新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

Englishと英語は違うと認識せよ

2023-02-28 08:10:13 | コラム
Englishは英語とは違うし日本語とも違う点にご注意を:

何時発表しても余り受けないのが残念な話題であるEnglishと英語の話題を取り上げよう。

先ず強調しておくべき事がある。それは「我が国の学校教育では『科学としての英語』をあたかも数学のように教えているのであり、英連合王国やアメリカ合衆国でのEnglishとは別の言語である」という点だ。その違いはBaseball と野球の違いにも似ている点にあるので、その辺りは別途取り上げておくことにしよう。

私は「英語を教える先生方は(今では小学校からとなってしまったそうだが)中学生にも高校生にも『Englishは我が国とは全く文化(言語・風俗・習慣・思考体系等を言う)が異なる国の言語であること』をどのような形ででも理解させることが肝要である」と固く信じているのだ。生まれてから自然に身についた日本語とは違うのだと認識させねばならないのである。日本語の思考体系は通用しないのである。

勉強の仕方についても少し考えてみよう。President誌の最新号で英語の勉強法が特集されていた。ざっと目を通しての印象は「学校教育の「英語」を如何にして学びTOEIC等の試験で確実に良い成績を上げられるかの早道を解説している」となった。私はこういうことを否定するような考え方はしていない。

そういうことを主体にすれば、屡々求められている実用性というか、「自分の思うところをEnglishでネイティブスピーカーたちにも理解させられるような能力の習得」には重点を置いていない事は明らかなのだ。

私は我が国の「英語教育」とはそういう性質だと認識していたので、1990年の春頃から紙パルプ産業界の専門出版社である紙業タイムス社の「紙業タイムス」誌にエッセイの連載を開始したときには「我が国の学校教育における英語のあり方はあれで良いのである」のようにも述べたし、リタイア後のように「学校教育の英語」を批判する意図はなかった。

私は戦後間もなくの13歳の頃からGHQの秘書の方に教えられてEnglishに慣れ親しんできた。上智大学でも当時の上智大学の文学部英文学科とは小説家や文学青年を養成するような教え方はしていなかった。例えば、Shakespeareの場合でも「この作家とは」を箇条書きにして分析して解明していくのであり、“To be or not to be. That is the question.”に酔いしれている暇など与えられなかった。今にして思えば「文化が違っていた」のだった。

基礎を固めておくこと:
その私は1972年に17年半のEnglishとは無縁の(日本の)会社員生活から、偶然と運命の流れで、遠ざけていたEnglishの世界であるアメリカの紙パルプ林産物メーカーに転職した。しかも、17年も離れていたEnglishでの、Mead Corp.の副社長でミード家の当主とのインタービューでも何ら問題もなく話し合うことができて採用となった。「子供の頃に正しく基礎を固めておけば、長い空白期間があってもEnglishの能力は残っていた」のだ。

インタービューくらいは切り抜けられたとしても、現実にアメリカの大手メーカーの中に入って日常的にEnglishのみで意思表示と疎通を図り、上司に口頭箇所面で報告し、市況報告などを毎月のように本部に提出するとなると、その難しさは話が違うのだと分かるのに時間はかからなかった。私が身につけていた英語力と企業社会で通用するEnglishは同じではなかったと痛感させられた。

文法の厳守と綴り:
上智大学では自ら「英語学の権威」と言われた千葉勉先生に厳しく教え込まれた「文法を間違えるのは自らの無教養振りをさらけ出すこと。知識階級には受け入れられないので厳重に注意せよ」というようなことは文学の世界だけだと思っていた。ところが、一流企業の世界にあっては文法の誤りもそうだが、綴りを誤記することや下品な言葉を使うなど絶対と言えるほど許されていないのだった。

いや、千葉先生よりも厳格な世界だった。また、私は仲間内で語り合うような語法は心得ていたが、究極的にはCEOにまで上がっていくかも知れない報告書などには絶対にあってはならないことだと知った。我が国の上場企業においても言葉の使い方には同様な厳格さがあると思う。だが、ここで問題になるのは日本語ではなく異国のEnglishを何処まで理解しているのかが問題になるのだから、話は違うのだ。この点は幸いにも日系人でワシントン大学(アメリカでは私立大学の格が高いのだが、UWは州立大学としては評価は高い)のMBAのJ氏に親切丁寧且つ厳しく指導されて改良出来たのは幸運だった。

