新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月3日 その2 ワクチン接種の会場が変われば品変わる

2021-06-03 14:44:38 | コラム
自分の時とは様子が異なってくるようだ:

昨6月2日は、家内の不安を解消すべく1回目のワクチン接種会場に付き添いで行ってみた。会場は我が家から新大久保駅前まで歩いてからバスに乗って20分もかからない大久保地域センターだった。この建物には日本年金機構も入っている。

予約は13時30分からだったが、後で触れておく理由があって、12時45分頃に到着した。3階に設営された待合室の前には「STAFF」が待ち構えていて、予約時刻を訊きだしては色分けされた番号札を渡して案内する仕組みだった。その時でも既に14時の予約の老婦人が上がってきていたので、当方の13時30分などは未だ可愛らしい方だった。接種会場は4階なので時間が来ると色別の番号札の順番に呼ばれて上がっていくのだ。ここまでで既に私の戸塚地域センターのやり方と違っていた。

4階に上がると、お定まりの手の消毒と検温があるのだが、ここから先はかなり違っていて、受付の女性から問診票に記載した内容についてかなり細かいと言うか、恰も医師のような質問があった。これには亭主の介入がなければ進行しなかったかも知れないと感じたし、高齢者にはきついのではないかと見た。次の仕切りの中で初めて問診なのだが、ここでは最早訊かれることもなく、速やかに接種の仕切りに案内された。戸塚地域センターでは「問診と接種」が同じ場所で、対応される医師が1人で済んでいたこと。

接種はそれこそアッという間のことで、15分間の待機の椅子席に導かれた。座るや否や家内の名前が呼ばれて、2回目の接種の日時が指示されて退出時刻が記入されたポストイットも手交された。この待機席には看護師さんが巡回されて「如何ですか」と訊いて回っておられたのも相違点だった。偽らざる感想を言えば「こちらの方があるべき姿だったかも知れない」という辺りか。

実は、会場に到着した際に若き男性のSTAFFさんと少しだけ語り合える時間の余裕があったので「高齢者に対応されるのは大変なお仕事でしょう。私は先月の29日に戸塚でその様子を見ていて実感しました」と言って見ると、肯定的な表情で苦笑いしていたのも印象的だった。だが、現実的にはこの会場には杖を持った人も歩行器にすがっている人もおられず、STAFFの負担になっている高齢者が一人もいなかった、車椅子の方は3人ほど来ておられたが。

これで、お陰様で夫婦揃って2回目の予約も出来てかなり精神的には落ち着くことが出来たのは誠に有り難いことであると考えている。矢張り、菅首相と河野大臣に感謝申し上げるべきかと思っている。

余談になるが、昨日の会場は大久保通りを挟んで反対側に以前から前をバスで通過するだけで試す機会がなかった「いきなりステーキ」があるので、買い物も兼ねて早めに出て先ずはステーキの昼食と洒落込んでみた。当方は以前から同じ系列下にあった「ペッパーランチ」のステーキは経験してあったので、同じようなものかと半ば期待していた。正直に言えば、同じ輸入肉だろうと思う後者の方が味が良かったと判定した。

帰路は矢張り直ぐそばにある「肉のハナマサ」で家内のお供で買い物をしたので、帰宅は15時近くになっていた。実は、このように昼食を挟んで外出するということは、実質的に丸一日潰れたと殆ど変わらないのだ。即ち、出掛ける前に身なりを整えるし、戻ってからは外出着から普段着に戻らねばならないし、それに加えて現在のウイルスの時にあっては、洗顔どころか消毒と入念な手洗いが待っているのだ。2人がそこまで終われば、既に午後4時を回っているので、家内にとっては夕食の準備も待っているという具合だし、高齢の当方は横になって一休みということ。

我が方は何とか何の問題もなく二人で会場の往復に買い物まで出来たが、高齢者にとっては会場まで出向くこと、待ち時間、順番待ちに加えて質問攻めに遭った後での接種では、かなり疲労感が出てくると思う。現に、何人かの老人が「ちっとも痛くなかった」と自宅に電話したり、「案外痛くなかったですね」と話しかけてこられたりした。

