マキペディア(発行人・牧野紀之)

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政治主導を考える、田中康夫の場合

2013年01月10日 | タ行
 私は田中康夫さんの政策がいちばん正しいと思っています。2009年の総選挙の時は新党日本のサポーターでもありました。しかし、どうしても分からない点もあります。

 第1は、政党は政策だけでなりたっているのではなくて、組織としての在り方も問題であり、それは規約の中に出ると思うのですが、新党日本の規約は発表されていないのです。かつて頼んだ事があって、「発表する」との返事をもらったのに、です。

 第2に、それとも関係しますが、党員が、あるいは仲間の議員が次々と去って行く事です。有田芳生(よしふ)さんは2009年の時は新党日本から出て、惜しい所でしたが落選し、翌年民主党から参院選に出て、当選しました。田中さんが参院を辞めて衆院選に立ったために繰り上げ当選した平山誠さんはその後離党しました。

 結局、昨年の総選挙で田中さん自身も落選しました。政党要件を満たさなくなりましたが、政治団体として活動を続けるそうです。田中さんの「一千万と言えども我行かん」という精神は立派だと思いますが、政治闘争ではやはり勝利を目指さなければならない、と思います。この調子でいつまで続くのでしょうか。

 田中さんの政治へのデビューは模範的だったと思います。自分から出たのではなく、長野県民に「知事選に出てくれ」と言われて出たのだからです。当選してからの活動も立派だったと思います。初めての予算編成では、納得行くまで職員に説明を求めたので、とても時間がかかったと聞いています。しかし、これが本当でしょう。田中さんにはこれをする意思と能力があったのです。

 議会との対立で最初は勝利しましたが、徐々に支持を失っていきました。その原因が私には今でも好く分かりません。ともかく、田中さんはこの退潮を挽回する手を打てずにそれ以降、低下する一方の道をたどって今日に至ったのです。

 同じようにデビューして、現在までのところ、とにもかくにも前進している橋下徹さんと比べると、橋下さんは自前の政党を作り、議会でも、府議会では多数派を作ったという点があります。田中さんの場合も支持者が県議会に進出したようですが、少数でしたし、そもそも田中さんが作ったのではなかったと思います。新党日本は田中さんが他の議員と作ったのですが、他の人たちは去って行きました。

 最近、大阪市立高校の生徒が部活の顧問の暴力を苦にして自殺しました。橋下市長は「こう言う時は市長が自分で出て行かなければならない」と言っています。教員のセクハラ問題を受けて、「県の教育行政には構造的な問題がある」と言いながら、自分ではその「構造的問題」が何かを研究せず、委員会とやらを設けて、それもその委員長には某大学の元消化試合学長だった人を当てて、丸投げしている我が静岡県の知事とは全然違います。

 橋下市長の政策の内容には問題もありますが、とこかく内容以前に「政治主導」ではあると思います。

        関連項目

田中康夫さんの知事としての実績