新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

アメリカ市場に中国製のマスクが1セントで

2021-06-30 10:07:30 | コラム
また中国がやってくれたのか:

昨29日だったか、中国製のマスクが1セント/枚で売り出されて、アメリカの業者を深刻に痛めつけていると報じられていた。私は「中国は未だこんな事をやっているのか」と思った。

この報道で思い出させられたことがあった。それは21世紀に入ってからだったかと記憶するが、中国とインドネシアにある最新鋭の超大型マシンで生産された印刷紙が、アメリカ市場を安値攻勢で席巻した時のことだった。市場を奪われたアメリカの大手メーカーが商務省に「この安売りは中国政府の支援の下にある不当なダンピングであり、公正な商行為ではない」と訴えて出て「関税を賦課するよう」請願したのだった。

オバマ政権の下にあった商務省は早速詳細に調査し、中国政府が輸出には物品税を免除し、奨励金を出している事実を把握して「不当であり著しく公正さを欠いた輸出である」と断じて、100%を遙かに超える関税をかけてアメリカ市場から閉め出したのだった。中国からの輸入品に高率の関税をかけることは、何もトランプ政権が開始したことではなかった。

私はその商務省が問題としたインドネシアと中国の抄紙機は、超近代的な高性能の三菱重工製であり、その年間の生産能力を100とすれば、1960年代に導入されたアメリカの大手メーカーのマシンは精々50~60であり、その点だけを取ってもとても競争にはならなかったと承知していた。

私がその当時に感じたことは「そもそも、中国側のコストはアメリカのメーカとは桁違いに合理化されており、何もダンピング攻勢をかけるまでもなかったのではないか」だった。しかも、その新鋭マシンで生産される印刷紙の品質は、アメリカ(や我が国の)の小型で遅くて古い抄紙機の製品に優ることはあっても、劣ることがないと言って良い程の水準に達していたのだった。

私がこのマスク攻勢を知って直感したことは「その1セントマスクによる中国の攻勢は、あの当時の印刷用紙のダンピング問題と余りにも似ているではないか」だった。即ち、テレビの報道などに見る中国のマスク自動生産機を見れば、完全にデイジタル化されているようで、その生産能力は極めて高いようだった。それに加えて、もしも習近平政権が未だに税制面における優遇や輸出奨励金のような制度を堂々と続けていれば、1セントでも原価割れしていないかも知れないのではとすら感じている。

敢えて触れておくと、アメリカと我が国の欠点は「十分な利益が挙がらない等の色々と事情があって、生産設備の合理化と近代化の設備投資を怠っていたのである。一方の中国を筆頭とする北と東南アジア諸国の紙パルプメーカーは、後発なるが故に世界最新の超大型で完全にコンピュータ管理された抄紙機しか導入できないという事情に恵まれて、先進国をいとも易々と追い抜いてしまった」と言うことだ。

話を戻して、中国が安売りできるだろうと言う根拠は、ここ新宿区百人町の大久保通りに出てみれば解ることで、イスラム教徒向けのハラルフード販売店等の店頭には中国製のマスクが1箱50枚入りで、時には¥100円台半ばで売られていることもあり、昨29日には¥199も出ていた。これなどは1枚¥4にしかならなくて、その中には彼らの利益も輸入業者の手数料も、海上(航空?)運賃も含まれているのだ。

では、一体全体中国におけるギリギリの生産原価は幾らなのかということだ。もしくは、イスラム教徒たちが中国に後押しされて、赤字覚悟で我々日本人に奉仕しているのか。まさか!言い方は悪くなるが、事程左様にここ百人町界隈では、往年の「闇市」(と言って、現代の若者に理解されるだろうか)のような乱売合戦の様相を呈しているのは、きわめて遺憾なのだ。


6月29日 その2 「再び感染拡大の兆しが見えてきた」の訂正版

2021-06-29 10:04:02 | コラム
再再再度の感染拡大を阻止するために:

