新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月29日は冷たい雨に閉じ込められていた

2022-04-30 09:12:21 | コラム
心ならずもジャイアンツの野球を見ていた:

ゴールデンウィーク(いきなり英語の話をするが、この連休を外国人に分からせる為にはGolden week holidaysとしなければなるまい)初日は雨降りだったの、ブログの更新を終えた後はテレビでも見ている他の選択肢がなかった。夜にはジャイアンツが勝ってしまうのを見せられるのかとの危惧はあったが、対タイガースとの野球を見ることにした。だが、ジャイアンツが菅野智之を先発させたので、何となく短いトンネルの向こうに灯りが見えてきたと受け止めたのだった。

そう考えた理由は、MLBに行き損なってNPBに残った菅野の昨シーズンの出来は非常に芳しくなく、故障が多く登録抹消ばかりだった。菅野は一時拘っていた両腕を後ろに引いてから投げる妙な投球フォームを捨ててみるとか工夫をしていたが、私の目には上体が立ったままで腰が落ちない手投げに見えていたし、球威も落ちたし制球もままならぬように見えた。あからさまに言えば「MLBに評価されなかった投手」なのだった。その菅野が出てきたので、タイガースには勝ち目があると見たのだった。

結果は意外に早く出て、3回にあろうことか投手の青柳に四球を与えた後で「打って下さい」と言わんばかりの真ん中への投球を佐藤輝明に大ホームランを打たれてしまった。桑田コーチがこの回までで引っ込めたのは当然の措置だと思った。報道によれば、昨年も故障した右肘に違和感を覚えたのだそうだが、私にはそれもそうだろうが苦しい言い訳のように思えた。今年のジャイアンツには新人の大勢を始めとして先の見込みがある若手が出てきたのだから、何時までも8億円だったかの終わりが見えてきた投手に依存する気かと言いたいのだ。

打つ方では、今シーズンに入ってから28本のヒットを打った岡本和真が9回に10本目のホームランを打って1点差に迫ったので多少ハラハラさせられたが、青柳が何とか逃げ切ったのだった。岡本は昨シーズンのホームラン王だが、138本の安打のうち39本がホームランで、ホームラン率は28%、今シーズンは35%という恐るべき打者。だが、彼以外には広島を袖にしてジャイアンツにFA移籍してきた丸やMLB崩れだとか、信頼に値する打者がいないのは問題だろう。主将坂本勇人も何となく不安定だ。問題児・中田翔は二軍に落とされたし。

投手にはジャイアンツが育てた訳ではない大勢や赤星等々の他に、育成から上がってきた菊地や鍬原に加えて肘の故障から復活した山崎が揃っているので、私が永年推薦してきた世代交代が進んだ。しかも、攻守両面で選手層が他球団と比較すれば圧倒的に厚い。これで優勝すれば当たり前だ。原辰徳が名監督な訳ではないと言っておきたい。

タイガースだ。この球団は確か昨年でもシーズンが佳境に入る前に10連敗だったかをしたのではなかったかな。それでもCSには出るまで立ち直っていた。だから、あのまま負け続けることもないと思っていた。確かに昨夜は青柳の懸命の力投があって勝つには勝った。だが、所謂適時打が出て勝った訳ではなく、佐藤と大山のホームランで3点取れただけだったのは、「暮れて道なお遠し」の感。Marteの不在も痛いし、近本も昨年と同様に今頃は当たっていない。佐藤輝明もインサイド攻めに弱い欠点は是正されていない。大山は不安定の極み。

という次第で、広島とヤクルトと立ち直れた場合のタイガースで2位と3位を争うことになる気がするのだ。DeNAは良い打者を揃えているが、太陽ホエールズの頃からの投・功・守・走の全ての面で粗雑であり学がない野球の質が一向に改善されていないので、中日と最下位争いにならなければ良いのだと見ている。中日は一寸しか見ていないが、大野雄大があそこまで凋落してしまったのでは、何処を評価して良いのかが解らないのだ。監督を替えれば良いという問題じゃないのではないか。


岸田総理とその内閣に奮起を促す

2022-04-29 10:03:37 | コラム
アメリカで起きた現象は遅かれ早かれ我が国に波及してくる:

2,000年4月にリタイア後6年経ってから、アメリカを初めて“business”ではなく“pleasure trip”と出入国管理官に告げて入国した。何となく爽快感に似たようなものを感じた。この時は懐かしのシアトルからではなくサンフランシスコに入った。宿泊したのは、これも懐かしきハイアットリージェンシーだった。チェックインの時にリセプションのデスクに(カタカナ語にすればフロントだが)に“Video checkout”という小さな立て看板があるのを見た。「何の事かな」と思った程度で通り過ぎた。ここには一泊だけでシアトルに向かった。

室内でCNNでも見るかとテレビを点ければ、出てきた画面には「ここにその時刻までの費用が出るようになっているからチェック願いたい。チェックアウトの前にもチェックして誤りが無ければリモートコントロールで金額等を承認すればチェックアウトは完了する。明細と領収証が必要な方はヴィデオチェックアウトの看板のところで係員から貰うこと」となっていた。この前提には、チェックインの際にクレデイットカードを提示して番号を登録することがある。現代風に言えば「既にデイジタル化はここまで来ていたか」と感じた。

テレビを点けてあれば、嫌でもCMを見ることになる。22年前でも、多くのメッセージは「詳細は~.comに問い合わせを」で結ばれていた。嫌な感じだった。当時の私の捉え方は「なるほど。アメリカのIT化はもうここまで来ていたのか。この傾向が何れかは我が国にやってくるだろうな」だった。

このようなICT化の流れは止めどなく進みつつあり、印刷媒体が衰退に追い込まれるだろう事は明らかのように思えた。その流れはその通りに急速に進み、アメリカ最大の上質紙(我が国で俗に言われている模造紙のことで、業界用語では非塗工印刷紙)のメーカーだったウエアーハウザーは、2005年にこの事業部門をスピンオフさせて、印刷用紙事業から撤退してしまった。即ち、印刷媒体と印刷事業の将来に見切りを付けたのだった。アメリカと世界最大の製紙会社インターナショナルペーパー(IP)の印刷用紙からの撤退の発表は2007年だった。

ウエアーハウザーはこの時に矢張りアメリカ最大級だった段ボール原紙と函の事業をその将来性に期待して温存した。そして、周知のように通販というのかECというのか知らないが、COVID-19の感染拡大も手伝って段ボール箱の需要は伸びる一方で、世界各国で印刷用紙から段ボール原紙への転換が進んでいる。ところが、ウエアーハウザーはある株主からの圧力もあってこの事業をも手放してしまい、2010年代後半に完全に紙パルプ事業から撤退してしまうのだ。IPも同様で、最早アメリカ国内では印刷用紙は生産していない。

紙パルプ業界の素早く先行きを見通して惜しげもなくその事業から撤退する例を長々と語って来たが、この辺りが二進法的に物事を見極める恐ろしさなのだ。私はGAFAMがこのような製造業の先行きの危うさとアメリカの労働力の質の危うさを見切ったかどうかは知らないが、あのよう形態の事業の今日の成長発展に持っていった凄さを感じているのだ。何もアメリカを見習えと言いたいのではなく、ICT化というのかデイジタル化が世界的にここまで進んでしまえば、それに対応する経営の態勢を整えておいたら良かったのにと思うだけ。

カーボンニュートラルとやらの時代となって化石燃料が嫌わるのだから、EVが救世主の如き存在になるのは見えてきたのから、何らかの先手は打てた気がするのだ。菅直人が残した悪政の代表的存在である太陽光パネルなどに何時まで拘泥しているのかとも思うし、原発を無策で停止したままで、またもや計画停電かなどと言われていてどうするのかと言いたくもなる。先行きの見通しは難しいとは分かるが、世界を見渡せば「何時かはこうなってしまうだろう」との見本は沢山あるのではないのか。

出入国前後の隔離期間がどうのという問題もあるだろうが、今こそ海外に出て「そこで何が起きているのか」や「そこには如何なる変化が起きているか、乃至は変化の兆しが見えるのか」を見てくる必要がありはしないのか」と思うのだ。韓国や中国に先を越されてしまった分野が多々あるかのようなのも考え直すべき事ではないのだろうか。デジタル庁を設けたのも結構だと思うが、専門家を招聘するだけではなく、上に立って専門家を使いこなす人を選ぶのも肝腎ではなかったのか。