自分の意見を発表せよ:
では、何がどのように違うのかに触れていこう。先ずは「ビジネスの世界では口頭でも報告書にしても伝聞は許されない」ということ。具体的には我が国の英語教育に出て来る「itを先行させてthatで受ける構文」であるとか“They said that ~.”や“I was told that ~.”のような第三者の意見を伝えること」は許されないのだ。私が迂闊にもこの表現を使った所、副社長に「自分は君から第三者の意見を伝え聞かされる為に5,000マイルを飛んできたのではない。この件については君の率直な意見を聞きたい」と叱責された。

アメリカ人たちは何事についても個人の能力と主体性を尊重し且つ依存し重んじるのである。であるから、仮令自分の意見が間違っているかも知れなくても、それを正面から主張するのがアメリカのビジネスの世界の習慣というか文化なのだ。私は学校教育の場に於いても英語を学問のように教えるだけではなく、このような彼らの文化を教えておく必要があると主張する。

妥協はあり得ない世界:
次は言葉だけの問題ではない異文化の話。それは「彼らの文化には妥協はないという事」である。即ち、彼らの交渉では「相手に自社の主張を完全に受け入れさせるか、事前に完璧な論旨を組み立ててからその場に臨み相手を屈服させるか納得させるかしかない」のである。勿論、相手側の主張も聞くが、その中間を採って決めるとかいう類いの妥協は許される世界ではないのだ。

折り合わなければ、私のアメリカの会社転出の切掛けを作って頂けた日系カナダ人のN氏が言われるように“Don’t feel bad. Come and see us again”と言って握手して綺麗さっぱりと散会するのだ。彼の日本語では「気悪うせんとまた来いや」なのだ。この辺りは情緒的な日本人には中々出来ない芸当だとN氏は指摘していた。

曖昧な表現は通用しない:
その延長線上にあるのが、曖昧な言い方は通用しないと言うこと。ある時のことだった。上司から命じられた斬新な「市場調査」に疑問を感じたので適当にやれば良いかと“I will try to see what I can do about it.”と言ってしまった。これは「試しにやってみましょうか」というような意味になる。すると上司は表情を変えて「それはやる気がないと言ったのと同じだ」と厳しい口調で“I will be sure to get the job done.”(「必ずやり遂げます」という表現)と言えと言われた。そこで何とか実行した。この両者の違いを良くお考え願いたい。要点は「こんな面倒なことが簡単な単語ばかりで表現できていること」にある。

簡単で易しい単語を使って:
最後は「Englishでは易しい単語だけで難しいことが表現出来るのだ」とのもう一つの例。それは、嘗ては我が社の製品は最大のcompetitor(それは同じアメリカのメーカーだった)の物よりも印刷適性(印刷が美しく上がること)が劣っていて、再三再四多くの得意先から改善の要求を突きつけられていた。遂には最大の取引先に期限付きで改善を迫られた。その場にいた営業担当の本社のマネージャーは、いとも簡単に“We will get there. Please don’t worry about our capability.”と言ってのけたのだった。

ここでは“We will get there.”で「やり遂げます」という意味になるのだ。この辺りに「getとmakeとhaveを上手く使えれば殆どのことが表現出来る」という話が出てくるのだ。それは確かだが、それで話が通じるのは前後の文脈にもよると思う。Englishでの表現の大原則は「簡単というか易しい単語のみを使って平易な文章を書くよう努める」なので、これなどはそれに当て嵌まっていると思う。即ち、「社内で社長にまで上がるかも知れない報告書でも、小難しい文語的な言葉を多用しない方が良い」ということなのだ。

なお、上記は2022年2月27日に発表したものに加筆・訂正してある。


2月26日のスポーツから

2023-02-27 08:24:18 | コラム
バスケットボールを優先して侍ジャパンとやらは後回しにした:

26日の午後は主として、W杯出場が近くなった男子のバスケットボールの予選だった対バーレーンを見ていた。先頃のオリンピックで女子の代表を第2位にまで持って行ったトム・ホーバス監督が男子の代表をどのように仕上げつつあるかにも興味があった。野球を一寸しか見ようとしなかった理由は後で述べる。

バスケットボール:
まず気がついたことはバーレーン代表がランキングで遙か下位にあり、言わば勝って当然という相手だった点だ。また、目立ったことは先発5人に中に初顔のホーキンソン・ジョシュというアメリカから帰化したばかりの選手がいた点だった。アナウンサーによれば、シアトル生まれでワシントン州立大学(Washington State University)出身だったので、長年ボーイング社とともにワシントン州を代表する企業の1社であるウエアーハウザーに勤務していたので、親近感がわいた。

