マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

座禅

2010年02月20日 | サ行
 NHKアーカイヴスで「永平寺──修行の四季」というのが再放送されました。前にも見たのですが、大部分忘れていました。

 私も座禅のまねごとをしたことがあるのですが、その経験の感想を書きたいと思いました。永平寺の遣り方と違う点を中心にして。物言わぬは腹くくるる業なれば。

 1、私の通ったのは、曹洞宗ではなく臨済宗系の在家仏教団体の座禅会でした。毎週、木曜日の夕方から2時間くらいだったと思います。月に1回の座禅会という看板みたいなのを見かけますが、やるいじょうは週1くらいにしないと「修行」にはならないでしょう。

 2、座禅は壁に向かって座るのではなく、中に向かって座りました。つまり、部屋の前方中央に指導者みたいな人が座って、我々はその左右に互いに向き合うように座りました。コの字型、とでも言うのかな。

 座布団1枚の上に2つに折った座布団を置いて、そこに腰を下ろして、膝は畳の上に置くと、自然に軽い前かがみになります。前方約1メートルの所に視線が落ちます。するとちょうど半眼になります。

 3、1回の座禅の長さは「1本の線香が燃え尽きるまで」であるのはTVの永平寺の場合と同じですが、我々の「一柱香」(いっちゅうこう)は45分でした(永平寺は40分と言っていました)。10分間くらいの休憩をはさんで、それを2回座りました。

 私は結跏趺坐(けっかふざ)しかやりたくなかったのですが、それを45分間やると、10分や15分では元に戻らない位痛くなるので、1回で止めて帰ることにしました。

 4、我々のは「数息観」(すうそくかん)と言って1から100まで数を数えるのです。しかし、雑念が入って途中で数を忘れますので、そうすると又1から数え直します。

 偉い僧侶は45分間で丁度300まで数えると言っていました。私は1度だけですが、1度も途中で数を忘れないで、ずっと通して数え切ることが出来ました。その時は450まで数えました。100までを4回と50までを1回、ということです。

 推測ですが、途中で雑念が入ってしまうのは姿勢に関係があると思いました。姿勢が決まっていると雑念が入りにくいようです。

 6、私は正月に一念発起して通い始めたのですが、最初の日は冬ですからもちろん寒かったです。着て行ったコートを脱いで、名前を書いて、待ちました。控室には暖房がありませんでした。「もちろん座る所には暖房があるだろうな」と思いました。が、ありませんでした。

 しかし、しかし、しかし、です。座っている間は全然寒くありませんでした。コートを着て、駅に向かって帰途に就いた途端にガタガタ震え出しました。これはその後、毎回同じでした。暖かい季節になるまで。

 私は冷え症で、冬には指先がとても冷たくなって困るのですが、或る時、自分の家で自分で座ってみました。そうしたら、指先まで血が通って暖かくなりました。不思議な気持ちでした。

 それなのにその後、1度もそれをしていません。今年も指先が冷たくて、お湯を入れた大きな湯呑み(鮨屋用のもの)を持って指を暖めています。それなのに座禅をしていません。反省しています。

 7、警策(きょうさく)でたたくということがあります。座禅の映像では大抵出てきます。問題は、何を目的にたたくのか、です。NHKで出てきた永平寺の座禅では「姿勢を正す」ことが目的のようでした。

 我々のところではそうではなく、「肩が凝ったのを直す」ためでした。従って、我々の場合は、本人が希望した場合だけ、「たたいてもらう」のです。指導者(正式の名前は忘れました)が、始めて20分くらい経つと、そばに立てかけてある警策を持って皆の前をゆっくりと歩くのです。たたいてほしい人は、指導者が自分の前に来た時に合掌するのです。そして、上体を前に倒して、たたいてもらう姿勢を取るのです。私は、1度も希望したことはありません。

 しかし、とても面白い経験をしました。その指導者は決まっているのですが、在家ですから、仕事を持っています。用事で来れない時があります。すると、他の人が代わって指導者の席に座り、時間がくれば立ちあがって警策を取って廻ってきます。その時、本当の指導者の場合は、何も感じないのに、リリーフの人の時は「怖い」という感じがするのです。

 なぜかと言いますと、その人には「人を裁こう」という気持ちがあるからだと思いました。それがこちらに伝わってしまうのです。

 8、夏の座禅には独特の楽しさがあると思いました。途中で蚊が飛んでくるのは困りますが、夕立があったり、蝉の声が聞こえたりとか、外の音がとてもよく聞こえて楽しいものでした。