ここでも、「岸田総理、奮起して下さい。人から話を聞くのも結構ですが、ご自分の目で変化を見て来て下さい。何も日本版GAFAMを産み出そうというのではなく、新機軸を産み出せるような人とその基礎と環境を育てて下さい」と申し上げて終わる。


岸田総理、奮起して下さい

2022-04-29 08:28:14 | コラム
ウクライナが我が国を漏らしたのは国力の低下の象徴ではあるまいが:

ウクライナ政府が援助と支援に感謝を表す旨の動画を投稿した中に、またもやと言うべきか何と言うべきか、日本国が無かったのだそうだ。ウクライナ政府は後刻韓国と共に追加で我が国も入れたそうだが、何とも虚しいものを感じた。それは、湾岸戦争の後の2018年にクウェートが感謝を表した国の中に我が国が無かったのと同じような性質の出来事のように思えたからだ。

勿論、その背景には憲法云々で縛り上げられている(と言うか自縄自縛していると言いたい衝動に駆られるが)のもさることながら、専守防衛だとか、集団自衛権を発動しないとか、敵基地攻撃能力という名称が良くないとか、核心を外したような議論ばかりが横行している状態を「これでもか」とばかりに見せ付けられては、諸外国の目にも「日本国頼むに足らず」とか「日本の時代は終わっている」のように看做されるのではと感じられるのだ。

また、その状況のところに「何れはやってくるだろうと見ていた¥130台の円安が発生したのだ。私は¥130が何年振りかと騒ぎ立てるよりも、未だ先がありそうだと憂うるのが先だと思うのだ。現在のエネルギーに始まる諸々のコスト上昇による止むを得ない物価上昇、止まらないデフレ、上がらない(上げない)給与水準、防衛費の2%引き上げでもたつく自民党と国会を見れば、「円売り、アメリカドル買い」は当たり前過ぎる流れではないか。私には「国力低下」の表れのように残念至極に思えてならないのだ。

更に言えば、岸田内閣誕生後の6ヶ月間に国の内外の情勢で好転した案件は一つとして見当たらないのだ。この現象には岸田総理とその内閣に原因があるとは言わないが、ここまでに至ってしまう前に何か先手を打っておける事があったのではないかと言う気もするのだ。忌憚のないところを言えば、事が起きてから慎重に検討して対処するばかりで、モグラ叩きにもなっていなかったのではないだろうか。円安傾向に流れていくことなどは予め明らかだったのだから、何らかの手は打てた気がしてならないのだ。

先日語り合った某大企業の元副社長は、彼らの間では「アベノミクスの負の面が出てきてしまった」と見ているそうだし、「円安の流れは止まらないだろうし、ウクライナの動乱にも何時終わるのかの見通しが立たないと見られている」と、先行きの見通しは明るくないことを聞かせて貰えた。私には製紙業界では円安という環境下でも貿易面では出超となっているのは、苦しくても輸出に頼らざるを得ないほど内需が不振だということだが、この現象は他の産業界でも同じではないかと見ている。

元副社長氏は私が唱え続けている「経営者の質の劣化が今日に至るまでの景気の不振の一大原因」という説を否定しようとはしなかった。だが、彼の会社は多様化(現在流行っているカタカナ語では「ダイヴァーシテイ」か)が功を奏して順調だそうだ。

岸田総理、国力を盛り上げるよう奮起して下さい。

排斥するのはカタカナ語だけじゃない

2022-04-28 09:31:38 | コラム
私が嫌う日本語の表現:

カタカナ語以外にも「何でそんな言葉を使うのか」と言いたくなる日本語の表現も数々あるので、幾つか代表的だと思う例をあげていこう。

*足を運ぶ:
このような比喩的な表現が好みではない。「本日は悪天候の中を皆様が足をお運び頂きまして」のように言う人が多いと感じている。私は素直にと言うか簡単に「ご来場頂きまして」と言えば良いのにと感じている。「足を運ぶ」を物理的に考えると「自分の足を肩にでも担いでくるのか」となってしまうのだが。

