福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

こころと身体2022(40) いじめ(8) 回想、私の少年期の頃(2)

2022年04月25日 06時46分01秒 | コラム、エッセイ
 私の小学生時代は素直だった、と思う。基本的に親が決めてくれたことを良かれと思いありがたく受け入れてきた。小学校の頃の気持ちはそんなものである。

 私は中学は家族の勧めで郷里の中学校でなく盛岡市にある中高一貫校に進んだ。そこは10年以上前に兄が学び志望の大学に進学できた学校で我が家では評価が高かった。私は進学してまもなく英語教師に平手打ちを喰らうなどのショックもあり、この学校のどうしようもない旧態依然とした体質に嫌気を感じ、同じ考えの仲間と共に2年終了時に退学し、郷里の中学に移った。中学校時代(1958~61)

 この時、大人たちには中学生の自分の気持ちが伝わらない、特に教師達にはほとんど伝わらない、ということを実感した。大人たちは子供の気持ちを忘れている、理解しようともしない、と。

 このことは、自分が子どもを育てる年代になって改めてよくわかった。気がつくと自分自身もそうなってしまっていた。

 幼児はどんな環境にあってもひねくれたり、グレたりしない。 その一因として、幼児は言葉を持たないから客観視できないからではないだろうか。 しゃべりはするが、ボキャブラリーは貧しいし、筋道の通った理論はとても無理である。
  親に、わけもわからぬ原因で叱られても、幼児の頭には「・・・・。????」
と戸惑いと憤りの感情が、不定型のイメージで脳裏に宿るくらいであろう。そして、やがてそれは直ちに忘れ去られる。幼児期に虐待を受けても子供たちは両親を忌避することはないのは何故なのか、私は疑問に思っていたが、その原因の一つがわかった様な気がしている。

 中学生になると、自分達はもう幼稚な小学生ではない、との自覚を持つ。そのことが心理的発達を大いに刺激するのであるが、所詮、社会性のある判断などできない。だから、事あるごとに、教師や親に注意されるたびに、普段観察している結果から打ち立てた概念、すなわち「自分のことは棚にあげて・・・口うるさい!!!!!!    なによ、偉そうに。 大人なんて影では人の顔見てインチキばかりしてるじゃないかよ。それなら、グレてやる・・・」、「わからずや!  もう知らない!  どうせわかってくれないんだから・・・」と考える様になる。 

 上から目線の大人たちへの不満の蓄積がやがて親や教師たちと距離を置き、話のわかる同年代の仲間達と集う様になる。
 子供たちが非行に走ったり「いじめ」に向かうのはこの年頃からである。 

 人間の不幸は言葉を持って、イメージを固定化してしまうことに始まっているのかもしれない。
コメント (3)
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