マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

カント認識論の現実的意味

2012年04月16日 | カ行
    その1(構想力)

 第1項・哲学する姿勢

 ○○さんも言ったように、カントの演繹論を読んでいると「構想力」というものが大きな役割を果しているように見えます。へーゲルのカント論だけしか知らないと、こういうものがあることも知らないで終ってしまいそうですが、自分でカントを読んでみると、これが分かる。
 と同時に、自分でカントを読んでみるとまず気づくことは、「へーゲルのカント論から描いたイメージと大部違うな」ということだろうと思うのです。つまり、へーゲルのカント解釈はものすごく強引な所があると思うのです。

 しかし、ここで「強引」ということは必ずも「悪い」という意味ではないのでして、この点もよく考えてみなければならないのです。実際、そういう「強引な」へーゲル的解釈とそういう「強引さ」のないサラリーマン教授たちのカント研究とを比較して、どっちが哲学にとって意味があるかと考えてみれば簡単に分かるように、ヘーゲルのカント解釈が強引であるということは、第1に、へーゲルのカント研究はそれだけ強い主体的な問題意識に基いたものだということであり、第2に、強引といっても根拠がない訳ではなく、やはり根本は鋭く見抜いているということなのです。ただ、サラリーマン教授のように、枝葉末節を気にしないというだけなのです。ですから、私たちがカントを考える際にもこのへーゲルの態度は学ぶ必要があると思うのです。

 第2項・構想力とは「ひらめき」の事

 そこで本論に帰つて、ここで出てきました「構想力」というものについて考えてみますと、これは「対象が現在していないのにその対象を直観において表象する能力」(B版151頁)とされています。そのほか「感牲に属する自発性」とか「感性を先天的に規定する能力」とか言われています。では、これを一体どう考えたらよいのか。前回、カントが認識というもので考えていることは、人間の認識が方法をもって行われるという面に立脚しているのだとお話しましたが、それではこの構想力はその「方法に基づく認識」のどういう面を捉えているのでしょうか。これが問題です。

 そこで私は考えてみたのですが、これはいわゆる「ひらめき」に当たるのではないかと思うのです。例えば、幾何の証明の問題などを考えてみますと、うまい所に補助線を1本引くと、それに適用できる定理がおのずと浮かんできて、証明がスラスラ進むということがあります。しかし、その補助線がひらめかない限りどうしようもないというような場合です。この場合を考えてみますと、そこで適用されるべき定理は方法であり、カントで言えば、これを極端に一般化したものが純粋悟性概念ということになるのだろうと思うのです。しかし、概念=方法だけではその方法は適用できない。一般的なものである方法と個別的なものであるその実例(目前の問題)とを結び付けるものが「ひらめか」なければならない。だから、方法の適用のためにはその「ひらめき」に当たる構想力が必要だということになるわけです。

 これは何も幾何だけではない。現に今問題になっているカントを考える時でもそうです。カント哲学の現実的意味を考えるという「方法」をお話し、しかも「人間が認識する時、頭の中に予め持っているものを対象の中に持ち込むと言ってよいような側面はないだろうか」とまで具体化して問題を出したのに、皆さんは答えがひらめかなかった。それは何も知らなかったからではなくて、私から言われれば分かる事なのに、自分ではひらめかなかったのです。

 第3項・カントの偉大さ

 このように考えてみますと、カントの構想力というものには十分な現実的根拠があることが分かってくるわけです。そして、或る哲学の偉大さとは、結局は、その哲学がどの程度現実を深く捉えているかに依るわけですから、カント哲学はやはり歴史に残っているだけのことはあると分かるわけです。

 しかも、ここで大切な点は、カントのこの構想力というものは、カントが人間の認識能力を直観と悟性とに二大別し、それぞれを受容性と自発性として特徴づけたにもかかわらず、それらと矛盾するのではないかと思われるのに、あえて「感性の物における自発性」として構想力を持ち出したことなのです。ここに、自分の立てた大きな枠組みとの矛盾をも厭わず現実に忠実たらんとするカントの鋭い感覚を見ることができます。そして、この現実感覚こそ、哲学者に限らず、あらゆる人の偉大さを決める最大の要素なのです。この点は、「ヘーゲル哲学と生活の知恵」(『生活のなかの哲学』に所収)にも書きましたが、もう一度この事をしっかりと理解しておいて欲しいと思います。

