福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

国民性、国民感情(3) 日本人の心(2) 多神教が持つ寛容さ

2017年06月09日 15時30分47秒 | コラム、エッセイ
 日本人の心は、これを是とする立場から端的に言えば、「寛容の心」であり「和と助け合いの心」、「おかげさま」の心である。日本人の心は、島国であること、諸国からの侵略を受けてこなかったことも大きいが、古くからの自然宗教観を背景に形成されてきた、と思う。

 誰の目に見えるわけではないのに「お天道様が見ている」と世の規範に従う。人に対しつい親切にし、「おかげさま」と感謝してしまう。困った人がいるとごく自然につい助けたくなってしまう。そんな国民だ。

 一方、欧米諸国がリードしてきた資本主義、貨幣経済等により、速やかに効率よく物質文明を発展させることができた。しかし、英、仏、独などヨーロッパの大国で相次いでいる残虐なテロ事件の報道を見て、かの地では歴史的に蓄積された憎しみと恨みの連鎖が現在もなお噴出しているのではないかと思う。

 ヨーロッパの心は、「非寛容の憎しみの心」でないか、と思う。
 11世紀末から13世紀にかけて行われた十字軍は、イスラム教を信じるアラブ民の大量虐殺が目的であった。ユダヤ教の成立とほぼ同時期に出現した仏教、ヒンズー教、あるいは紀元7世紀に登場するイスラム教などの発展の過程にも、この種の宗教間の争いが皆無であったとはいえないが、その独善性、排他性の激しさにおいて、キリスト教のそれは言語を絶するものである。

 キリスト教による異教徒弾圧として上げなければならないのは、合計8回にわたって繰り返された十字軍の遠征だろう。この十字軍の遠征は約200年間続き、犠牲者は何百万人にのぼった。
 その犠牲になった多くのアラブ民たちのヨーロッパに対する憎しみがイスラムやアラブの地に残っている。
 相次ぐテロは、そのような地にしみついた憎悪に根ざしたものと思わざるを得ない。一神教による排他性は怖い。妄信的である。

 20世紀のホロコーストもアーリア民族のユダヤ民族に対する「非寛容の憎しみの心」が背景にあると思う。600万人が犠牲になった。

 我が国の宗教観はゆるい。日常的に仏教やキリスト教の行事に参加していながら、自分は無神教である、と答える日本人は少なくない。しかし、日本人の心理には多神教が持つ寛容さが備わっている。そこには宗教観を背景にした闘争は、もし生じたとしても部分的なものである。
 日本人の宗教観は諸外国人の立場から見て理解不能だそうだ。

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