マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

学生ボランティアに単位?

2011年07月09日 | タ行
 学生ボランティアに単位を与えて、ボランティアをする人を増やそうという考えがあるようです。慶応大学の堀茂樹さんの下記の見識に感心しました。特に、「大学は、社会で当たり前とされていることも根元から問い直し、いわば外から提言や批判をすることで、社会に貢献するのです」という言葉には感銘を受けました。これを実行している大学人がどれだけいるでしょうか。

     大学とは何か

               堀 茂樹(慶応大学教授)

 3・11を機に、日本は共生のあり方を根本から考え直すべきだと思っています。それぞれが本来の役割、機能をまともに果たすべきだと。総理大臣には総理大臣らしくしてほしいし、大学も本来の機能を果たす。それが多元的で強い社会につながる。結果ばかり追い求める近視眼的な帰結主義や、安直な功利主義的な考えが今は多すぎると思います。

 大学はあくまで学問に触れ、知的教育を通して人格形成をする場所。知的成果に対して、それを認定、評価し、単位を出す。一方、ボランティアは本来、無償で自主的に公的利益に貢献する。それに単位というごほうびをつけるのは、逆にボランティアを軽く見て、馬鹿にしてるんじゃないでしょうか。

 ボランティアのかたちでフィールドワークに取り組み、研究して成果を出すなら別ですが、行けば単位が出るというのであれば、ボランティアも大学もともに姿をゆがめて、何もかもうやむやにしてしまいます。

 若者がボランティアで成長するということは、否定しません。でも、それを評価するのは大学の任務ではない。東北で若者がヘドロ撤去にがんばっているという話には胸が熱くなります。ボランティアが必要ならやりやすい環境をつくればいい。

 大学への管理を強めている文科省が、被災地にボランティアが足りないからといって、大学の単位の本来的ではない使い方を教唆するようなことをいうのは、見当違い。ボランティアが足りないなら、別の枠組みで正面から、本腰を入れて考えるべきです。極端な話、今は国家的な危機で若い力が必要だというなら、半年間、全国の大学を閉め、学生ボランティアを募るとか。「ボランティアに単位」のように、ちまちまと姑息なやり方はやめよう。

 「大学を社会に開く」というのが、もし大学と社会をシームレス(境目なし)につなぐことであるとすれば、納得しかねます。「象牙の塔にこもれ」と言うわけではないですよ。大学は、社会で当たり前とされていることも根元から問い直し、いわば外から提言や批判をすることで、社会に貢献するのです。人文系の場合は特に、すぐに役に立たないことが多い。ぜいたくな場所なんです、大学は。

 でも、それをやらせておくのが文明社会。産官学の協力に反対はしませんが、意義あるものにするには、大学が企業や社会と一体化しちゃダメなんです。

 それに、通知のせいで「三流大学で遊んでいるやつは、ボランティアに行け」みたいな声も出ているようですよ。しょせん、文科省のおじさんたちが考えたように都合よくいかなくて、かえってボランティアの価値を落とす弊害も生じています。

 (朝日、2011年06月10日。聞き手・久田貴志子)