試合は我が代表がバーレーンを圧倒して最終的には20点近い差をつけて勝ったのだったのだ。マスコミ報道にあったホーバス監督が採ったスリーポイントシュートを多用するバスケットボールが、この試合ではあまり効果を発揮していなかったが一寸残念だった。ホーキンソン君は大活躍で、ティーム最多の22点を挙げていたのは目立っていた。私の目には如何にもアメリカ人らしい滑らかというか自然なバスケットボールに慣れた動きをしていたように見えた。

何故、ホーキンス君のバスケットボーがそう見えるのかを考えてみると、アメリカでは三大スポーツの一つであるバスケットボールの普及度が高い点が考えられる。アメリカでは住宅街でも街中でも何処に行っても、大袈裟に言えば至る所にバスケットボールのリングが備え付けられていて、老若男女が楽しんでいる光景が見えてくる。しかも、そこで楽しんでいる人たちの動きが実に自然であり、言うなれば「球慣れ」しているのが目立つ。彼らはこのようにして幼少の頃からバスケットボールに慣れ親しんでいるのだ。

私にはホーキンソン君はこのように子供の頃からバスケットボールに慣れ親しんできて、大学でも活躍した後で我が国に機会を求めてやってきたのだろうかと思っている。また、アメリカでは学校で三大スポーツであるベースボール、フットボール、バスケットボールに慣れるように教育していると聞いているので、彼もその三つの中からバスケットボールを選んで職業にしたのだろうとかと見ていた。

昨日の試合では、私には何故そういうティーム作りになっているのか分からなかったが、アフリカ系の選手たちのみで構成されていたバーレーンを、富樫と河村2人の小柄ながら優秀なポイントガードの活躍で蹂躙していたのは大変結構なことだと思った。だが、難を言えばスリーポイントシュートを得意とする比江嶋の活躍があまり見られなかったことを挙げておきたい。私には富樫が「アジア予選だから良かったが、世界に出ればこうはいかない」と語っていたのが印象的だった。

世界にはアメリカの世界最高峰の(身体能力に優れて、身長が高い選手たちを集めた)NBAがあり、そこには全世界から最高水準にある選手たちが集まっている。そういう世界の強豪国の選手たちと戦って、我が代表が体格の差にめげずに、W杯で何処まで通用するバスケットボールができるのかに期待したいし、また興味がある。

侍ジャパン:
テレビも新聞もここを先途と、この代表のソフトバンクホークスとの練習試合を盛り上げようとしていた。だが、私はほとんど期待していなかった。それはWBCが3月9日から始まるとはいえども、2月の下旬とあってはホークスが今頃のシーズンの開幕前のこの時点で、万全に仕上げた体勢で出てくるとは思えないからだ。侍ジャパンとやらも同じような状態で、25日の試合を見た限りでは投手も打者の出来上がってはおらず、如何にも間延びした締まりのない野球に見えたので、昨日の試合には興味がなかったのだ。

問題は彼らがこれから3月9日までに間に何処まで「完全な状態で試合に出られるよう」に調整ないしは修正できるのかだろうと思う。同時に、相手となる韓国やアメリカやキューバやドミニカという強豪国も何処まで仕上げられるかだと思う。極端に言えば、調整段階の2日間の試合で投手が何百キロの速球を投げても、打者が何本ホームランを打っても「練習段階での話」なのだ。事は本戦のWBCでどれだけやって見せてくるかにかかっているのだ。そう思っているから、観戦は等閑にした次第だ。



文化・文明論

2023-02-26 07:48:16 | コラム
紙の消費量は一国の文化・文明のバロメーターであり得るのか:

この辺りを、最近の紙業タイムス社発行の「FUTURE誌」の記事を参考にして考えてみよう。要点は嘗ては「紙の消費量が多いことがその国がどれほど文化と文明に優れているのか」を表していると認識されていた。そして、その昔は世界最大の生産と消費の国がアメリカで、我が国は第2位だった。

それが、中国が成長発展を続けてきた結果で、今や世界最大の紙生産国となり、アメリカは2位で我が国は3位となってしまった。だが、人口1人当たりの年間の消費量では、2021年の統計では中国は77kgであり、200kg台前半のアメリカと日本の3分の1程度だ。だが、ICT化やデイジタル化は非常に進んでいるようだ。

すなわち、「人口1人当たりの消費量の上位20ヶ国を占めているのは皆先進国なのである。だが、近年ではその先進国では年々消費量が縮小し続けているのだ。この現象が示すことは「紙の消費量が減少することはICT化とデイジタル化の進展の度合いを示しているのであり、もはや文化と文明のバロメーターではなくなってきたのではないか」なのだ。