私なりの結論から言えば「感染拡大の阻止は非常に難しいのではないか」となる。だが、仮令、またもや拡大しても、その数は先進工業国の中では群を抜いて少ないのだ。それでも、オリンピックが目前に迫って各国の選手団の入国が始まった現時点では、遺憾ながら我が親愛なるマスコミが騒ぎ立てる格好の材料になってしまっているのだ。

しかも、既に指摘したように、東京都で緊急事態宣言が解除されるや否や感染が再拡大するという「緊急事態宣言」に効果があったと立証されてしまっている。それかあらぬか、失態続きの厚労省の田村大臣は「宣言を発するかも」と仰せになったのだ。

私が「難しいのではない」と思う理由を挙げてみよう。その前に、菅首相の「大規模で速やかなるワクチン接種の方針は立派に軌道に乗っていることは紛れもない事実である」と、マスコミが何と雑音を立てようとも、認めておかねばならないと思う。

私の考えは「飲むために飲む文化」、「若者の意識改革」、「人の流れを食い止める」の3点である。

飲むために飲む文化:
第一は「公共交通機関が発達し、それに日常的に依存している勤め人その他が非常に多い以上、家を離れた場所で勤務先からの帰宅の途中などに『一寸一杯』を楽しんでいる人たちの行動を阻止するのは至難の業ではないか」という点を挙げたい。しかも、その人たちを対象にした大・中・小の外飲食業者が、日本中何処に行っても無数にあることを無視できないのだ。しかも、その業者たちを為政者たちが「感染源」と判定して、色々と規制をかける手法に打って出たのだ。

私は恐らく、もう少なくとも50年は自分の小遣いから投資してバーだろうと居酒屋だろうと、単独で飲みに出掛けたことがないような極端な下戸なのだ。だが、俗に言う「アフター・ファイブ」に「一寸軽く一杯」という人たちの気持ちは十分に理解しているつもりだ。私は「その一杯を気の合った仲間たちと楽しんだ後で、終電車を利用して終点まで寝過ごしてしまっても、特に非難されないという習慣」は我が国独自の文化であり、アメリカやヨーロッパの諸国とは大きく異なっている風俗、即ち文化だと認識している。

その文化が重大な感染源であるからと、外飲食業者に時間短縮や酒類の提供の自粛を要請する手法もありかと思う。しかし、「一寸一杯組」の賛同は先ず得られまいと思っていた。だが、現実には「緊急事態宣言」のどの点が功を奏していたのか知らないが、解除した途端に再度感染拡大の兆しが見えてきて、宣言の効果は証明されたと思えるのだった。それかあらぬか、外飲業者とその関係先を救済すべき給付金の禁止的に近いと非難されている手続きと振り込みの遅延があって、一部の業者たちは「もう待っていられない」と決起してしまった。

私にはこの昨日や今日始まった訳ではない「一寸一杯」の文化を根絶やしにして、ウイルスを退治しようという政策が、一朝一夕に効果を発揮するとは思えないので、先行きには悲観的である。「何も小遣いを投じてまでも外で飲まないで、家に帰ってから飲めば良いじゃないか」という人もいるが、それは通用しないだろう。彼らは「飲むために飲んでいる」のだから。

アメリカ人の社会で経験した「食事の味を良くして食事を楽しむために食前に飲み、仕上げのカクテルを」という文化と根本的に違うのだから。であれば、橋下徹氏ではないが、休業して貰う外飲業界の救済のための補償金の予算処置以外の手段はないのではないか。

若者の意識改革を:
彼らは旧来の習慣を無視するとか、新たな文化を樹立するとか、既成の秩序を破壊するとかというような行為に、生き甲斐を見出す傾向があるのではないかと、私は考えている。「若気の至り」などは本当は恥ずべき事なのだが、彼らは「若いうちの恥はかきすて」くらいに考えているのではないかと疑っている。であるから、無秩序・無定見に盛り場に出て行こうとするし、路上での飲食のような恥知らずの行動に出るのではないか。これは絶対に辞めさせるべきだし、厳罰があっても良いかと思う。

