暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

後、4年

2016-11-22 18:44:21 | Weblog
 2012年が、『地球全体として、ポジティブエネルギーが、ネガティブエネルギーを超える転換点で、それによって、2012年以降、ポジティブな事が加速的に起こっていきます』というのが、「本当かも」と(私が)思い始めたのは、2016年頃だったのだよね。
 だから、みんなが、『2016年から、加速的に、(科学)技術が進化していった』というのに、気がつくのは、2020年ぐらいになるような気がする。

 ホリエモンは、『働かなくて良くなる未来が来る』と現段階で言っているし。他のアメリカのIT企業のトップもそう言っている。でも、みんなは、普通の人達は、その意見を信じていないのが、分かった。
 『実際に、起こるまでは、信じられないよ』ということなのでしょう。

 ”みんなの納得”なんて、待っていたら、何も語れないのだろうけれども。
 でも、言いたい人、予想する人としては、そう思う訳である。
 「後、4年ほどで、働かなくても良い未来が、来ると、ほとんどの人が予想しだし、その4年後には、ほとんどの人が、働かなくても、生活していける世の中を当然と思うような世の中が来るであろう」と。

 『努力も、苦労もなしに、幸せになって良いのだよ』という。
 で、“みんな”は、『そんなの信じない』と言っても、その真実を、今の段階で、信じたとしても、良い訳である。すぐに、もうすぐそこにそういう世界になるのだから、と。

 先駆者がいることによって、来るべき未来に対して、みんなが、簡単に移行、適応出来るようになる。
 まるで、戦前の平和主義者が、戦後の日本人にとって、役に立ったように。

追記 でたらめ?な気がしてきた。でも、でたらめだとしても、インターネットに公開する意味はあるような気がする。「駄目人間にも、駄目人間なりの価値がある」と思う。『私は、こんなに、駄目人間なのだ』と言うことを、インターネットで、表明すると、『私は、それよりも、立派な人間なのである』と思えて、ほっとする人達が、大勢いる。『駄目人間』だとしても、『私は、駄目人間なのである』とインターネットで、表明する事には、大きな意味があるような気がする。
 
 『基礎研究にもっと、お金を出して欲しい』という主張をする人達がいる。でも、『私の研究には、こんなに大きな社会的利益があるのである』と説明する義務があるような気がする。
 『自分の希望を実現する事には、こんなに大きな社会的利益があるのである』と言うことを、もっともらしく説明する能力が必要な気がする。
 
 『こんなに長時間働いているのに、豊かさを手に入れる事が出来ないでいる』という文句を言う人達が、大勢いるのだけれども。
 自分の希望を実現する事が、『これだけの社会的利益になるのである』と言うことを、もっともらしく説明する能力が、大企業のトップになるのには、必要な気がする。
 ただ、言われた事だけを、やるだけでは、豊かさは、手に入らない、ということで。『長時間働いた』というだけでは、豊かさは、入ってこない、ということで。

 神を、『全てのものを含む集合』と定義したとして。そしたら、「悪魔も含まないと、神にはならない」と思う。
 それなのに、「なぜ、悪魔を否定する人達が、大勢いるのだろうか」と思う。
 「悪魔も含まないと神には、ならないのに」と。

地球の事を、『地獄星』という人達がいるみたいなのだけれども。私なら、「ネガティブ(否定的)な事が経験出来る場所」という。
 
 結論的に言えば。『結果の保証は出来ない。ただ、色々やって見れば、そのうち、上手くいく方法は見つかるかも知れない』という話である。

 世界全体として、幸福を実現したければ、手数を多くすることである。色んな人のアイデアを持ち寄れば、地球全体として、幸福が早く実現するであろう、ということである。
 科学とは、『今までのアイデアを元に、もっと上に上ること』だと思う。
 学校の勉強、教科書は役に立つ。『今現在として、これだけの事が分かっている』と言うことだから。で、人類としては、その情報を元に、もっと上で上がっていかないといけない、ということで。

 イスラム国のテロリストとやらの人達が、傷ついていないかと言えば、そうではないと思う。
 トルコの事をテーマにした漫画を読んだが。『男は、強くて、優しくて。そんなのやってられるか』と書かれていた。
 
 『児童虐待から救う為に』とか言って、親に対して、『警察の命令である』とかいう高圧的な態度で、親から、子供を引き離そうというやり方をしているみたいだけれども。もっと、下手に出た、言い方をした方が良いのではないかと思った。
 大体において、自分の過ちを認められるぐらいの人間であれば、子供、未熟児を殴ったりはしない。自分の過ちを認められない人間だから、子供、未熟児を殴ったりするのである。
 自分の弱さ、過ちを認められる事が、強さなのである。『私は正しいのである』と言って、人を殴る人間は、本当に強い人間などではない、ということで。
 イスラム国のテロリスト達は、自分達の弱さの証明である、ということで。

 実際問題として、強姦した人に甘い日本の方が、強姦した人に厳しいアメリカや、韓国よりも、強姦する人は少ない。
 性情報の氾濫している日本の方が、性情報を悪だと言っている、アメリカより、性犯罪は、少ない、ということで。

 過ちを過ちとして、認める事。それが、本当の意味の強さであり、世界において、平和をもたらす行いである、ということで。

 自分の過ちを認める事によって、本当の意味での、強さ、正しさが生まれる。自分の事を、『強い。強い』と言っている人間は、本当の意味で強くはない、ということで。
 『暴力によって、問題を解決しなければならない』と言う時、本当の意味の強さは、そこにはない、ということで。
 『自分の弱さ』を認める事にこそ、本当の意味での強さ、正しさが、世界に生まれてくる、ということで。

 有名芸能人でも、弟子とやらを一杯抱えて、『お金』があまり、ないという人達が、大勢いるみたいだけれども。
 ”自分”の事を、『肯定』してくれる、弟子とやらが、必要だから、『お金がない』という状態になるのではないかと思う。
 ”自分”に対する、“批判”を受け入れられるようになれば、”弟子”とやらも必要でなくなり、豊かさも自然に得られるのではないか。そんな気がするのだけれども。

 他者がどう感じようと、判断しようとおかまいなしに。自分にとっての、真実を生きれば良い。
 ただ、それだけの事なのに。それが、難しいのだよね。大抵の人にとって。
 大体の人達が、『自分の事を、正しいと肯定してもらいたがる』と。
 そんなもの必要ないと、“分かったら”もっと、多くの豊かさが、自分に来るかも知れないのに、と。

 うーん。

 で。(ここまで書いて)。

 『完璧な、完璧な、シンクロニティ』と言ったり、『完璧に育てた』とか言ったり人がいるのだけれども。
 
 「完璧じゃなくたって良いじゃない」と。「不完全さを愛するのが、本当の愛である」と。「完璧じゃないと、愛せないというのは、本当の愛などではない」と。
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