マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

加藤尚武訳『自然哲学』のヘーゲル読解

2012年10月31日 | カ行
お断り・先に10月23日に「加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法」という文章を発表しました。これは加藤訳の文法上の問題点を3つ挙げて検討し、論評したものです。同時に、哲学上の問題も2つほど検討しておきました。
 今回は、加藤訳がどういう風にヘーゲルを読んでいるか、又は読んでいないか、を調べます。と言いましても、検討は読者に任せます。第246節を材料として取り上げて私の訳を対置しましたので、自由に判断して下さい。
2012年10月31日、牧野 紀之

01、第246節本文(加藤訳)

 物理学と呼ばれているものは、以前は自然哲学と呼ばれていた。物理学もまた、同様に、自然の理論的な考察、しかも思索による考察である。一面から言うと、このような考察は、先に述べたような目的のように、自然にとって外面的である諸規定から出発するのではない。他面から言うと、この考察は自然のもつ普遍を認識することを、この普遍が同時に自己のうちで規定されていることの認識を目指している。普遍とはさまざまの力、法則、類のことであり、さらにまたこれらの内容は、単なる寄せ集めではなく、目(Ordnung)とか、綱(Klasse)とかの階層秩序のなかにあって、1つの有機体の姿をあらわさなくてはいけない。自然哲学は概念的に捉える考察である。だから、同じ普遍を対象としても、しかしそれだけを単独に(Für sich)対象とする。そして、普遍を、概念の自己規定にしたがって、固有の、内在的な必然性のなかで考察する。

02、同、牧野訳(訳注付き)

 第246節〔自然学から自然哲学への諸段階〕
自然学(Physik)(1) と最近呼ばれているものは、かつては自然哲学と呼ばれていた(2) ものである。〔「哲学」という言葉から分かるように〕それは〔自然への実践的な振舞いではなく〕自然を理論的に考察することである。しかも〔理論的にと言っても表象的にではなく〕思考によって〔思考規定で〕自然を考察する事である。

 しかし、〔ここで注しておきたい事は)第1に、その思考規定は〔第245節への付録で述べたような〕目的論のそれのような対象たる自然物に内在的に関係しない外的規定ではない〔という事である〕。第2に、それは自然対象の「自己内で規定された普遍」、つまり力、法則、類などの認識を目指すものであるが、それらの(3) 内容は「単なる寄せ集め」としての力とか法則とか類ではなく、〔例えばリンネ以来の〕綱(こう、Klasse)とか目(もく、Ordnung)に分類され(4)、整理されて、体系的に秩序づけられている(5) ということである。

 〔しかし、私ヘーゲルの目指す〕自然哲学は〔同じ「自然哲学」ではあるから、上の点は同じなのだが、単なる思考的考察で満足するものではなく〕概念的考察である。従ってそれは〔かつての自然哲学と〕同じ普遍を求めるのであるが、それを独立に考察する。つまり、それらの普遍的規定が自己自身の内在的必然性に基づいて、即ち概念の自己規定(6) によって生成し、〔発展し〕次の規定に取って代わられる過程を考察するのである(7)。

(1) 15頁2行目。Physikをどう訳すかは、本書の根本に関わる問題だと思います。簡単に「物理学」とは訳せません。
 語源的にはPhysikはギリシャ語で自然を意味するPhysisの学ということですし、日本語の「物理学」も分解してみれば「物(自然物)の理(ことわり)の学」ですから、一致している訳です。かつては「自然学」と訳されていましたが、これでよかったのです。その時、自然学とは言わば自然科学全般を意味していたのです。その時は今で言う生物学も地質学も入っていたのです。
 日本語の物理学という言葉はどのような経緯で出て来たのか知りませんが、少なくとも今では「自然科学の1分野」を意味する事になっています。「名は体を表す」と言いますが、「体を表す名前」に替えるとしたら何と言うべきでしょうか。物理学会ではそういう議論はないのでしょうか。私は素人ではありますが考えた事があります。思い浮かぶ下位分科には動力学、静力学、熱力学、量子力学、流体力学、などとたいてい「力学」という語が付きますから、全体としては「力学」と言い換えて好いのではないかと思いましたが、どうしても「力学」とは言えないらしいものに「物性論」があって、結論を保留したままになっています。
 ヘーゲルの本書では「自然哲学」との対比で考えられている場合は「自然学」と訳しました。本論は第1部がMechanik、第2部がPhysik、第3部はOrganische Physikとなっていますが、内容を考慮して、それぞれ、自然哲学総論(あるいは予備概念)、非有機物の自然哲学、有機物の自然哲学と訳すと好いと思います。