私は事態がこれ以上悪化する前に「要請」ではなく、法的な規制をかける以外に彼らを押し止める手法はないとすら考えている。思うに、彼らはマスコミが流した「青少年期にある者たちは。仮令感染しても軽症で済むか、無症状に終わる」というニュースに飛び付いて、COVID-19を甘く見ているのは間違いないと言いたくなる。街中で飲んだくれている連中の中に大学生が数多くいるのならば、これもまた問題だと思う。彼らは若さをそういう形で誇示するのではなく、彼らの本分である勉強に時間を投入すべきだ。

人の流れを食い止めよう:
夜中まで街に出ているのは若者たちだけではないようだ。これを食い止めようと思えば、諸外国のように都市封鎖しかないとは思う。だが、そこまでにこの手法を採った先進国では決して成功し続けていた訳ではなかったのも事実だ。我が国では橋下徹氏が非難し続けているように、私権制限までに至っていない特措法では抑えきれないし、何かと言えば「私権制限云々」が出てくる脳天気さを排除したい思いだ。

私は「要請」だけで乗り切れないとハッキリしてきてしまった以上、残された手段は総理大臣が国民に「国家の未曾有の危機を脱し、国民の皆様の幸福と平和と安全を維持するために、皆でもう一息苦しさに耐えて、(例えばだが)後1ヶ月自分たちの為にも、夜間の外での飲食を控える自粛生活に耐えて頂きたい。飲食業者には可及的速やかに休業保証金を給付するよう財務当局に厳命するつもりだ。何卒宜しくご理解を」と、大音声で流してご覧になったら如何かと考えて見た。

私は菅首相の語り口には「迸るような情熱が感じられない恨みがあった」と思うから言うのだ。そんなことで済むかと言われる向きは多いと思う。だが、何時までも西村康稔大臣や田村憲久厚労相や尾身茂分科会長を前面に出しているべきではなく、総理大臣自らが「俺に付いてこい」というような、気迫溢れる語りかけをして貰いたいのだ。そんなことが可能かどうか知らないが、ドナルド・トランプ氏は「アメリカを取り返す」と獅子吼して、支持者たちの拍手喝采を受けていたではないか。

再び感染拡大の兆しが見えてきた

2021-06-29 09:55:20 | コラム
再再再度の感染拡大を阻止するために:

私なりの結論から言えば「感染拡大の阻止は非常に難しいのではないか」となる。だが、仮令、またもや拡大しても、その数は先進工業国の中では群を抜いて少ないのだ。それでも、オリンピックが目前に迫って各国の選手団の入国が始まった現時点では、遺憾ながら我が親愛なるマスコミが騒ぎ立てる格好の材料になってしまっているのだ。

しかも、既に指摘したように、東京都で緊急事態宣言が解除されるや否や感染が再拡大するという「緊急事態宣言」に効果があったと立証されてしまっている。それかあらぬか、失態続きの厚労省の田村大臣は「宣言を発するかも」と仰せになったのだ。

私が「難しいのではない」と思う理由を挙げてみよう。その前に、菅首相の「大規模で速やかなるワクチン接種の方針は立派に軌道に乗っていることは紛れもない事実である」と、マスコミが何と雑音を立てようとも、認めておかねばならないと思う。

私の考えは「飲むために飲む文化」、「若者の意識改革」、「人の流れを食い止める」の3点である。

飲むために飲む文化:
第一は「公共交通機関が発達し、それに日常的に依存している勤め人その他が非常に多い以上、家を離れた場所で勤務先からの帰宅の途中などに『一寸一杯』を楽しんでいる人たちの行動を阻止するのは至難の業ではないか」という点を挙げたい。しかも、その人たちを対象にした大・中・小の外飲食業者が、日本中何処に行っても無数にあることを無視できないのだ。しかも、その業者たちを為政者たちが「感染源」と判定して、色々と規制をかける手法に打って出たのだ。