 第4項・先験的統覚

 続いて、今回私が考えました事は、やはり「先験的統覚」の問題であります。A版の107ページを見ますと、「意識のかかる統一(これが先験的統覚ですが)がなければ我々の内にはいかなる認識も生じえないし、また認識相互の結びつきも、認識の統一も不可能である」と言われています。

 この言葉は我々の言葉に翻訳するとどうなるでしょうか。手掛かりは「認識相互の結びつき」と「認識の統一」という言葉にあると思うのです。皆さんは「認識相互の結びつき」とか「認識の統一」という言葉を聞いたら、何を思い浮かべますか。

 やはりそれは「思想」とか「世界観」とかいうものだろうと思います。しかるに、先験的統覚というものは自覚された自我のことですから、カントのこの言葉の意味は、人間が世界観とか思想といったものを持ちうるためには自我に目覚めていなけれはならない、ということになるわけです。そして、こう取れば、それは全く正しいということが分かるわけです。子供や精神薄弱で自我の目覚めに達していない人は、世界観を持つことは出来ません。

 第5項・カントとヘーゲルとの違い

 さて、それでは人間はどのようにして世界観を作るかといいますと、それは自我に目覚めた思考が、当人のそれ以前の一切の経験を総括し、それを人間とは何かという中心テーマの下にまとめあげることによって作られるわけです。そして、それは、当人のその後の生き方と考え方を決めていくわけですから、人生観とも呼ばれるわけですが、それはともかく、このような面はカント哲学にどう反映されているでしょうか。

 すると、カントがカテゴリーとしてあげた12個の概念は、万人がそのような総括によって作り上げる考え方に共通するもっとも普遍的なものと見ることができると思います。そして、この同じ問題に対してへーゲルの与えた答が彼の論理学体系だったと思うのです。そして、この2つの答えはものすごく異なったものなのです。

 そこで私の考えたことは、この2つがなぜかくも違ったものになったのかということです。はっきりした事は分かりませんが、根本的には、問題をこのように明確に立てたか否かの問題だと思います。私の問題提起はかなりヘーゲル的なのですが、カントには自我の目覚めの論理化という意識はほとんどないのではないか、と思います。もう1つの理由は、方法というものをどう考えるかということで、それを「単なる見方」と捉えるか、「同時に世界観でもあるもの」と捉えるか、の相違だろうと思います。いうまでもなく、カントの方法観は前者であり、へーゲルのそれは後者でした。

 この方法観の相違というものはなかなか大切な問題でして、唯物史観の理解においても、それを単に土台・上部構造関係でだけで捉えるのは「単なる見方」的な方法観だと思うのです。それに対して、やはり一定の通史観をバックにして、しかもプロレタリアート独裁をその結節点と見ることまで含めて考える見方こそが唯物史観の正しい把握ではないかと思うのです。

 第6項・スターリンはマルクス主義におけるカント的段階

 こう考えてみれば簡単に分かるように、理論と方法を分裂させたスターリンのマルクス解釈はカント的立場に立つものであったわけです。ついでに言っておきますと、ミーチン流のマルクス解釈、これは今日いわゆる正統派の教科書に書かれている代物ですが、それはみな根本的にはカント的立場に立っています。スターリンはその典型でしたが、スターリン批判後もこの点は少しも変っていません。そして、マルクス解釈におけるカント的段階を止揚してへーゲル的段階にまで高めようとした人が梯明秀氏で、それを基本的に完成させた人が許萬元氏です。私はこう見ています。

 ここまで言ったので、誤解を避けるためにもう一言付け加えておきますが、マルクス解釈におけるへーゲル的段階は決して最高の段階ではないのでして、マルクス研究は更にマルクス的段階まで引き上げられ、人民的段階にまで上らなければなりません。そして、これを目指しているのが我々の「生活のなかの哲学」という思想運動なのです。

 第7項・ヘーゲル的「個別・特殊・普遍」観の重要性

 大分横道にそれましたが、最後に、それでは方法を「単なる見方」でなくして、「同時に世界観でもあるもの」にするには、理論的にはどこが問題かと言いますと、やはり、それは個別と特殊と普遍という概念の捉え方だと思うのです。

 カントが普遍と特殊(個別)を悟性的に対立させていたことは、カントが、一般的法則は先天的に与えうるが、特殊法則には更に経験の援用が必要だと言っている所などによく出ています(B版165頁)。そのため、カントの説には特殊法則が含められず、一般法則も深まらなかったのです。これに対してヘーゲルは、「自己を自分で特殊化する普遍」という考え方を発見することによって、この対立を克服するのです。

