マキペディア(発行人・牧野紀之)

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化学オリンピック

2009年03月09日 | カ行
        東大教授、渡辺 正

 今年(2008年)07月、ハンガリーで国際化学オリンピック(化学五輪)が開かれ、66ヵ国257人の生徒が出場した。日本からも4人の高校生が参加し、いずれも銅メダルをとった。

 日本は2010年に化学五輪を主催する。ノーベル化学賞受賞者の野依良治・理化学研究所理事長が組織委員長、私も実行委員長として準備を進めているところだ。各国4人以内の高校生が各5時間の実験試験と筆記試験に挑む。

 化学が得意な優等生による競争と軽視する人もいるがそれは違う。どんな分野も、ヒーロー・ヒロインがいるからこそ活性化し前へ進む。スポーツ界や芸能界のように、日本の基盤たる科学技術分野も例外ではない。

 代表生徒の総数は毎年4人でも五輪レベルの国内選抜に参加する生徒(2000人超)も間違いなく刺激を受ける。そんな若者の集団から、未来を開くスターが育つにちがいない。

 だが日本はこれまで化学五輪で大きく立ち遅れてきた。1968年から毎年開かれているのに、日本の初参加は2003年。他にも数学・物理・生物・情報の五輪があるが、日本が全科目に出場するようになったのは、わずか2年前のことだ。先進国としては例外的に遅れた。成績は上位1割に金、続く2割に銀、3割に銅メダルが与えられる。今年の参加者も立派な成績だったとはいえ、過去は2004年と2006年の金1人が最高。なかなか上位に食い込めないのはなぜか。そこには日本の化学教育の問題点がある。

 日本が立ち遅れた最大の理由は、日本と海外で、高校化学のカリキュラムに大差があったからだ。化学五輪の出題範囲には、「量子数とS・P・D軌道」「エントロピー」「ギブズエネルギー」などが含まれる。世界では「高校生なら知っているはず」とされるが、日本では大学1、2年で習う。高校の化学教育が国際標準から遅れ、大学につながらない「閉じた世界」になっている。

 逆に日本の高校の教科書に太字で書かれ、入試にも出る化学用語の「化合」や「イオン式」は日本の大学では使わない。

 私は、20年ほど教科書を執筆してきたが、先進国に類のない教科書検定が、「閉じた世界」の元凶とみる。教科書が雑知識の詰め込みになっているのだ。「指導要領」に頼り、わずかなはみ出しも許さない検定が、教科書を味気なくする。教科書制作側も唯々諾々と検定意見に従い、他社の本に合わさせて、貧弱な「金太郎飴」を作る。

 質の面でも日本は立ち遅れている。化学五輪は「星間物質の寿命」といった高級な物質・反応を扱いながら、「なぜ」を厳しく問うている。日本の生徒は苦しみつつ「閉じた世界」を脱し、思考力を問う本物の化学を身につけることを強いられる。

 実験試験も同じだ。日本の高校化学実験はメニューどおりに手を動かして決まった結果を出すものばかりだが、五輪ではどの器具をどんな順に使うべきか自分で考え、課題に向かう力が要求される。化学は暗記物でなく、論理的思考力を鍛える自然科学の1分野という考えが国際標準の高校化学にはある。

 化学五輪の日本開催を、化学(科学一般)の面白さと大切さのアピールとし、こうした惨状を文部科学省など関係者に気づいてもらい、改善に向けた議論・行動を促す絶好のチャンスとしたい。高校教育の近代化は理科の勉強を高校で終える国民の科学リテラシー(理解力)の向上にもつながるはずだ。

 (朝日、2008年10月16日)