私は恐らく、もう少なくとも50年は自分の小遣いから投資してバーだろうと居酒屋だろうと、単独で飲みに出掛けたことがないような極端な下戸なのだ。だが、俗に言う「アフター・ファイブ」に「一寸軽く一杯」という人たちの気持ちは十分に理解しているつもりだ。私は「その一杯を気の合った仲間たちと楽しんだ後で、終電車を利用して終点まで寝過ごしてしまっても、特に非難されないという習慣」は我が国独自の文化であり、アメリカやヨーロッパの諸国とは大きく異なっている風俗、即ち文化だと認識している。

その文化が重大な感染源であるからと、外飲食業者に時間短縮や酒類の提供の自粛を要請する手法もありかと思う。しかし、「一寸一杯組」の賛同は先ず得られまいと思っていた。だが、現実には「緊急事態宣言」のどの点が功を奏していたのか知らないが、解除した途端に再度感染拡大の兆しが見えてきて、宣言の効果は証明されたと思えるのだった。それかあらぬか、外飲業者とその関係先を救済すべき給付金の禁止的に近いと非難されている手続きと振り込みの遅延があって、一部の業者たちは「もう待っていられない」と決起してしまった。

私にはこの昨日や今日始まった訳ではない「一寸一杯」の文化を根絶やしにして、ウイルスを退治しようという政策が、一朝一夕に効果を発揮するとは思えないので、先行きには悲観的である。「何も小遣いを投じてまでも外で飲まないで、家に帰ってから飲めば良いじゃないか」という人もいるが、それは通用しないだろう。彼らは「飲むために飲んでいる」のだから。

アメリカ人の社会で経験した「髱ものの味を良くして食事を楽しむために食前に飲み、仕上げのカクテルを」という文化と根本的に違うのだから。であれば、橋下徹氏ではないが、休業して貰う外飲業界の救済のための補償金の予算処置以外の手段はないのではないか。

若者の意識改革を:
彼らは旧来の習慣を無視するとか、新たな文化を樹立するとか、既成の秩序を破壊するとかというような行為に、生き甲斐を見出す傾向があるのではないかと、私は考えている。「若気の至り」などは本当は恥ずべき事なのだが、彼らは「若いうちの恥はかきすて」くらいに考えているのではないかと疑っている。であるから、無秩序・無定見に盛り場に出て行こうとするし、路上での飲食のような恥知らずの行動に出るのではないか。これは絶対に辞めさせるべきだし、厳罰があっても良いかと思う。

私は事態がこれ以上悪化する前に「要請」ではなく、法的な規制をかける以外に彼らを押し止める手法はないとすら考えている。思うに、彼らはマスコミが流した「青少年期にある者たちは。仮令感染しても軽症で済むか、無症状に終わる」というニュースに飛び付いて、COVID-19を甘く見ているのは間違いないと言いたくなる。街中で飲んだくれている連中の中に大学生が数多くいるのならば、これもまた問題だと思う。彼らは若さをそういう形で誇示するのではなく、彼らの本分である勉強に時間を投入すべきだ。

人の流れを食い止めよう:
夜中まで街に出ているのは若者たちだけではないようだ。これを食い止めようと思えば、諸外国のように都市封鎖しかないとは思う。だが、そこまでにこの手法を採った先進国では決して成功し続けていた訳ではなかったのも事実だ。我が国では橋下徹氏が非難し続けているように、私権制限までに至っていない特措法では抑えきれないし、何かと言えば「私権制限云々」が出てくる脳天気さを排除したい思いだ。

私は「要請」だけで乗り切れないとハッキリしてきてしまった以上、残された手段は総理大臣が国民に「国家の未曾有の危機を脱し、国民の皆様の幸福と平和と安全を維持するために、皆でもう一息苦しさに耐えて、(例えばだが)後1ヶ月自分たちの為にも、夜間の外での飲食を控える自粛生活に耐えて頂きたい。飲食業者には可及的速やかに休業保証金を給付するよう財務当局に厳命するつもりだ。何卒宜しくご理解を」と、大音声で流してご覧になったら如何かと考えて見た。