私はこういう現象は「テレビ報道で副反応だの何のと年がら年中脅かしているから、筋肉注射如きでも恐怖感を持ってきておられる方が多くなるのだ」と思っている。私の解釈は「痛いと感じるのは、偶々針が痛点に当たっただけのこと」なのだ。


オリンピック・パラリンピックは開催されるのか

2021-06-03 08:53:03 | コラム
開催する以外の選択肢は残っていないと見ている:

我が親愛なるマスコミは、開催まで後残すところ50日に迫ったこの大会を「やるのやらないの」というような論調で、ウブな一般大衆を惑わして悦に入っているように思えてならない。

昨2日には尾身茂分科会長は国会(だったのだろうか)で、開催の意義に疑問を呈したり規模の縮小を論じたりしておられたようだった。マスコミ風に言えば「言論は自由」なのだから何を言われても構わないとは思う。私は尾身氏は勿論「専門家」という総理大臣にも世間にも(?)認められた資格の上で、政権に提言されたのだろうと解釈することにした。だが、あるお医者様が「あの人は医者ではない。政治家になったのだ」と吐き出すように言われたのを思い出した。

尾身氏はウイルスの襲来が始まって以来、何処の何方が如何なる理由であの地位に招聘されたのか知らないが、今や菅首相が何かと言えば「専門家に伺って」か「専門家に諮って」等々の決め台詞に登場する大政治家の如き存在になってしまった。しかも、菅首相は「この件は尾身先生から」と言って、屡々答弁を任せてしまっている。即ち、立派に菅政権の重要な構成員であるようなのだ。

その立場にあるとの自覚があれば、立憲民主党(だったのか)に向かって意見を述べられるのだったならば、菅政権の一員としての「雨が降ろうと槍が降ろうと、総理が言われたように通常開催する」と断言すべきではないのか。恰も朝日新聞のような批判的(客観的か?)とも聞こえかねないことを言われるのは、如何なものかと感じた。こんな事を言えばマスコミが「ほら見ろ。人が犬を噛んだ」とばかりに大衆を煽ろうと流していたではないかと受け止めた。本日の産経新聞に阿比留氏が書いていたことが(敢えて引用しないが)本筋だろうと思って読んだ。

私は開催すべきだとか、延期や中止の議論に参加する気はない。既に繰り返して述べたように「閃き」では「人気のない観客席の前で多くの選手たち(何で「アスリート」と妙なアクセントで呼ぶのか)が必死に世界的規模のメダル獲得競争に参加して奮戦している景色が見えていた」のだった。後付けの理屈では「国家として立候補して招請した競技を『COVID-19の制圧未だし』や『海外から9万人も来られて集団感染が多発しそう』と言ったような理由で中止できるのか。春日某氏は繰り返して『オリンピック憲章には云々』と声高に指摘していたではないか」となる。

「オリンピックの炎」とリレーも進行してしまったし、個人種目の予選会も着々と進み、出場の念願を果たした選手(戦士)たちがあれほど喜んでいたではないか。オーストラリアからは事前合宿の女子ソフトボール選手団が群馬県太田市に到着したではないか。私はこれらの現象を「既成事実の積み上げ」とは見ていない。総理大臣が「ウイルスに勝ったと示す大会を開催する」と言われていたではないか。また、誰も中止とも再延期とも言えないのだから、参加する國は粛々として予定通りに行動しているだけだろう。

朝日新聞のように反対の社説をぶち上げるのも一つの見識だろうが、そこには国家としての「覚悟」や「自覚」というような意識が完全に欠落しているのが酷いと思う。そういう論じ方もせずに「世論調査では反対と延期が」とばかり言う連中は、もっと始末に困ると思う。私はアメリカのメデイアを礼賛する気などないが、彼らのように常に「二者択一」で自社の立場を鮮明に出来ないマスコミは意気地がないと断じたくなる。「何だ。結局はマスコミ批判か」と言われそうだが。