マキペディア(発行人・牧野紀之)

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イタリアの教養教育

2009年07月18日 | カ行
 ピサ。斜塔で知られる小さな街は、濃霧の中で、知の怪人たちの魂がふわふわと漂っているようだった。

 ゲラルデスカ宮殿。14世紀に詩人ダンテが「神曲」の地獄篇で、宮殿内の塔に幽閉されたウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ伯爵が飢えのため、息子たちの遺体を食べた、と描いた。れんが造りの塔は16世紀、ダピンチなどの美術家列伝でも知られる建築家バザーリが外から見えないように改築した。同じころ、後に地動説を唱えて宗教裁判にかけられたガリレオが、この街で生を受けている。

 宮殿はいま、イタリア随一の国立大学「スクオーラ・ノルマーレ・スーペリオーレ」の図書館になっている。ノルマーレは、北イタリアを支配していたナポレオンの命で1810年に創設され、いまも全国から選(え)りすぐりの秀才たちが学ぶ。毎年、各地の高校が推薦する千数百人の優等生が選抜試験に臨むが、合格できるのは60人に満たない。

 歴史が刻まれた狭き門をくぐり抜けた学生には、「ノルマリスタ」という特別な呼称が与えられる代わりに、5年間の徹底的なエリート教育が待っている。全寮制の寄宿費や学費はもちろん、1日3回の食費や教科書代も全額免除。毎月の小遣いまで支給される恵まれた環境だが、その勉学ぶりはすさまじい。

 理学部3年生、デイエゴ・スカラベッリ(21)の1日を追ってみた。

8:00──起床。学生寮での朝食後、自転車でピサ大学へ。
8:30~10:00──物質構造
10:00~12:00──量子力学
12:00~13:00──数学ⅡB
13:20~13:40──寮のジムで軽く運動。高校時代は陸上400メートル障害の選手だった。
13:50~14:30──ノルマーレの学食で同級生と昼食。パスタや煮込みなどをかき込む。ピサ大学の食堂も、利用できるが、「2.5ユーロ(約290円)かかるから、だいたいこっちに来る」。
14:30~16:30──生物医学的分析のための技術
16:30~17:00──自習
17:00~19:00──物理学のラボで実験。「理論より実践的な物理が好きなので、楽しい」
19:30~20: 30──夕食
21:00~01:00──自習

 授業と自習で1日12時間以上も勉強している。楽しみは陸上とギターの練習だという。「今はとても恵まれた環境なので、将来は何かで社会に貢献してお返ししたい」と夢を語った。

 欧州では最近まで、高等教育がごく一部のエリートや研究者を目指す学生に限られていた。 ところが、経済協力開発機構(OECD)の2008年版調査結果によると、英国やドイツなど欧州9ヵ国の平均大学進学率は、この10年余りで3割台から5割以上へと飛躍的に伸びた。

 大学の大衆化が歓迎される一方で、長い歴史を持つ欧州の教養教育が揺らぐのでは、就職向けの実利的な教育が優先されるのではないか、と懸念する声もある。しかし、ロンドン大学教育研究所のロナルド・バーネット教授は「欧州では哲学など人文系の学生数が増えている。最近はMBA(経営学修士)課程でも社会学的なカリキュラムが組まれており、教養教育の重みは変わるまい」とみる。

 ローマ大学のロベルト・アントネッリ人文学部長も「欧州の大学は、エリート研究者向けと就職向けに二層化したが、教養教育は前者に引き継がれる。大きな変化はない」と話した。

 時代の波に洗われてきた欧州でも、「変わらない」大学の代表格が、イタリア中部ピサのスクオーラ・ノルマーレスーペリオーレだ。

 学生は全員、日中は近くにある別の名門・ピサ大学で授業を受けなければならず、事実上二つの大学に通う勉強漬けの日々だ。日本の学士課程にあたる3年間を終えると、2年間の修士課程に進む。5年間を通じて毎年論文を出すほか、筆記と口頭の進級試験がある。文学部5年生のアレッサンドラ・ザルコーネ(23)は「これだけ勉強すると、自分が本当に何を学びたいのか、はっきりわかる。教授たちは最新の研究成果をどんどん教えてくれる」と目を輝かせた。

 冬の短い日がとっぷりと暮れた午後6時すぎ、コートの襟を立てた16人の3年生たちがノルマーレの教室に入ってきた。あいさつもなく黒板に複雑な数式を書き始めたのは、幾何学のウンベルト・ザンニエル教授。ささやくように説明した後で「わかったか?」と短く確認し、どんどん先へ進む。

 「学生の3分の2は学者の道を進み、残りはIT業界などに就職する。ここでの経験がどこでも生きるように学問をたたき込むのが私の役目だ」。淡々と話す教授に「ノルマリスタに必要な素地は何か」と記者(郷)が尋ねると、意外な答えが返ってきた。

 「ラテン語ができることだね」。

 理系でラテン語? 思わず聞き返すと、教授はきっばりと言った。「ラテン語の論理構造は幾何学的だ。だから、数学にも非常に役立つ」。

 「確かにラテン語は、どの分野の学問にとっても大切だ。それに加えてギリシャ語も、ひいてはリベラルアーツ、教養全般が必要だと私は信じている」。ノルマーレの薄暗い古文書室で、サルバトーレ・セッティス学長は力説した。