私は菅首相の語り口には「迸るような情熱が感じられない恨みがあった」と思うから言うのだ。そんなことで済むかと言われる向きは多いと思う。だが、何時までも西村康稔大臣や田村憲久厚労相や尾身茂分科会長を前面に出しているべきではなく、総理大臣自らが「俺に付いてこい」というような、気迫溢れる語りかけをして貰いたいのだ。そんなことが可能かどうか知らないが、ドナルド・トランプ氏は「アメリカを取り返す」と獅子吼して、支持者たちの拍手喝采を受けていたではないか。

6月28日 その2 我が国とアメリカとの思考体系の相違点を考える

2021-06-28 16:30:55 | コラム
我が国とアメリカとの文化と物の考え方を比較すれば:

この事については、これまでに色々な形で取り上げてきた。だが、今回は先ほど空港における水際作戦においても現れた、我が国とアメリカとの思考体系の違いを取り上げたので、ここにより多くの例を挙げて、相違点を語ることで、なるべく多くの方々に理解して頂ければ良いがと考えた。確認しておくと、飽くまで相違があることを指摘したいだけで、両国間の優劣を論じているつもりはない。同時に、我々はアメリカという異文化の國と同盟関係にあり、世界のどの國よりもアメリカと親しい間柄にあることを忘れてはならないのだ。

*数量値引き契約を結ぼうではないか:
勿論、私の在職中の出来事。副社長とその時点では未だ発展途上であり、非常に意欲的な取引先に“incentive”を与えて一層奮起して貰おうと「数量値引き契約」を提案しようとしたときのことだった。副社長と「どのような値引きする数量の段階を設定するか」を打ち合わせた。私は「現状を100とした場合に、120と130くらいの段階を設定して150を限度としたい」と発議した。その案は副社長に一蹴され「300を最高到達点として、そこに至るまでの幾つかの段階を設けよう」と切り返された。

私は「300という最高到達点は余りにも現実離れしている」と否定してみた。ところが、彼は「では尋ねるが、もしも150を限度としておいて、300に達したらどうするのか。契約条項にないから値引きは出来ないと言えるのか」と切り込まれたのだった。何を言い出すのかと、些か毒気を抜かれた思いだった。

そして、副社長はダメ押しで「契約とはあり得ないということまで想定しておくべきものだと、考えておく必要があるのだ」と、言わば説教されたのだった。それで、その数量値引き契約書を提示すると「御社はここまで我が社の秘めたる能力を評価して下さったのか」と、その得意先は感激し、奮起したのだった。そして、私のリタイア後には見事に300を達成したそうだ。

*イチローの契約には「ホームラン王になったら」との項目が入っていた:
イチロー君がMLBに転出したのは2000年であるから、その活躍振りをシアトルで見たことは一度しかなかった。風の便りに、そのイチロー君は毎年の契約更改の際に「ホームラン王を取った場合の昇給額は・・・」を必ず入れていると聞いた。その根拠は「彼が打率を最優先にしなかった場合には、彼の能力ならば十分にホームラン王の可能性を秘めている。その条項を入れておかないと、万が一の時に査定の対象にならないから」だそうだった。上記の数量値引き契約の話から考えれば、極めて自然なことではあるが、矢張りアメリカらしい考え方だと印象的だった。

この話を2007年にシアトルとW社本社を訪問して、かの副社長や往年の同僚たちと旧交を温めた際に持ち出してみて「矢張り、アメリカらしい契約の精神だ」と礼賛してみた。ところがである、これを聞いてくれた全員が「その話の何処が珍しいのか。ごく当たり前のことで、契約書に盛り込むべき物の考え方以外の何物でもない」と言わば一蹴されてしまった。反省気味にいえば、少しでも感動した私が「文化の違いを忘れてしまったか」という事になってしまった。

