マキペディア(発行人・牧野紀之)

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登呂遺跡

2009年02月28日 | タ行
 登呂遺跡って覚えてますか?

 終戦直後に発掘された弥生遺跡で、かつては教科書でもおなじみでしたが、その後、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)など、巨大遺跡の登場ですっかり影が薄くなりました。同遺跡の復権を目指す動きが地元・静岡市を中心に盛んです。再発掘も行われ、今まで考えられていたよりも遺跡の規模が大きく、存続期間も長いこともわかってきました。

 登呂は、静岡市の南部にある弥生時代後期(約2000~1800年前)の集落遺跡だ。第2次大戦中の1943年、軍需工場の建設中に発見され、戦争直後の1947~50年にかけて、発足したばかりの日本考古学協会などによって発掘調査が行われた。

 確認されたのは、住居12軒、倉庫3棟、約8㌶からなる大型水田の跡など。発掘に参加した大塚初重・明治大名誉教授は「調査していると、木製品、土器など、弥生人の暮らしの痕跡がそのままでてくる。ものすごいインパクトでした」と振り返る。

 「戦後、私たちはそれまで信じてきた神話中心の歴史を否定され、『何が本当なのか』と困惑していた。でも登呂の発掘によって、『これからは日本の歴史を自分たちの手で明らかにできるんだ』という手応えを得た。登呂は戦後日本に希望を与えてくれたんです」。

 それまで弥生の集落はほとんど見つかっていなかったことなどから、当時のムラの姿が見える遺跡としても注目を集めた。

 こうした評価は教科書にも反映される。1972年の『詳説日本史』(山川出版社)には、登呂遺跡が調査時の写真などと共に、見開きで掲載されている。

 かげりがみえたのは、1980年代以降。吉野ヶ里遺跡など、各地で数十㌶もある大規模な遺跡が次々と発掘された。

 「それまで登呂は弥生時代遺跡の代表格だったのですが、多様な遺跡が増えたことで、大多数の中の1つに格下げされてしまったんです」とある研究者。

 2008年の『詳説日本史』では、登呂遺跡は「弥生時代のおもな遺跡」という地図に、他の約30ヵ所と共に点で落とされているだけ。本文中に「登呂」という文字はどこにもない。遺跡を訪れる人も激減。一時、年30万人を超えた登呂博物館の来館者も3分の1以下になった。

 憂慮したのが、地元・静岡市だ。1994年に登呂遺跡の整備計画を策定すると同時に、博物館を大改修。さらに、1999年から遺跡の再発掘調査に着手した。2006年からは遺跡再整備も始まり、今年2008年07月には住居や倉庫など、5棟の新しい復元建物が完成。2010年秋には新博物館がオープンする予定だ。

 再発掘でわかったことは多い。まず、建物の建て替えが多いこと。7回も建て替えられた住居もあった。「建て替えることで、住居を大きくするといったこともあったようです」と、発掘した同市文化財課の岡村捗・副主幹。

 新たな建物跡も確認された。3.8㍍×7㍍の掘っ立て柱建物。両側に斜めの柱(棟持柱)があり、周囲に住居がないことなどから、祭殿と考えられている。

 遺跡の存続期間が予想以上に長かったことも判明した。洪水跡があったことなどから、「60年程度続き、洪水後に廃棄されたとみる意見が一般的だった」と岡村副主幹。だが、洪水後の建物が確認され、集落が再建されていたことがわかった。集落は1世紀中ごろ~2世紀末の3時期(約150年間)、水田は弥生ー古墳時代までの4時期に営まれた可能性が高いという。

 範囲も広がった。水田や居住区などを区切った溝が発見され、登呂の居住区は幅100㍍ほどの微高地にあって、東西に伸びていたことがわかった。以前確認された住居群は東にあたり、西とあわせて20軒ほどの集落を営んでいた可能性があるという。

 これらから考る限り、登呂の集落の規模は約2㌶で、約8の㌶の水田と合わせると、「小さなムラ」ではなく、弥生の集落としては中くらいの規模になると見られる。

 石川日出志・明示大学教授は、「弥生時代で、居住域と田んぼなどの耕地が一緒に把握できる遺跡は、実は登呂遺跡くらいしかない。戦後、古代史への国民的な関心が生まれるきっかけを作ったということにとどまらず、色々な意味で、今なお大切な遺跡なんです」と話している。

  〔朝日、2008年11月16日。宮代栄一)

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