 学長の言う「教養」には、いわゆる3学(文学、修辞、論理)・4科(算術、幾何、天文、音楽)の自由7科だけでなく、哲学などの人文科目全般が含まれる。

 「現代では生物や物理なども必要な学科だ。でも、学問とはそもそも調べ、探求し、書くこと。疑問を感じ、批判できる創造性を作るのが大学で、それに欠かせないのが教養だ」。

 ノーベル賞学者や政治家が輩出したノルマーレ。現代の代表的ノルマリスタが、伊中央銀行稔裁や大統領を務めたカルロ・アゼリオ・チャンピ(88)だ。思慮深さと公平さで、国民的人気がある。

 学長は、大統領時代にチャンピがノルマーレを訪問した際の話を披露した。「あなたは文学を勉強したのになぜ中央銀行に勤めたのか。ギリシャ文学と金融は関係ないのでは」と学生から問われたチャンピは一言、「どちらも同じだよ」と答えたという。

 「仕事が何かに関係なく、一番大切なことがある。しっかりした学問の土台に高いレベルの知識を積み上げ、批判的精神で物事に挑めるよう、ここで教養を身につけなさい。チャンピはそう言いたかったのではないか」。

 中部の高校で30年以上、ラテン語を教えるドナテッラ・ビニョーラ教諭によると、ラテン語は名詞や動詞が非常に複雑に変化し、配置が自由なので、図形問題で補助線を引くのに似た思考方法が必要になってくるという。

 「論理的に考えるようになるので、自己表現力やコミュニケーション能力が高まる。理系学生も学んでおいて絶対に損はありません」。

 イタリアの教養教育は、14歳から5年間の高校教育が支えている。

 高校は、主に就職向けの技術・職業高校と、大学進学向けに教養中心のカリキュラムを組む「リチェオ」の2種類に分かれる。1990年代までは、技術・職業高校への進学率が、リチェオを上回っていた。しかし、ローマ第3大学のベネデット・ベルテッキ教授(教育学)によると、2006年の高校進学率では、技術・職業高枚が10年前の45%から34%に減り、リチェオが25%から40%に増えて逆転した。

 「イタリアでは教養を学びたいという生徒が増えている。テロや経済低迷で将来への不安が増し、教養という土台を固めるのが安全策だと思われているのでは」とベルデッキはみる。

 3人の子どもがリチェオに通うローマの精神科医、アントニオ・オノフリ(49)は、「教養の源であるローマ、ギリシャ時代からの学問を深めることは、子どもたちにとって生きていくための基礎にもなる」と話した。

 イタリアでこれほど教養が重んじられるのには、何か歴史的な背景があるのだろうか。ベルデッキに尋ねると、「近代的なリベラルアーツ教育はイタリア人が始めたから、思い入れが強い」という。創始者の名は、ビットリーノ・ダ・フェルトレ。ただ、本人の著作などはほとんど残されていない。

 「教養」の魅力とは何なのか。リベラルアーツ教育創始の地へ行けば、何か分かるかもしれない。北部マントバヘ向かった。

 北イタリア・ルネサンスの中心だったマントバにはかつて、強力な貴族のゴンザーガ家がいた。16~17世紀には、フィレンツェのメディチ家と婚姻関係も結んでいる。ベネチア近郊に生まれ、パドバ大学で文法や哲学などを学んだフェルトレを1423年、この地に招いたのもゴンザーガ家だった。

 一家が暮らした宮殿で最も有名なのが、「結婚の間」の壁画だ。華やかな貴族らの後方で、黒い帽子と服でうつむく白髪男性がフェルトレだといわれる。一番広い「鏡の間」には、その名も「リベラルアーツ」という壁画があった。コンパスや地球儀、楽器などを持つ女神に自由7科が象徴されており、教養教育に熱心だった家風がうかがえる。

 フェルトレは「心・体・道徳が調和したリベラルアーツ教育」を掲げた。宮殿の隣に寄宿学校「喜びの家」を開き、ゴンザーガ家の子弟以外に庶民の生徒も一緒に暮らした。現在は博物館になっているが、建物は昔のままで、回廊や大きな窓に明るい光が差し込む。開放的な雰囲気だったようだ。

 フェルトレが没した後、弟子たちによって学校は続き、さらにイエズス会が別の場所に大学を作ったという説がある。足跡を探して歩くうち、「『喜びの家』を受け継いだリチェオが今も残っている」と聞いて訪ねてみた。

 ビルジリオ古典高校。ジュゼッペ・モンテッキオ校長(66)は「人文教育による人格形成を重んじる我が校こそが、フェルトレ教育の後継」と胸を張った。「教養教育とは、『人間とは何か』を考えさせ、解放された精神を培うものだ。中世までの教育は、カトリックの道徳観に基づいていた。フェルトレの偉大さは、自由な精神で人間形成そのものに力を入れたことだ」。

 5年生の教室では19人の生徒を前に、フランコ・ネグリ教諭が、古代ローマの政治家・詩人のセネカ著「人生の短さについて」を教えていた。

 「ここの引用は、ヒポクラテスやアリストテレスからだね」「ほかにこういう表現をした人は?」「ソクラテスは『無知の知』が大事と言っている。何がわからないのかを知るように」。てきぱきと授業を進めていく。

 古代ローマの政治家キケロなどとと比較しながら、修辞法や対句法を説明する語り口は面白くて飽きない。あっという間に2時間の授業が終わった。

 (朝日新聞グローブ、2009年01月26日。郷富佐子)

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