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正岡子規

2012年04月06日 | マ行
                     歴史研究家・河合敦

 俳人・歌人の正岡子規は、30代の若さで脊椎カリエス(結核性脊椎炎)のため寝たきりになった。だが子規は「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ、生きて居ても何の面白昧もない」(『病床六尺』)と述べ、死の直前まで生を満喫しようとした。

 亡くなる1月半前に「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る……朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊(えぞぎく)を写生した……午後になつて頭はいよいよくしやくしやとしてたまらぬやうになり、終(つい)には余りの苦しさに泣き叫ぶ程になつて来た。そこで服薬の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ薬を飲む時刻には少し早いのであるが、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それから復(また)写生をしたくなつて忘れ草といふ花を写生した」(同)と書いている。

 すでにモルヒネを飲まなくては、日常生活も送れない状況になっていながら、あふれ出る創作意欲は驚嘆に値する。しかも「写生ハ多ク モルヒネヲ欽ミテ後 ヤル者卜思へ」と書き付け、己の境遇を諦観している。なんと子規は、死ぬ12時間前まで苦しい息の中で旬をひねりつづけた。仰向けに寝て痩せた手で筆を握り、妹に画板を持ってもらい、弟子の河東碧梧桐に墨をついでもらいながら最後に3句をしたためた。

   糸瓜(へちま)咲きて痰(たん)のつまりし仏かな

 糸瓜水は痰を切るので、結核だった子規も愛飲していたのだろう。もちろん「痰のつまりし仏」とは自分自身だ。すでに魂は身体を離れ、死にゆく己の姿を冷静に見下ろしていたようだ。見事な最期であった。
      (朝日、2012年03月22日)

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