その辺りを先頃日本製紙連合会が発表した「2023年の内需と消費の見通し」から我が国について考えてみよう。

まず、この連合会の統計から、2019年の紙・板紙の実績と2023年の見通しを比較してみた。19年の実績は2,623万トンだったのに対して、23年度の見通しは2,047万トンなので実に23%に近い減少なのだった。中でも新聞用紙と印刷用紙の減少が最も大きく、2011年との対比では44%もの減少なのだ。これすなわち、印刷(紙)媒体がインターネットにその地位を奪われていたことをハッキリと示しているのだ。

中でも、新聞用紙の需要は19年度の実績と対比しても29%の落ち込みとなるのだ。11年度と比べれば49%という大幅な減少だった。新聞用紙の需要が減退した理由を、ここに私が述べるまでもないと思うが、統計を見ると今更ながらその厳しさが見えてくるのだ。

ここで重ねて強調することは「紙の消費量の減少がその国のICT化とディジタル化の進捗状況を表している点」なのである。

一方では、アマゾンが代表的であるように通販の成長がめざましいので、段ボール原紙(凾)は2011年には880万トンだったものが、23年の見通しは924万トンと、なんと5%の成長が見込まれているのだ。段ボール原紙は「板紙」の分類になるのだが、包装材料の需要は停滞していなかったのだ。

だが、私が在職中に担当していた牛乳やジュース類用のパックになる液体容器原紙は、我が国では生産されておらず全面的にアメリカと北欧からの輸入だった。だが、22年の輸入実績は17万5千トンで、最盛期の25万トンからは30%もの減少である。

その背景には人々の牛乳についての趣向が変わったことと、学童の数が減ったために学校給食の需要が減退したことにあると聞いている。北海道では生乳が余って廃棄すると報道されているが、液体容器原紙の輸入の減少と軌を一にしているようで残念だ。

参考資料:紙業タイムス社刊 FUTURE誌 2023年2月13日号と3月6日号

2月25日 その3 日本製紙連合会の広報活動

2023-02-25 16:58:40 | コラム
再び環境問題について:

紙パルプ産業がどれほど環境の保護に努力しているかを、日本製紙連合会が20年8月に「誤解を解く6つの真実」と題したリーフレットを刊行して説明していた。非常に良くできた内容だと思っているので、ここでは昨日に続いて「環境問題」について述べておこうと思う。以下は20年8月25日にブログに掲載したところから抜粋した。良くお読みいただければ有り難い。

”リーフレットの内容は①「紙の生産・消費が世界の森林減少の原因というのは事実と異なる」、②「紙1tonが木○○本という表現は実体を表していない」、③「紙は原料である木の成長から廃棄・焼却されるまでCO2を固定する素材である」、④「紙は自然界で分解される地球環境にやさしい素材」、⑤「そもそも古紙以外のものは紙に混ぜてはいけない」、⑥「未来に向けて新たな素材が生まれている」となっている。私には十分な説明だが、一般の方には完全に通じないのではとの懸念は残る気がする。


私から一言追加しておけば「我が国では至る所に多くの木が生えているが、あの樹種は紙の生産には余り適していないので、大手の製紙会社はそれ用に自社林で育成しているし、上記のように海外にも山林を保有している。その意味では我が国は資源小国とも言えるのだ。実は我が国では海外の森林資源を消費しているのだ」となる。だから、往年のクリントン政権は「アメリカから原料ばかりを輸入しないで、世界最高の品質を誇るアメリカ産の紙類(主として印刷用紙等)も輸入せよ」と迫ったのである。でも、実を結ばなかった。それが何故かは既に何度も述べている。”


2月25日 その2 「環境問題に関する残念な誤解」を一部訂正します

2023-02-25 16:38:40 | コラム
お恥ずかしながら、ウエアーハウザーを「2000年に法人化した企業」にしていた:

昨24日に掲載した「環境問題に関する残念な誤解」の中で、ウエアーハウザーを「ウエアーハウザーは2000年に法人化した企業で、それ以来自社林を管理して環境保護論者が騒ぎ立てる前から「環境を保護」して来ていた。また、上記のように自社林で育成してから伐採して樹木は無駄なく使い切っていたのだ。」のように記述していたのは大間違いで、アメリカで法人化したのは1900年で、2000年は「創立100周年」を祝った年だった。

私は1994年1月末でリタイアしていたが、日本でも多くのお客様を招待して記念祝典を開催し、私も呼ばれていたので、2000年の印象が強く残っていたのだった。原稿を読み返しても気がつかなかった辺りが、私の注意散漫な欠陥を表していて非常に恥ずかしく、ここに謹んで訂正する次第である。