(2) 15頁2行目。genanntとhießは同じ意味ですが、近い所ではなるべく同語の使用を避けるのが欧米語の特徴です。日本語にはそういう習慣がありませんから、同じ言葉で訳しました。
(3) 8行目。welcher Inhaltのwelcherは昔の定関係代名詞welcherの複数2格形で、その前のKräfte, Gesetze, Gattungenを受けています。

(4) 9行目。リンネから始まる動植物の分類の各階級の呼び名は、『岩波生物学辞典』によると、大から小の順に以下のようです。界(Reich、動物界・植物界)──門(動物界の門はStamm、植物界の門はAbteilung)──綱(こう、Klasse)──目(もく、Ordnung od. Reihe)──科(Familie)──属(Gattung)──種(Art)。
(5) 10行目。ausnehmen mussのmussは訳さなくて好いと思います。「~ということになっている」くらいの意味でしょう。「文法」(『関口ドイツ文法』)の第2部第8章第10節(müssen)の第1項②を参照。
(6) 13-4行目。この辺の「内在的必然性」とか「概念の自己規定」については拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。

(7) 以上の文を読んで哲学するのはここから先です。先ず理論的考察には表象的、思考的(目的論的、寄せ集め的、分類的)、概念的と、大きくは3段階ありますが、思考的考察の内部の3段階を入れると全部で5段階あることになります。これを確認したら、今度は自分が直面している所与の考察(他人の考察でも自分自身の考察でも好い)はこの5段階のどれに属するかと考えるのです。こういう事をいつでもするのです。こういう実際の例での思考訓練を繰り返す事で徐々にヘーゲル的な考え方が身に着いてくるのです。
 私の文で考えます。「文法」(『関口ドイツ文法』)で考えますと、第2部の「理解文法」は思考的の第3段階の「分類的」だと思います。「概念的」とは言えないでしょう。
 第1章から順に、文、名詞、代名詞、形容詞、数詞、冠詞、動詞、話法の助動詞、接続法、副詞、前置詞、接続詞としましたが、文論を第1章に持ってきたのは「まず全体を見る」ためです。それに続く品詞論を名詞論から始めたのは「言語の核心が名詞にある」と考えたからです。そして名詞と関係の深いものを検討した後に、動詞論に移ったのです。
 これに対して第3部の「表現文法」は「寄せ集め的」だと思っています。否定、問い、間投、譲歩、認容、受動、比較、伝達、強調、断り、配語法、提題、としましたが、順序に全然必然性がありません。「全てを尽くしている」ことの証明もありません。表現文法を先ず「分類的な段階」に引き上げる人が出て来てくれる事を希望します。
 私の文章で概念的なものは「『パンテオンの人人』の論理」でしょう。そこで論じた「パンテオンの人人」という作品自身が概念的でしたが、それの概念的である所以を説明したものです。

03、第246節への注釈(加藤訳)

 哲学と経験的なものとの関係については一般的な緒論(Einleitung)で述べておいた。哲学は自然経験と一致しなければならないだけではなく、哲学的な学の発生と形成は経験的な物理学を前提とし、条件としている。しかし、1つの学問の発生の歩みとか準備作業とかは、学問自体とは違う。学問のうちでは、そうした歩みや準備作業が基礎として現れることはありえない。ここで基礎となるものは、むしろ概念の必然性でなければならない。すでに述べたが、哲学的な歩みの中では、対象はその概念規定に従って述べられなければならない。しかし、これだけではない。この概念規定に対応する経験的現象をつぶさに挙げて、これが実際に概念に対応することを明示しなくてはならない。とはいえ、内容の必然性との関係では経験に訴える必要はない。まして、直観と呼ばれてきたものや、たいていは類比による表象や想像(いやそれどころか空想)の働きにすぎないものに訴えることは許されない。類比は、偶然的な場合もあれば、有意義な場合もある。類比は、対象に規定や図式をただ外面的に印象づける(第231節注解)。


