自己コントロールについて思ふ。

2019-08-04 17:58:49 | Weblog

どんなに体を鍛えて

(身体の)各部を自由に動かせるように訓練した人でも

自分の意思で呼吸を止めて死ぬことは出来ない(らしい)。

同じように、「止めよう」と思っても心臓の鼓動を止めることは出来ない。

そのあたりは「自動操縦」なのだ我々の体は。

自動操縦を切りかえて手動にするスイッチも無い。

そして、

「眠り」は、さあ、眠ろう・・・と思ってもすぐには眠れないのが普通だ(例外はいるが)。

逆に、極度の寝不足でもないのに不意にストン、と眠ってしまうようなことも(病気の人と赤ちゃん以外は)ない。


僕は今、自己コントロールについて考えている。


髪の毛だって、「伸びろ」と念じても(ほとんど)意味がない。

背だってそうだ。


「好み」みたいなものだって自己制御はできない。

好きなものには惹かれるし、嫌いなものは嫌いだ。

理由は、あるときもあるし、ないときもある。





・・・・・・・・・・それにしても眠れないときって、本当に眠れないよね。


そして、夢も、もちろん制御できない。


嫌な悪夢って、本当にひどい。現実よりつらい。


そしてそうだ、こないだも言ったけど、「記憶」も、自己制御できない。

どうしても忘れられないことが多い反面、

素敵で素晴らしかった体験の多くを僕は(我々は)忘れながら生きている。


何故嫌なことが忘れられないのか?

それは「失敗」を繰り返さないようにするために脳が、

教訓のために強く記憶しているからだ、と脳科学の本に書いてあったのだけれど、

まあそれは、そうなのかもしれない。


しかしなあ。


教訓のため、自己保存のため、とはいえ、嫌な記憶ばかりを抱えたままで生きていかなければならないのだとしたら、

人生は過酷だ。


よかったこと、素敵だったこと・・・も多少は覚えている、もちろん。

でも、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと、あったはすなのだ。

素敵だったことを覚えていないのはもしかしたら、

今後も「それ」を求めていくべき・・・と無意識に思っているからかもしれない。

素敵だったことの思い出で記憶メモリーが溢れかえったら、それで満足しかねないから。

うーん、どうだろう?


しかし逆に、「痛み」の記憶って、残らないようになっているのですよ。

肉体的な痛み。

その理由はたぶん、生きていく意欲を減退させないため、だと推測するんだけど。


脳って不思議。自己制御って不思議。


こないだのブログで

人間は「本能」が薄い、というようなことを書いた。


でもこういうことを考えていると、

強烈な「生存本能」というものの存在を感じずにはいられない。


自分の意思で息を止めることを阻むのも、きっと 根っこは「生存本能」なのだ。



そうかー。



それならば我々は、生きるために歌おうではないか。



ROCA’66、次回のライヴは2019年8月24日、土曜日。


バキバキにやる気のあるハコ、

大阪・天満のPARAーDICE。


そこで、関西ライヴハウスシーンの重要バンドである


らんちゅう  と  カミナリボルトと


我々ROCA’66の3マンライヴ。


華もあるし、轟音もあるし、熱情もありマッス。


こないだ作成したCDも、持って行きます(写真参照)。







しかしライヴって考えてみたら


「自己コントロール」の一種の極致、というか。



そーゆー場だよね。


どれだけ、「なりたい自分」に近づけるか。


勝ち負けは無いが、勝負だ。




来てくだサイ。


コメント
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