*降板:
野球用語だ。そもそもは「投手がノックアウトでもされたか、制限された球数に達したので、救援投手とでも交代すること」のはずだった。それが何時の間にかマスコミ用語で「大臣が退任する」とか「社長交代」とか「辞職」を表す表現にされてしまった。苟も一国の大臣が退任する事を野球界の用語(隠語でも良いか)を使って表すのは不当であると言いたい。辞職や辞任や交替で何処が悪いのか。

ここで屁理屈を言おう。野球にはpitcher’s plate(投手板と訳したようだ)がある。このplateには「板」という意味がるとは思えないが、「降板」という熟語が作られてしまった。この他にpitcher’s moundがあり、そこには土が盛り上げられた場所があって、その中に投手板が埋め込まれている。投手が交代で降りるのはその盛り土からだ。だから、比喩的に言いたいのならば「降土」か「降山」となるのが理屈だったはず。

*口にする:
これも私が嫌う比喩的な言い方。広辞苑には「口に出して言う」とあるが、簡単に「言う」とか「述べる」だけで通じるじゃないか、何も回りくどく言わないでも済むのではないかと何時も考えている。「耳にする」や「目にする」もこの範疇に入ると思う遠回しな表現だ。

*続投:
これも野球用語だ。概ね「留任」か「辞職せず」という時に使われている。誰が使うのかと言えばテレビと新聞だ。矢張り「何で野球の言葉を使うのか。全部の日本人が野球用語に精通しているとは限るまい。素直に表現しろ」と言いたくなる。

*袖を通す:
これは最も嫌っている言葉の一つだ。理屈を言えば物理的に意味を為していない。「期待のルーキーが記者会見でユニフォームの袖を通しました」などと報道するのだ。私はこんな回りくどいことを言わないで「ユニフォームを着てみせました」か「ユニフォームを着用して記者会見に登場しました」で十分に表現できると思う。

何故、何処かで誰かが言い出したような表現を皆で猿真似せねばならないのか。陳腐だ。本来の意味は「~を初めて着る」と言うことだったものだ。

頬張る:
これも比喩的なのだろうか、私には如何にも古めかしく聞こえて陳腐だ。テレビでは屡々「食べている」事を表現したくて使われているが、本来は動物などが口いっぱいに詰め込んでいる状態を表していたはずだ。他人が見ている前でそういう食べ方をする人は少ないと思うが。

ユニフォームを脱ぐ:
これはカタカナ語の部類に入れて良いかも知れない。意味は「引退する」か「選手を辞める」なのだが、テレビも新聞も使いたがるようだ。同類に「マスクをかぶる」がある。これは「捕手に起用された」という意味だ。アナウンサーが野球の中継でこう言えば「キャッチャーに使われた」と誰もが理解するだろう。だが、「屋外では着用しなくとも良いか」と某大臣が発言したとかのface maskをかぶる人はいないと思うが、これでは屁理屈か。

この範疇に入れても良いと思う例が他にもある。先ずは

「サウスポー」(=south paw):
言うまでもなく「左利き」のことだ。これをアメリカ人たちとも話の中で使ったら「良くそんな古い言葉を知っているな」と褒められた?だが、テレビでも新聞でも野球でも何でも「左利き」の選手を「サウスポー」と呼ぶ。この語源は戦後間もなく聞かされた解説では「アメリカ南部から出てくる投手に左利きが多かったので」とあったが、Wikipediaにはそういう説もあったという程度の扱い。素直に「レフティー」か「レフトーハンデッド」にすれば良かったのじゃないか、じゃなかった「左利き」で十分だろう。

ポーカーフェイス(=poker face):
本来は「ポーカーで手札を読まれないように無表情を装うこと」と広辞苑にある。ところが、カタカナ語では「無表情」(=expressionless)を言いたくて使われてしまっている。何時でも無表情で顔色を変えずに出てくる選手が「手の内を読まれまい」としているはずはないと思うが。これは言葉の誤用の範疇に入ると思う。

何のことはない。結局はテレビと新聞の言葉の批判になってしまった。


海の向こうの謝らない面々

2022-04-27 07:54:35 | コラム
Putin大統領は「国連憲章違反ではない」と断言した:

グテーレスUN事務総長との、例の何メートルだかの長いテーブルの両端に座った会談で、かの大統領は堂々とウクライナ侵攻は「国連憲章違反ではない」と言い切ったそうだ。私から言わせて貰えば、驚きでも何でもない発言だと思う。いや一歩譲れば「マスコミはこの事を報道しても良いのだが、大統領が違反ではないと言いきった辺りを、白人たちに特有の『自らの非を潔く認めようとしない特性の表れである』くらいの注釈を付けておくべきだ」と指摘したいのだ。「海の向こう謝らない面々」の存在を知らせておくべきなのだ。

私は30年ほど前に、業界の専門誌に連載させて貰う機会を得たエッセーの中で「海の向こう謝らない面々」と題して「彼らヨーロッパやアメリカの人たちには謝罪の文化など存在していないし、また潔く自らの非を認めるようなことはしない」と指摘したのだった。この項目は1996年に上梓した「アメリカ人は英語がうまい」にも含まれていた。こういう精神構造の人たちを相手にして、我が国独得の美風である自らの非を認めて謝罪することが如何に危険であり、無謀であり、経済的損失を伴うこと」を指摘した。

この題名は、1989年に安部譲二氏が上梓した「塀の中の懲りない面々」をもじったもので、アメリカには我が国のような「謝罪の文化」は存在しないという点を取り上げたのだった。具体的には、我が方の品質管理の至らなさで生じた損害を補償せねばならないような事案の折衝の際にも一切謝ろうとしない態度が、我が国の取引先に「恥知らずで傲慢だ」との印象を与えるのは得策ではなかった。そこで、「何はさて措いても謝ることから入れば、話し合いが進みやすい」と、本部や工場の担当者の説得に努めた事を語ったのだった。

ところが、根本的に文化と思考体系が異なる国で育った者たちには「無条件で我が方の非を認めて謝ってしまう」などという儀式を実行する気はなかった。遂には、何年か経ってから「貴方方は勝手に何か呟いていてくれ。それを私が謝罪文に直して伝えるから、その効果のほどを見ていてくれ」と説得した。この効果は歴然で、話し合いは滑らかに進み、時には補償の金額を減額して貰えたことすらあった。漸く彼らに「謝罪の文化」を理解させ、先ず自らの非を認めても失うものがなかったと認識させたのだった。

偽らざる所を言えば「謝罪しない文化で育った者たちに『潔く自らの非を認めよう。認めても全面的に補償しますとはならない国に来ているのだから』と理解させるのは大いなる時間と労力が必要だった」のだが、本稿の目的はそこを語るところにはない。

ここまでは自慢話ではないとご理解賜りたい。私が経験した限りでは「我が国でも、海の向こうでも、意外なほどこの文化の相違点」が21世紀の今日に至っても十分に認識されていないようなのだと言いたいのだ。私はかの大統領が「国連憲章違反ではない」と「シレッ」として言いきったのは傲慢でも何でもなく、彼の頭脳構造がそうなっているだけだと見ている。寧ろ私が疑うことは「マスコミがこの異文化の存在を何処まで認識できているのか」なのだ。理解していれば、そういう解説をしても良いのではなかったかとも指摘したいのだ。

今日までに、海の向こうで発生した諸々の事案で「責任を負うべき側が素直に自発的に自らの非を認めて謝罪してから話し合いに入っていった例があったか」を考えて欲しいのだ。ロシアが何時北方領土の件で謝罪したか。何処の紛争でも良いが、当事者たちは自らの正当性を主張するだけで、誤りだったと認めた例があったか。韓国が竹島への不当上陸を詫びたか。彼らは「謝ってしまえば、如何なる補償にも応じます」と白紙手形を切るのと同じだと思っているのだ。「謝罪の文化が重要なのは我が国だけのことだ」と言っても誤りではないと思う。

矢張り、ここまで来たのだから英語の講釈で締め括ろうと思う。謝る時に“I am sorry,”と言うのは「無条件降伏」なので、「自己の非を認めて如何なる補償にも応じます」と言ったのと同じだ。だから、彼らは絶対にこうは言わない。彼らが“I regret this ~ took place.”とでも言えば、それは最大限の謝罪の意を表したのであると解釈して良いと思う。ここでの正反対の教訓は「学校で教えられたからと思って、無闇に“I am sorry.”などと言うな」なのだ。