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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

哲学する姿勢

2013年05月16日 | タ行
 1、Aさんからのメール

 私は今62歳です。20代に『先生を選べ』を読み好い本と思いました。

 今年、『西洋哲学史要』を読み非常に分かり易くて驚きました。そして牧野紀之訳の『小論理学』を図書館で借りて読んでいますが、非常に理解しやすいので、これはじっくり読まねばと思っているところです。

 というのは、今までの他者のヘーゲルの訳本を読んでも何を云っているのか私にはよく理解できませんでした。

 『西洋哲学史要』の最後の弁証法の牧野さんの読み方(「弁証法の弁証法的理解」)に非常に感銘を受けました。どこまで理解が出来るのか分からないですが挑戦してみます。非常に面白くてたまらない魅力があります。

 私はドイツ語は大学で少しかじっただけですが、ドイツ語が達者でなくても本当は日本語が十分に理解できておれば、自分なりに思考を重ねることによって自分なりの哲学が出来ると考えているのですが、ドイツ語でヘーゲルの原文を読まねば難しいのでしょうか。出来ないのでしょうか。どうお考えでしょうか。

 大変勝手なんですが、出来れば意見を頂けないでしょうか。宜しくお願いします。

 2、お返事

 ① どこかに書いたと思いますが、ドイツ語でヘーゲルを読まなくても哲学する事は「原理的には」可能だと思います。江戸時代の思想家はそうでしたから。

 ② しかし、出来れば、原語で勉強できるようになった方がベターではあると思います。

 ③ しかし、その場合でも、原語で勉強する前に日本語で哲学する姿勢が出来ている事が前提だと思います。日本語で哲学出来ない人が、ドイツ語でヘーゲルを読んでも、その人の哲学は前進しないでしょう。講壇学者のヘーゲル研究とやらから哲学が出てこないのはここに理由があると思います。

 ④ 私の学問に関心を持ってくださったようで嬉しいですが、それなら『哲学の授業』や『哲学の演習』を読んで、そこにある議論について自分の考えをまとめたらどうでしょうか。あるいは「マキペディア」の記事について考えた事をまとめても好いと思います。「議論の認識論」などどうでしょうか。

 ⑤ その際、大切な事は、そのまとめた考えを発表することです。俳句をやる人について専門家が忠告している話を聞きましたが、「句会に出て、発表しないと進歩しない」ということでした。発表することで、自分を客観視できるからではないでしょうか。「マキペディア」はその発表の場でもあります。使ってくださる方がほとんどいないのが残念です。

 3、Bさんからの要望

 数人の仲間と『精神現象学』を読んでいます。「マキペディア」を時々覗いています。アベノミクス状況についてコメントをぜひ。

 4、お返事

 Aさんへのお返事に書きましたように、ただ読んでいるとか話し合っているのではなく、定期的に「書くこと」、つまり小論文を書いて発表することが大切だと思います。「白熱教室は50点」を読んで下さい。

 昔、寺沢さんの『意識論』だ出た時、ある人が、鶏鳴関係の人ですが、「あれをどう思いますか」と聞いてきました。「自分の意見を言った上で、先生の批評を聞く」のが正しい態度だと、『先生を選べ』の中に書いたはずだけど、とお返事しました。

 皆さんのアベノミクス論を発表して下さい。それを読んでから考えます。

関連項目

白熱教室は50点

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「先生を選べ」に学ぶ (いんきょやの10ちゃん(桜沢 彰))
2018-12-28 08:51:17
牧野先生、私のような者に目を止めてくださりありがとうございます。以下の文は私のブログに載せているものです。できますれば、先生の批評をいただきたく、お願い申し上げます。以下、敬称略。
牧野は、勉強とは何かと問い始める。普通は学問だろう。勉強と研究を分けたところが重要な点だと思う。その同一性と差異を挙げてゆき、勉強とは創造的継承であると結論する。
 そして勉強と研究の同一性である創造的性格から「自分の問題意識を大切にせよ」と言う最重要な当為を導き出す。問題意識とは何かが問題であると思う。出発点は「~が面白そうだ」と言う程度の漠然とした直接的なものではないかと思う。それを追求してゆけば、そこに客観性が現れれて、「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果を学ぶ」という点に到達する。
 そこで先生について学ぶことになるのだが、牧野はここで真理と先生と生徒からなる三項関係の図を提示する。この図は実に的確でここに牧野の研究姿勢が凝縮されていると思う。生徒から見ると先生を介して真理と関係するのと、直接関係するのと二つの線がある。これによって生徒は、「私は自分の真理に到達するために、自ら先生を選び、勉強するのだ」と考えことができる。自分が自分に与えた規定態の中で自由であるということだと思う。
 またこの生徒は、真の友人や真の芸術のように実在と概念が一致しているという意味でそれ自体が真理なのではないか。
  私はまず生徒の概念に到達し、労苦を払わねばならない。私の問題意識は何かと反省してみると、もやもやしてすぐには出てこない。では、「生活の中の哲学」に感銘を受けたのはなぜか。単にわかりやすいからではない。哲学の訓練を積んだ知性が、日常的ななじみ深い意識にむかい、明晰に解き明かすのを見るからだ。しかしそのような人はたぶん、他にもいると思う。牧野だけにあるのは、純粋に哲学知を追求してゆけば必然的にそこに至るという道筋だと思う。そこが、「頭の良い人たちのおしゃべり」と生活の中の哲学の違いだと思う。やはり、まずやらなければならぬのは本を読み勉強し、哲学知を自家薬籠中の物にすることだと思う。
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