 この点から見ても、「昭和元禄と哲学」(『生活の中の哲学』に所収)以来、私が繰り返し力説しています「個別・特殊・普遍」についての正しい見方の確立がいかに決定的に重要かが分かろうというものです。

         その2(図式と原則)

 第1項・問題の確認

 今回のテーマは図式論と原則論でした。まずここで確認すべきことは、図式と原則とはどういう関係にあるのかということであり、それと関連しているのでしょうが、前回に主要テーマになりました構想力とここで初めて出てきました判断力とはどう関係しているのか、ということです。

 図式と原則の関係については、○○さんから指摘のありましたように、B版175頁によくまとめられているようですが、この言葉を読んで意味が分かるでしょうか。

 図式とは「純粋悟性概念が使用されうるための唯一の感性的条件」であり、原則とは、「この条件のもとで純粋悟性概念から先天的に生じて、他のすべての先天的認識の根底に存する総合的判断」とされていますが、まあ、簡単に言って、図式を一層具体化したものが原則である、と言ってよいのではないでしょうか。

 ともかく、この図式と原則の項では、認識主観が主観内に予め持っている先入観、つまり方法をもって具体的事例を研究する際、その研究はどのようになされるか、という認識論上の大切なテーマが扱われています。

 第2項・図式とは何か

 そこで、この問題に対する答えとしてカントの出したものが、まず「図式」ということであったのです。例によって、我々はカントの言葉を我々の言葉に翻訳しなければならないのですが、カントの言っている図式とは我々の言葉で言うとどうなるでしょうか。

 その手掛かりとしては、形像と図式の区別が一番よいと思いますが、カントは図式は形像そのものではなくて、「概念を形像化する一般的方法の表象」という言い方をしています(B版180頁)。ここで「形像」とは個々のイメージ、ないし個々の実物が考えられているのでしょう。カントの出している例で言えば、個々の三角形ないし、個々の三角形についての個々の像がそれに当たるのでしょう。カントは対象そのものと、対象についての認識主観内の像とをはっきりは区別していませんが、そこは今は言わないことにしましょう。こういう事ばかり問題にして、「意識から独立した客観的実在」とやらを振り回して得意になっているのが俗流「弁証法的唯物論者」なのです。

 私の考えた所では、この形像と区別された図式とは、典型とか実例とか言われているものであり、我々の言っている所の「普遍として機能している個別」のことだと思うのです。例えば三角形について考える時、たしかに我々は或る一個の、個別的な三角形を頭の中に描いたり、黒板に書いたりして考えるわけですが、その時その個別的な三角形は三角形一般として機能しているわけです。三角形を代表しているわけです。ですから、これがカントの図式に当るものだと思うのです。たしかにカント自身は「図式は形像の中に内在しうる」とは言っていませんが、これはカントの悟性的思考の限界です。しかし、大切な点は、そのようなカントの不十分さではなくして、カテゴリー(方法)の適用の際には図式が要るという形で、自分自身の「個別と普遍を対立させるだけですませる考え方」にあえて疑問を投げかけ、後にへーゲルにおいて基本的に完成される概念的個別への道に一歩を踏み出したことを確認することであり、このような重要な点を現実の中に感じとったカントの偉大な現実感覚を認め、受け継ぐことだと思います。

 第3項・原則とは何か

 続いて、原則論ですが、カントが原則論で展開したことは何だったかというと、私の解釈した所では、恐らく、それはこういうことだろうと思うのです。

 例を第3の原則「経験の類推」の中の第2の原則に取りますと、それは「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」というものなのですが、これをカントが「原則」としたということは、要するに、我々人間はある現象に出会うとすぐにも「その原因は何だろうか」と考える、あるいは「その結果はどうなるのか」と考える、そういう思考上の習慣を持っていますが、そういう習慣がなぜ正しいのか、それを根拠づけようとしたのだと思うのです。そして、そういう普遍性を持った考え方として4つの原則というものを挙げたのだと思うのです。こう捕らえると、一応分るのではないでしょうか。

 第4項・ヘーゲルのカント批判

 そして、それが分かると、今度は、我々がこの原則論を読んで何となく失望することの原因も分かるだろうと思います。つまり、先にも述べましたように、我々はここに「方法の適用の論理」というものを求めて読んだのですが、この希望は肩透かしを食らって、ここに与えられたものはあまりにも自明な「原則」とその証明だったのです。

