福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

遊行期に生きる(11) 自身の死についての考察(9)  そろそろ最後の仕事に着手する

2023年06月03日 06時38分37秒 | コラム、エッセイ
 退職13年目を迎えて、また、健康を害して改めて残りの時間に何をすればいいのかを考えてみた。

 私は振り返ってみれば世の荒波に揉まれた経験が殆どない、温室、ぬるま湯の中で過ごしてきた。恵まれていた。それなりに努力し、真摯に業務をこなし生きてきたが、所詮井の中の蛙。この自覚は私の劣等感の一つになっている。
 それを一番強く感じたのは田舎の中学の同級会であった。みんな別々の世界で、強くたくましく生きて来たという自信が各人の表情から読み取れた。一方、新潟大学医学部の同級会ではそんな感じは抱かなかった。

 もし私が若い頃に、「働くことに、仕事に意義を見出せない、いや、まったく魅力を感じない」、という現在の一部の若者達と同じ様な考えを持っていたら、どんな人生を描いたか、全く自信がない。生きるためには努力はしたであろうが、自分の軟弱な性格から見て果たして生きていれたのだろうか。

 こんな私が、死ぬ前の仕事として最後に何をすべきなのか??   残り時間が少なかろう、という具体的現実に突き当たった今、死ぬ直前のやるべきことについて考えてみる。

 その骨子は、独りで死んでゆくことに自分を馴染ませ、家族たちには私がこなしてきたことを委譲する、という仕事。後者は手をつけていなかった。

 私は、昨年10月、今年5月に一瞬ながらこれで終わりか、と思うような身体上の問題を経験した。子供のころから抱いていた諦観はあるが、この機会に死ぬ前の仕事として改めて考えてみた。
 
 私は、死後「完全に無となる」ことを望む。最小限の関係者の記憶に残るとすればそれだけでいい。骨も不要、墓石も不要、遺影も・・・何もかも不要。

 身体的にはごまかされた状態で死ぬことを望む。モルヒネで朦朧となったまま息を引きとることを容認する。これは私の医療観の基幹でもある。

 ただ、私は、心の問題として「これでいいのだ」とか「みんなありがとう」というようなことを呟いて死にたくはない。

 死に方は、各人各様。 真に心の底から感謝して死ぬこともあろう。そういう死の美しい話は多数知っている。しかし、私はそれに特別感動もしなければ、そういう人を特別尊う気もない。ただ、自分とは違った信条のもとに生きてきたのだなあ、と思うだけである。

 また、信仰をもつ人は、安心して死ぬのかもしれない。しかし、私はそうではない。

 自分にとって突然死の場合はそんなことは考えてもしょうがないが、緩徐に死ぬとすれば意外に大変なことだと思っている。

 私はこの世に対する執着を「生きているうちになるべく断ち切ってから死を迎えたい」というストーリーを描いて今準備しているところである。 
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