福田の雑記帖

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企業の社会的責任とは(3)  謝罪会見

2017年06月24日 05時09分00秒 | 時事問題 社会問題
 企業の不祥事といえば例の記者会見による謝罪劇である。

 謝罪は直接被害を受けた当事者や関係者に面会して誠心誠意謝罪するのが正しいやり方であるはずだ。ところが最近は企業の業務が拡大し被害者が広域、広範囲に及ぶことが多い。重大な事象を除くと被害個々人に対しては文書でなされることが多い。

 謝罪は特にTV時代を迎えて大きく様変わりした。謝罪は記者会見という形で行われることが多くなった。
 謝罪の場には通常被害者は同席しない。謝罪そのものが形骸化してしまった。
 
 当事者による自体の説明が一旦終わると、関係者は一斉に立ち上がって出席者に向かって頭をさげるが、その瞬間にプレス関係者は一斉にシャッターを切る。まるでメディアはこの瞬間のために謝罪会見に集まって来ているようだ。
 翌日の新聞、その他のプレスは例外なく頭をさげる一瞬がでかでかと掲載される。これは、晒し首以外の何物でもない。
 当事者の誠心誠意の説明、こちらの方が価値があるはずなのに、その説明過程、内容が報じられることは少ない。

 TVによる謝罪劇はニュースで頻回に流されるが、私にとっては謝罪される立場になったことはない。単なる謝罪風景とみなしていればいいが、この謝罪風景を見ているとなんとも居心地の悪さを感じてしまう。

 謝罪会見の説明対象はメディアの背景にいる被害者たちのはずであるが、その姿勢は見えない。メディアに対しての謝罪にしか見えない。私はメディアの悪意、増長を感じ取り、「みせしめ・晒し者」の姿勢を感じてしまう。メディアによる公開処刑といいかえてもいい。メディアは一般大衆の嗜虐嗜好を味方につけて巨大な権力者と変容する。
 謝罪の意義がよく分からなくなっている。一体、謝られるべき方々は誰なのか?

 企業の経営者たちが直接責任を問われることは稀である。そのためか、謝罪する側にも真剣味を感じられない。謝罪記者会見マニュアルに沿った儀式にしか見え見えない。

 謝罪記者会見の報道の中で私の記憶から離れないのは、「私らが悪いのです、社員には責任がありません。どうか社員を応援してやってください・・・」と涙ながらに述べた1997年の山一証券社長の姿勢であった。私はお金を失った被害者の方々の立場には到底なり得ないが、この会見から受けた企業人の姿勢の一端は忘れることができない。
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