マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

知事選の争点(その9、介護問題)

2009年05月07日 | カ行
 介護問題については、根本的には、医師不足対策と同じだと思います。つまり、介護を必要とする人の力を高めて、その介護必要度を下げるのが「主」で、介護者の問題は「従」だということです。予防は治療に勝る。

 しかし、「従」である介護者の問題も大問題ですから、先に述べます。そこで問題になっていることは、介護職員の数が絶対的に不足していることと、その最大の原因が待遇の劣悪さであることです。

 これは広く知られていますし、対策も徐々に取られているようですが、それを考えるための大前提である情報公開が不十分だと思います。つまり、介護者の労働時間と給料(年間の実際の全収入)を、それぞれの組織ごとに発表するべきです。

 同時に、介護者と比較してよいと思われる公務員、勤務医師、看護師、更に学校教師についても、鹿児島県阿久根市のような形で発表するべきだと思います。こうして初めて、それぞれの給料はどの程度が適正かを議論できるようになると思います。

 さて、「主」たる問題の要介護者の力の向上ですが、これも人によって違い、全体として、裕福な人は強く、それ以外の人は弱い、と思います。そこで、後者を念頭において対策を提案します。

 一般的に言って、個人の自立力を高めるものは、主として、自分の仕事が評価されて収入に結びつくことと、異性との良好な関係の2つでしょう。ですから、この2つを考えればいいと思います。

 前者の工夫で要介護者の力を高めていることで有名なのは、山口県の防府市のデイサービスセンター「夢のみずうみ村」だと思います。そこでは、職員が「してあげる」ことはなるべく少なくして、自立力を高めているそうです。建物の作りは「バリアフリー」ではなく「バリアアリー(有り)」だそうです。食事はバイキング方式で、危ないときだけ職員が助けるそうです。

 そして、障害を持った方でもそれを克服してかつての仕事が出来るように工夫をし、場合によっては村のサービスメニューを担当してバイト料をもらい、従業員になった人もいるそうです。又、自立して自営を再開した人もいるとか。

 ホスピスでも、互いに助け合い、手伝いあうようにしているところもあるそうです。介護関係の施設はこうあるべきだと思います。公的な施設はその模範を示すべきでしょう。

 もう1つの「異性との交わりでの喜び」も大切です。こういう事を公然と主張する人は少ないでしょうが、多くの人は気付いています。渡辺淳一はこれを小説「エ・アロール」で詳しく描きました。これはテレビドラマにもなったはずです。

 この小説の舞台は東京の銀座にある有料老人ホームですが、ここに出てくる人々は、経済的にも能力的にもとても恵まれた人たちです。ですから、何千万円もの金を払ってそこに入っているのです。そして、この小説の第1話は、デリヘル嬢とたわむれている最中に心臓発作か何かで死ぬ人の話です。

 私の言いたい事は、これらの人は自分でそのような風俗店を利用して「性の喜び」を享受し、「生きがい」をもって人生の最後を送っているのですが、自力ではそういう事の出来ない人々にも、施設の側の援助でそれが可能なようにするべきだ、ということです。

 もう一歩具体的に言いますと、施設の側で風俗店と協議して合意事項にまとめ、「普通の老人ホーム入居者」や「デイサービス利用者」でも、希望者には、性の喜びを味わえるようにするべきだ、ということです。「エ・アロール」では入居者達が自分で日活ロマンポルノの上映会を企画・実行する話が出てきますが、これ位の事も当然でしょう。それ以外でも、異性との様々な交わりを可能にする工夫をするべきです。

 こうした仕事や異性との関係で生きがいが大きくなれば、要介護度は下がると思います(老人ホームの風呂を西式温冷浴のできるようにするのは当然)。それが全体として1割下がっただけでも、介護のための予算は大いに助かるでしょう。

 もちろん、根本的には、仕事と生活とのバランスの取れた社会にすることでしょう。年金を充実させることも大切でしょう。が、それより前にも出来る政策として、こういう「生きがい」増進政策も意義があると思います。

 最後に、先日の群馬県の無認可施設「たまゆら」の火災で10人の高齢者が亡くなったことに触れます。これは、直接的には、小泉改革の一環で病院での「社会的入院」ができなくなったことが原因で、行き場、ないし行かせ場のなくなった行政が、こういう施設を利用せざるをえなくなったということでしょう。日本の福祉もここまで来たか、と暗澹たる思いです。

 これを解決するのは、元の社会的入院を復活させることではないでしょう。もう、根本的解決、つまり社会保障制度全体の組み換え以外にないと思います。

 そのためにも「全てを開示すること」です。今こそ「学問とは、個別的事実で満足するものではなく、全体的真実を追究するものである」ということの実行が求められていると思います。

コメント
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