*Contingency plan:
これも、これまでに何度も採り上げたこと。簡単に言えば「彼らは交渉の場に臨むときには先ず妥協することなく、自社の要求か主張を押し通してくる」のだ。だが、かと言って玉砕戦法は考えておらず、万一要求等を貫徹できない事態に備えて、妥協案ではない第2乃至は時と場合によっては第3案まで準備してくることすらあるのだ。その案を彼らは”contingency plan“と称しているのだ。これを準備してある意味は「もしも相手方を押し切れなかったことを想定して、代案を準備しておくのが普通である」ということなのだ。

フットボールではこの考え方から学んで、パスプレーなどの場合にそのフォーメーションに定めてあった最初からレシーバー(intended receiverなどと言うが)がマークされていた場合に備えて、二番手のレシーバーを必ず決めておくものなのだ。彼らはこれをsafety valveなどと呼ぶが、このような思考体系が、彼らの文化なのであるし、文化の違いだと思っている。


オリンピックの空港の水際作戦が修正された

2021-06-28 08:35:03 | コラム
空港でも濃厚接触者の判定を実行する:

私はこの修正は「文化比較論」の範疇に入るかと思うと同時に、論語の「過ちて則ち改むるに憚ること勿れ」に則って、各国の選手団が空港に到着した際の検疫(と言うか検査か)の手法が、ウガンダの選手団における言わば失態に懲りて、早速修正されたのは“Better late than never.”で、大変結構なことだと思う。即ち、新たに空港でも濃厚接触者の判定を下せるように改正したと、本日早朝のテレビのニュースで知った。

察するに、修正前の方式は「出発72時間前のPCR検査での陰性の証明書の提示、空港検疫での抗体検査の実施で陽性者が出ればその場で隔離、その空港から用意されたバスで合宿地等への直行」だったようだ。なお「到着後の毎日の検査で陽性者が出れば、地元の保健所が濃厚接触者の判定をする」となっていたそうだ。ここまでが大変結構な方式に見えるが、空港で濃厚接触者は判定しないように出来ていた。マスコミ報道では「濃厚接触者の判定は保健所の管轄であり、空港には保健所員は駐在していなかった」となっていた。

私はこの報道を聞いて「なるほど。如何にも我が国らしい方式を選んだものだ」と感じた。その根拠は「我が国とアメリカの文化と思考体系の違い」が現れたのだと解釈したからだ。それ故に、保健所員を空港に常駐させなかったことを「手落ちだ」と責める気はないという事。それは、我が国の考え方では「空港で濃厚接触者の判定が必要となる事態を想定せず」水際作戦を立てたのだろうと読んだからだ。アメリカ式の物の考え方では「濃厚接触者の判定が必要となる事態は想定できないが、万一を考えて保健所の出張員でも常駐させておこう」となったと思うのだ。

そういう思考体系の相違が、何と2番手(だったとして)でやって来たウガンダの選手団の場合に「万に一つかも」の事態が生じたのだった。それを「縦割り行政がどうの」などと非難するのは簡単だが、現時点ではそんなことにかまけている場合ではない。現実には間もなく、ウガンダの選手団の数十倍の選手とスタッフとやらが続々とやって来るのだ。そうであれば、濃厚接触者の判定を下す必要が生じると想定して、態勢を整えておくべきなのだ。最早「モグラ叩き」のような事後修正は許されないのだ。もしかすると「百万が一」の事態でも想定しておかねばならないのだ。

それは、ウイルス以外の病気の患者が到着して「医師の診察と診断を必要とする事態が起きないとは言えない」のではないか。またまたアメリカの例を挙げるが、フットボールの大型のスタジアムには万が一に備えて、外科医は勿論駐在しているしX線やCTの装置もあるし、内科医も用意されていると聞いている。選手だけではなく、観客の中からいつ何時心筋梗塞等の循環器系の病気が生じるかも知れないのだ。と言うことは、結局はどれほど投資をして備えておくかの問題でもあるのだ。組織委員会とかは、アメリカのそういう点まで視察でもしてあったのかと疑いたくなる。