 カントは、人々によって公理のように認められているものの根拠づけをやっただけで、これらの公理のような原則の内容を吟味して、その理解を一層深めるということはしなかったのです。ですから、カントの原則論によっては、原因と結果についての考え方が深まる、ということは少しもないのです。それに反して、へーゲルの論理学を読むと、原因と結果とは同一のものである、とかいったようなことも分かりますし、第4の原則で扱われている現実性とか可能性とか必然性については、一層深い理解が与えられるわけです。

 そこで思い出されるのがへーゲルのカント批判ですが、へーゲルは「カントは、カテゴリーの吟味といっても、カテゴリーを単に主観的か客観的かという観点から吟味しただけで、それを絶対的に考察しなかった」と言っています(『小論理学』第41節への付録2)。そして、この批判は以上に述べた点から見て、やはり当たっていると言えるわけです。

 しかし、今回この第一批判を読んで分かったことは、カント自身この点に気づいていたということです。その証拠にB版の249頁を読みますと、「私のこの批判の意図するところは、もっぱら先天的かつ綜合的な認識の源泉の究明であって、概念の解明のための分析ではない。概念の解明のためには『純粋理性の体系』を考えている」という趣旨のことを述べています。つまり、これはあくまでも概念の「源泉」の批判ないし吟味であって、概念そのものの解明ではない、というのです。

 第5項・ヘーゲルの偉大さ

 この点でカントを弁護することは出来るのですが、もう一歩突っ込んで考えてみますと、それではカントはなぜ「批判」と「体系」とを分けたのか、そもそもこの両者は分けることが出来るのか、という問題が出てくるのです。そして、ヘーゲルの言いたかったことはまさにこの点でして、ヘーゲルは、概念の吟味はその概念の生成の必然性を示すこと、つまり源泉の吟味と切り離せない、と考えたのです。ヘーゲルは概念を an und fuer sich (アン・ウント・フューア・ジッヒ)に検討すると言っていますが、その an sich(アン・ジッヒ)な検討とはその概念の生成の必然性の吟味であり、fuer sich (フュア・ジッヒ)な検討とは、その他の概念との関係の検討によってその概念の意味を確立することであり、かくして、その概念の限界に達して他の概念に席を譲ることの吟味でした。

 このように、ヘーゲルのカント批判は深い意味で捉えなければならないのでして、この批判が正しかったことは、カントが結局、『純粋理性の体系』を書けなかったことによく現れています。

 第6項・カントの功績

 このようにヘーゲルを見た眼でカントを読むと物足りなさを感じますが、カントの置かれた哲学史上の時点でカントを考えますと、やはりカントは偉大だったと思います。そもそも、それまでの形式論理学に対して、その内容も含めた論理学というものを主張し、それをともかく先験的論理学としてまとめたことだけでも、やはり大きな功績と言えるのではないでしょうか。

 第7項・構想力と判断力

 最後に、構想力と判断力の関係ですが、私にはこれはよく分かりません。判断力の問題は第三批判の主要テーマですが、ここでの判断力は、「規則〔普遍〕のもとに〔個別的事例を〕包摂する能力」と定義されています(B版117頁)。形像を生むのはもちろん、図式を作るのも構想力のようですが、その構想力によって作られた図式を使って、与えられた個別的事例をどの図式のもとに包摂するのかを考えるのが、判断力なのでしょう。ですから、○○さんも言いましたように、この判断力は「英雄やーい」(『生活の中の哲学』に所収)の中でまとめた「個別的判断能力」のことでしょう。

 もちろん判断能力の問題はとても大切な問題で、私も「人を見る眼」(『生活の中の哲学』に所収)の中にまとめてみましたが、あのように判断能力を体系化して理解してみることは大切ですが、一番大切なことは我々が自分の判断能力を高めることであり、そのための方法は何かないのか、ということです。B版の137頁には、実例が判断力を鋭利にするというような面白い話が出ていますが、カントによると、実例は理論的能力の発展にはむしろマイナスだということになるようです。

 人を見る眼というものについて考えてみても、ある程度人生経験を積んでいろいろな人と付き合ってみなければ、判断能力は高まりませんが、付き合う人の数が増えれば増えるだけ人を見る眼が肥えていくかというと、事はそう単純ではないと思います。

 又、後の方の「実例は理論的能力にはマイナスだ」という説も、実証主義的な考えを排するという点では正しい面を持っていますが、こう一面的にも言い切れないと思います。やはりここでも、我々が期待しているものは与えられないわけです。まあ、結局、判断能力を高める特効薬なんてものは、無いのではないでしょうか。

 (『鶏鳴』第20、21号から転載)

 (注) 文中で引用されたテキストはカントの『純粋理性批判』です。