mimi-fuku通信

このブログを通して読み手の皆様のmimiにfukuが届けられることを願っています。

夢の音楽堂/ベルリン・フィルのすべて ~mimifuku的評説。

2008-03-22 00:40:49 | クラシック・吹奏楽

 ふ~、楽しかった。
 4日間位に分けて見ようかと思っていたんだけれど、2日で見てしまった。

 何から書こうか?
 やっぱ、土屋邦雄さんでしょ。
 風貌からして、頑固な職人さんタイプ(ドイツのマイスター)。
 まったくテレビを意識していない語り口や姿勢は、ドイツ仕込なのかな?
 もしかして、FM放送向き?
 でも、もっと一杯話が聞きたかったな~。

 当初、タイム・テーブルで放送時間と演奏時間のバランスを見て、バラエティ色が強いトークが続いたら嫌だなって思っていたのだけれど取り越し苦労でした。

 とにかく、経験に勝るトークは、ないですね。

 フルトヴェングラーの映像が映った際に、土屋さんが入団した当事のメンバーが多く在籍していたらしく、子供のように画面を見ながら大騒ぎだったらしい。
 ~と高橋アナウンサー談。

 で、「カラヤンも苦労されたんだよね。」と回想したあと、当事の楽団員(古参のメンバー)たちが、カラヤンとの演奏が終わるとフルトヴェングラーと比較して、土屋さんにベートーヴェンのテンポの揺らしは、ああだ、こうだ、と批評を求めてきて困ったなんて話は、・・・そういえば、そんな著書もありましたよね。

 演奏を言えば、フルトヴェングラーの「ティル」は、50年代の録音では無理がありますよね。
 R・シュトラウスの音楽は、物凄く複雑なオーケストレーションがあり、解像度の求められない録音では、メロディ・ラインを聴くことで精一杯。
 でも、土屋さん。
 「この指揮は見やすいね~。これだったら、迷わず演奏できる。」
 はぁ?
 土屋さんと吉松さんとの会話では、フルトヴェングラーの指揮は、感覚的でオーケストラが判断を誤ることも良くあり、その迷いが緊張感に繋がり、名演が生まれたとか。
 それと、フルトヴェングラーの話で、感心したのは、ベルリン・フィルの「ドキュメンタリー番組~ベルリン・フィルの栄光の歴史」の中で、ナチスとの関係に於いて、ある程度、服従することでオーケストラを存続させ、そのためにオーケストラ・メンバーの中で、徴兵されたり、戦場に駆り出された者はいなかったとのことで、オーケストラ・メンバーにとっては、フルトヴェングラーは<命の恩人>だったのだろう。
 そのことで、恩義に感じている古参のメンバーは、カラヤンの能力を素直に認めたがらなかったのかな?と、そんなことを感じた。

 ・・・時間との戦いやね。書きたいことが次から次へと湧き上がる。

 
 次にカラヤンの映像を見て、土屋さん曰く、
 「アレは良くないね。今度カラヤンの墓に行ったときに言っときますよ。」
 あれってのは、映像表現。

 確かにカラヤンの作る映像は、一本調子で、均一的。
 映像を見ればすぐに判るんだけれど、カラヤンの性格は整理整頓されていないと嫌なタイプ。
 潔癖症やね。

 でも、カラヤンの映像を見ていて感じるのはドイツ・デザイン。
 (ただし、カラヤンはオーストリア人。)
 バウハウスのイメージが強いドイツ・デザインは、<機能的で無駄を省いたスタイルや意匠が特徴>と言われているけれど、ドイツのデザインは、ポルシェやベンツを見ても感じるんだけれど、構造上、意味のない華燭を排除するスタイル。
 と言って、無骨にならないような最低限の美しさを求めているのが特徴。
 言い換えれば、大切なものの順位が、自動車の場合、時間と速度の関係の重視と、その速度が持つ危険に対する安全性。
 その事を第一に考えて、デザインを作る。

 イタリア車のようにデザインのために、何かを犠牲にすることはありえない。
 つまり、デザインの持つ意味づけの優先順位がヨーロッパの中でも民族によって異なる。
 そのため、美術表現をみてもフランスやイタリアと比較して、ドイツ絵画はどこか硬さがあり、美術表現に説明的性質が見られる。

 昨日の夜、ナチスに弾圧されたパウル・クレー:<スイスのベルンに生まれ、ミュンヘンの美術学校で学ぶ。デュッセルドルフ美術学校で絵画を教えていたが、ナチスからの強い圧力を感じ帰国。クレーの作品100点余りがナチスに没収され、1937年の「堕落美術展」(絵画技術を要しない感覚的な抽象美術を否定する目的で開催された=国民の意思の高揚と怠惰的な表現の排除=芸術統制)に展示された。>のハイビジョン・スペシャルが再々放送されていたが、ドイツの合理主義や現存主義の思想は、ナチスだけではなく、ゲルマン民族に脈々と流れるものなのだろうか?
 また、ドイツ人の宗教思想に新教徒が多いことも、現実主義への傾倒に関係があるのだろうか?

 カラヤンの考える映像表現に於ける美意識は、まるで建築の設計図面のように説明的で、映像がもたらす抽象的表現は自らの目指す音楽表現と相容れることがなく、カラヤンにとって許されないことだったのだろうし、そうしたカラヤンの美意識は、裕福な貴族階級の家柄で生まれ育った、子供の頃からの生活に中で染み付いたものなのかも知れない。

 ・・・と書くのは、4月5日の「まるごとカラヤン」に向けてのmimifukuの布石。

 話が、変な方向に行ったみたいですね。
 このペースで書くと明日の朝までかかってしまう。
 そのくらい、多くのことを感じる番組でした。
 キリがないのでやめますね。


 音楽の事をちょっとだけ。(真面目に)

 小澤さんの「悲愴交響曲」は、先日の「幻想交響曲」と並ぶ、小澤さん屈指の名演奏でした。
 カラヤン生誕100年の記念コンサートでの演奏ですが、カラヤンさんの供養に最適の演奏でした。
 最近の小澤さんは「幻想」の時も感じたのだけれど、弦楽器の揺さぶりを効果的に用いて音楽表現の深みが増している感じです。
 3楽章の機能性も優れていますが、解像度の高い4楽章の表現は絶品。
 土屋さんも安永さんも言っていましたがタクト・コントロール(棒さばき)は、現在活躍する指揮者の中で世界最高かも。

 
 アバドさんの「レクイエム」も断片だけの放送でしたが、全曲聴きたくなりました。
 2001年の復帰コンサート(アバドさんは、200年に胃癌手術を受けている。)で「レクイエム(死者の為のミサ曲)」の選曲は、どうなの?って思うけれど近年の指導的な活躍は、死を意識した者の、生への感謝なのでしょうか。
 悲痛でもなく、耽美でもない、新境地の純音楽としてのマーラー表現は感嘆。
 (3月のウィーク・エンド・クラシックは、アバドの特集でした。)


 ヴァントさんの音楽表現は、予想通りに私の耳には届きませんでした。
 いくつかのヴァントさんのブルックナーをCDで聴いてはいますが、特筆すべき演奏ではないように思います。
 決して高いオーケストラ・コントロール能力があるようには見受けられませんし、表現も平坦に聴こえてしまいます。
 私の好みは、シューリヒト(61年録音)の快速な中にもストーリー性を持たせた演奏や、ジュリーニ(88年録音)のゆったりとしたテンポの中で壮大にオーケストラを響かせた演奏なのですが、・・・う~ん。
 私の耳では、プロの批評家の皆さんの評価が過大すぎるような・・・。
  あるいは、私は未熟者?


 ザンデルリンクさんのショスタコーヴィチの8番は、コミュニケーション不足というか・・・?
 ベルリン・フィルの持つ高性能な機能性を封印したような演奏は衝撃でした。
 「これがショスタコービィチの音楽だ。」と言われてしまえばそれまでですが、ショスタコービィチの音楽が持つ、独特の木管楽器の表現に表情がなく(慣れない曲の上に早いパッセージを要求される曲のために、楽団員が楽譜を食い入る様に見る姿が印象的)、時に悲鳴のように表現される強い弦楽合奏も曖昧に聴こえてしまいました。
 しかし、これはあくまでも、私が持つショスタコーヴィチのイメージです。
 映像を見ずに、連続して他の指揮者と比較することなく、音楽だけを純粋に聴けば、悲痛なショスタコービィチ表現の極みとして聴けたかも知れません。

 
 もう、0時40分。寝なきゃ。

 もっと書きたいですが、キリがないですね。

 最後に土屋さん、吉松さん、ありがとうございました。
 好田タクトさん、楽しかったですよ。
 高橋美鈴さん、ご苦労様でした。
 


<補足3月22日 朝>


 チャイコフスキーの悲愴交響曲(1893年)をカラヤンは、1939年から1984年までの45年間に7回の録音を残しており、カラヤンのライフワークのひとつでした。
 その曲をカラヤンさんの弟子であった小澤征爾さんが記念演奏会で演奏したことに、ベルリン市民は大いな感慨を持って接したことだと感じます。