04、同、牧野訳(訳注付き)

 注釈〔自然哲学と経験的自然学〕

 哲学の経験知への関係については既に〔本百科辞典〕全体への序論(8) の中で述べた。〔これを自然哲学に適用して言うと〕自然哲学は自然についての経験知と別のどこかにあるわけではない。それどころか、自然哲学は経験的自然学を前提条件として初めて生まれ、発展するのである。しかし、だからと言って、哲学(10) の誕生と形成の歩みがそのまま哲学そのものに成るのではない(9)。哲学では〔哲学をそれとして展開する時には〕もはや哲学の発生の歴史を根底に置くこと(11) は出来ない。哲学の根底は概念の必然性(12) でしかありえないからである。

 しかし同時に確認しておいた事は、哲学の対象をその概念規定の順序で展開するだけでは不十分だということである。更に進んで、それぞれの概念規定に対応する経験世界の現象を指摘して、両者が実際に一致する事を示さなければならないということである。しかし、〔個々の概念規定と経験との一致ならばそれも出来るが〕内容の必然性の証明となると〔それは或る概念から次の概念への移行の内在的必然性を示す事だから〕経験を根拠にすることは出来ない。もちろん直観に頼るなどということは問題にさえならない。それは表象や想像や空想の中で類似を手がかりにして対象に外面的な規定を押しつけるものであり、その類似は〔たいてい〕偶然的なものだが、〔時には〕有意義な類似である場合もあるが、いずれにせよ、対象を外面的な図式で整理するだけで〔哲学とは縁もゆかりもないもので〕ある(13)(第231節への注釈を参照)。

(8) 15頁16行目。in der allgemeinen Einleitungとはどこか。この「自然哲学」の第245節の前のことか。「エンチュクロペディー」全体の序論、正確にはその「予備概念」の第37~39節のことか。後者と取りました。特に第38節でしょう。
(9) 15頁20行目。Ein anderes aber以下の文は、「歴史と論理の一致」とやらを振りまわして歴史的に前のものから叙述を始めるのが学問だと思っている自称マルクス主義の学者のためにあるようなものです。(9)と(10)はドイツ語原文に振った番号の順と注の順序が逆転しています。

(10) 21-22行目。einer Wissenschaftはeiner Philosophieの繰り返しを避けたのです。一般的にも、ヘーゲルでは「勝義のWissenschaft」は(ヘーゲルの定義での)Philosophieの事です。詳しくは拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。なお、この不定冠詞は「Wissenschaftの名に値するものの」ということで、「1つの」という意味ではありません。日本の学者は「この不定冠詞には何か意味がありそうだな」と「感ずる」と、すぐに「1つの」と訳して誤魔化して通り過ぎていきますが、これではいつまでたっても不定冠詞の「ニュアンス」は分からないでしょう。もちろん「1つの」と訳して好い場合も沢山あります。いずれにせよ、どう訳すかの根拠を自覚して訳してほしいということです。

(11) 23行目。als etwas erscheinenはseinの言い換えですから、必ずしも律義に「~として現れる」と訳す必要はありません。「である文」は全ての文の中で9割を占めている(関口)ので、言い換えのヴァリエーションが沢山あります。日本語では「である文」の繰り返しを嫌いません。
(12) 24行目。「概念の必然性」についても拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。
(13) 16頁2行目。唯物論では認識は現実の反映だから、「最後には」現実(経験)を根拠にして考えるに決まっているのですが、両者は「直接的に」一致するものではない、ということです。しかし、ではどう一致するのか。これが問題です。

       関連項目

加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法

哲学演習の構成要素

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする