の相互関係の数に比例した、本質的に変数としての大きさの程度」を表しています。

「中心がより純粋で深ければ、密度が濃くなり形成される有効範囲は広くなります。」1つの中心は単に存在しているのではなく、それ自身を築いているのです。これは事実が表していることです。いままで生命が無限にも分散した道を歩んできた結果として、その物質が中心を築いてきているのです。あたかも宇宙の材質は、より完全な中心へと継続的に上昇して蒸留されるかのように、私たち自身も含めてすべてが、複雑度の軸の方向に沿って起こってきています。物理学の見方からすると、この中心化とは、とてつもない数量の粒子が、多様化した多くの機能をうまく組織化して、ある種の核に集結したものに相当します。心理学の見方からは、この中心化は、それ自身の自律性あるいは意識ということで表現されます。

 

私たちが先に見たように、微小の方向に移動したときは分散した激しい動きに出会い、巨大の方向では集まって星になる動きに出会いました。複雑度の方向に向かうときは、中心化する動きと意識の上昇に出会います。言い換えれば、生命が新しい形態を作り出す動きとしての「活性化」に出会うことになります。

私たちの最初の基本的関係は、もし空間が時間と融合しないとして、科学的に実際的な設定に変換するならば、「複雑、中心、意識」の関係、つまり極度に複雑であって中心があることが、意識の形態をとることになります。 そして、ここに希望の光があると私は信じています。

この文章は、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの<L'Atomisme de l'Esprit(The Atomism of Spirit)1941年>の内容から「意識」に関してまとめたものです。

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