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熊野純彦と哲学

2020年05月29日 | 読者へ
   熊野純彦と哲学

 我が「鶏鳴・ヘーゲル原書講読会」もこの5月11日からようやく「原書講読」を始めました。取り上げたのは『精神現象学』です。当面、その「序言」と「序論」を根本的に考え直してみるつもりです。

 久しぶりのゼミで、まだやり方は定まっていませんが、早くも大きな問題に気付きました。「気付いた」というのは、「今までの翻訳の時には気付いていなかったし、従って訳文に反映されていなかった」という意味です。

 その問題と言うのは、「序言は、本書を全て書き終わったヘーゲルが、改めて全体を見回した時に、『少し書いておく必要があるな』と気付いて書いただろう」ということです。なぜ、どういう事に気付いて、どういう「序言」が必要だと考えたか、です。

 手掛かりはあります。この序言には「学問的認識について」という「題」が付いていることです。しかし、この題がくせ者です。なぜなら、このように大きな題名では、その意図はどうにでも取りようがあるからです。果たせるかな、これまでの研究者や訳者は、この問題に気付かず、直訳してやりすごしました。逆に言うならば、「序言」の内容との関係を誰も考えなかったようです。
 私は、これまでにも、皆さんがこの序言での scheint を「~と見えるが、実際はそうではない」という意味に読めなかったために、ヘーゲルの真意を理解出来ず、意味不明の翻訳をしている」ということは指摘してきましたが、それ以上の事には気付いていませんでした。しかし、文章を書く人は、或る目的をもって書くのです。その文章の色彩は、当然、その目的によって規定されます。ヘボ文筆家なら支離滅裂な文になることもありますが、ヘーゲル程の哲学者ではそういう事はないでしょう。それなのに、これまでの私は、「ヘーゲルはなぜ原稿の完成後に、わざわざ『学問的認識について』と題する長文を書き足して、『序言』として、著作全体との関係を示唆したのかは考えもせずに、翻訳をしていたのです。恥ずかしいかぎりです。

 従って、今回も翻訳は2回も3回も読んでから筆を執るのですが、その2回か3回の読解の際にも、今回はこの根本問題を意識しつつ読んでいきたいと思っています。

 と、まあ、考えて、熊野純彦の訳(ちくま学芸文庫)の「あとがき」を読んでいたら、次の文に出くわしました。

──(前略)哲学史上の古典の翻訳を刊行するに当たっては、索引を附するのが望ましいのは言を俟たない。本訳書では、けれどもいわゆる「語句索引」は制作せず、いわば「フレーズ索引」を作成してみることにした。若きヘーゲルが、三十代のすえに世に問うた本作には、よく知られたフレーズが多くふくまれており、そうした観点から本書をひらく読者もすくなくないはずであるとの判断からである。じつさい『精神現象学』には、哲学書としては異例なほどに、またヘーゲルの他の作品にはみられないくらい、いわば「決めぜりふ」が数多くみとめられ、そのそれぞれが人口に膾炙するところともなっている。じっさいにそういった目で本文を読みなおしてみると、有名な物言いはほぼ「序文〔序言〕」に集中していることに気付かされるものの、気が付いたかぎりでは、全篇にわたって拾い上げておいたつもりである。(中略)
 ちなみに「フレーズ索引」を作成する方針からはやや外れてしまうけれども、「弁証法」「弁証法的」にかんしては、今回[は]ほぼすべて[の]用例を網羅してみることをこころみた。ご覧いただければ、その使用例が存外にすくないしだいに気づかれるはずである。──

 正直に言って、論理性の余りの低さに驚きました。私見で整理させてもらいますと、次のように言いたいのでしょう。
 ➀ 慣例に従って「索引」を作りましたが、それは「語の索引」でもありますが、「フレーズ[句]の索引も多く含まれています。(注・「語句索引は制作せず」は間違いです。「語句索引」と「フレーズ索引」は対概念になりません。phraseには「句」の意味があります)
 ➁ 出来上がった索引を見てみると、有名な「決めぜりふ」が多いが、それは「序言」に集中している。
 ③ それは訳者が恣意的に集めたためではない(純粋に学問的に仕事をした結果である)。(注・こういう余計な予防線を張る必要はありません)
 ④ 句について言える事は語についても言える。即ち、重要な語である「弁証法」「弁証法的」について見ると、使用例が少ないが、それでも、相対的に「序言」の中に頻出する、と言える。全19例中5例が「序言」からで、2例が「序論」からである。(注・語と句の対比も、多い少ないの対比も問題になっていません。「序言の中には『相対的に多く』出ていることが問題のはずでしたが、それを忘れたようです。)
 このようにまとめ直して見ると、熊野の非論理性が、ここでの主テーマである「序論の重要性」で一貫しておらず、無関係な事に不必要に触れているからだと分かります。

 さて、本論に戻りまして、「序論」の重要性です。これが重要句の出てくる頻度から「も」確認されると言ったならば、哲学者たる者、「ではなぜこの序言は大切なのだろうか。この序言の意味なり役割はどうなのだろうか」と考え進めなければならないはずでしょう。しかし、これが全然無いのです。事実の確認で終わっているのです。これでは哲学の門の前で立ち止まってしまった、と言うしかありません。

 では、金子武蔵の訳書の上巻に付いている「訳者注、その一」はどうでしょうか。読んでみますと、これは、成立史的説明であって、その意味については「表題の『学問的認識について』は序言全体の趣意を表明したものであろう」と、言わずもがなの事で済ませています。

 最近では一番頑張っている竹田青嗣・西研著『完全解読・ヘーゲル「精神現象学」』(講談社選書メチエ)を開いてみますと、「序文(序言)のマニフェストもよく知られているが、方法論上の指針としては『緒論(序論)』がはるかに重要なので、ここでは序文(序言)は省き緒論(序論)から始めたことを断っておく」(10頁)と、肩透かしを食らいます。これで「完全解読」と言えるのでしょうか。

 まあ、いい。無い物ねだりは時間の浪費です。我々は自分で、上記のような問題意識を持って読んで行きましょう。既に成果は出始めています。

 すると、「こういうゼミなら、『聴講したい』という人もいるのではないかな」と、思いつきました。最近のコロナ騒動で「ネット会議」みたいなものが知れ渡りました。我々のゼミは元々スカイプでやっていますので、技術的な問題はありません。

 しかし、まだ始めたばかりです。大見得を切った以上、竹田や西のようにがっかりさせたら、「何だ、大した事ねえじゃないか」と、虎視眈々とあら探しをしている「評論家」の餌食になりそうなので、もう少し待ってからにすることに決めましたた。済みません。しかし、そう遠くない時期に始められると思います。一応、広告を出しておく次第です。

 5月29日    牧野紀之




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1 コメント

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フォイエルバッハ論の誤植について (水野惠司)
2020-06-03 09:44:44
誤植について
 58頁 右から7行目 ヘール はヘーゲル
157頁 注(1)の一行目
   Mataphysik は Metaphysik
 この翻訳の読者対象は一般の労働者ではないですね。ドイツ語が少しできて、原書が手元にある一部の読者を対象にして書かれたものですね。
 共産党系の哲学者の数が少なく、レベルも落ちてきているのではと思います。
 知は力なり、もっとマルクス主義とヘーゲル哲学を一般の人々が読めるようにしてほしいものです。「法の哲学」の翻訳はされませんか。

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