 ブルックナーの交響曲第9番(1989-1894年頃~未完成)は、ブルックナー最後の交響曲。
 吉松さんが曲の解説をされていましたが、ブルックナーは教会でのオルガン奏者であり、作曲をオルガンで行っていました。
 そのためブルックナーの音楽を演奏する場合に、ピアノのアタックから消えていく音と異なる、オルガンの平坦な残響を考慮して演奏する事が望ましい。
 ・・・どこかで聞いたような一説ですが。
 この解釈に基づくと、ヴァントさんの演奏スタイルは生きてくるんですよね。
 クラシック特有の注釈を必要とする鑑賞法。
 私にとって、ヴァントさんの演奏スタイルは、そんな感想です。
 決して悪い演奏ではないと思いますが、まだまだ鑑賞者として未熟者ですので、私には、この日の演奏を諸手を挙げて賞賛すべき理解力を有してはいないようです。


 ショスタコーヴィチの交響曲第8番(1943年)は、第二次世界大戦の真っ只中に作曲された「戦争交響曲」。
 この曲の解釈も、発表当時の演奏会後のショスタコービィチの発言は、「楽観主義的で肯定的な作品=社会主義リアリズムの要請」であると、ソビエト政府(当局)に弁明していたものの、後の<証言>において「悲劇に捧げる墓碑」であることを表明。
 聴いていて、どうにも辛くなる重い内容の曲として解釈すると、ザンデルリンクさんの表現法は正しいと言えます。
 この曲も吉松さんが解説されていましたが、「貧困と抑圧にあえぐソビエトの演奏家達が、寒さに震えながら悴む指でゴリゴリと演奏する姿を思い浮かべるとこの演奏の美しい響きに抵抗を覚える。」
 う~ん。
 考えすぎのような気もしますが作曲家の方の視点には興味を持ちます。
 私は、ハイティンクのCDとバルシャイのCDを持っていますが、ハイティンクの演奏はスマートで木管表現などはおどけた感じの箇所もあり、バルシャイのCD(廉価版全集)は、3楽章の終結部で銅鑼を強調する事で、曲の持つ戦争の意味付けにドラマ性を与えています。
 私的な感想ですが、この曲の2~3楽章は好きで、時々取り出して聴く事がありますが、バルシャイの演奏を初めて聴いた時に、3楽章のヴィオラだけで奏でるメロディは不安の動機で、もう1つの単純化され次々と楽器を替え登場するタ~タン、タラータン、と鳴り響く音節は悲鳴や心の叫びのように感じました。
 また、ダン、ダダン、と金管の強奏や、打楽器の強打は、爆音。
 そして、追い立てられるように不安は高まり、大音響の中で不安と悲鳴が交錯し、打楽器群の強打で、一瞬の静寂。
 そして、第4楽章では、祈りと葬送へと続きます。

 ただし、3楽章は行進曲風に仕立てられているので勇壮に演奏すれば勝利の行進にも聴こえますし、中間部のトランペットと小太鼓の軽快な音節は、騎兵隊の登場シーンに使用されるような、アメリカ音楽の影響を感じます。

 そうした、ショスタコーヴィチの持つ音楽の屈折した部分(本心の探求)が、有名な交響曲第5番の第4楽章の<勝利>か、<強制>かの議論につながるのでしょう。
 (バルシャイの演奏は、吉松さんのイメージに近いような気がします。)

 音楽に対する指揮者の解釈や表現も色々あって、また聴き手の音楽に対するイメージ(演奏者への信頼、作曲時の歴史背景、作曲者の生涯と表現音楽との同調性等)も様々で、何が正しく、何が間違いと断定することはできません。

 全く同じ、1つの演奏に100の聴き方がある。
 だからクラシック音楽を聴くことは、面白いんですよね。



つづく→
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/5f2772e3498bd5ef10d7c1faea8b9fd8

 
関連番組へのブログ内リンク。

「夢の音楽堂:ベルリン・フィルのすべて。」
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/c2d870b083488b30f7593657fe02881f

「まるごとカラヤン、~生誕100周年記念・その人と音楽大全集~」
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/b18e9316c7406b09006bff7a899181d7

小澤さんの幻想交響曲について
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/7035bf9deaf7b05481b27545ed669ed2

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする