新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月30日 その2 「ゼロコロナ政策」って

2022-11-30 09:08:27 | コラム
またしても「カタカナ語批判」である:

報道によれば、中国の各地で習近平氏の「ゼロコロナ政策」に反対するデモが起きているそうである。「ゼロコロナ政策」の是非や当否を私は論じる気はないが、習近平と中国共産党が香港と同様に圧殺するかどうかの、考え方によってはかなり深刻な問題になるのかなとは見ている。

ここで採り上げたいことは「果たして中国やアメリカ等の諸国に『コロナ』と全く同じ表現があるのか」との点である。今日までに繰り返して批判したことで「コロナ」(=corona)という一般化したカタカナ語は言葉の誤用なのである。今更英単語のcoronaの意味を解説する気にもならないが、この単語は「新型コロナウイルス」を意味していないのだ。それでも、カタカナ語化の特徴である部分的に元の言葉の一部である「コロナ」をカタカナ語に仕立ててしまっただけのこと。

である以上、中国で習近平主席が国民と共産党政府に「コロナをゼロにせよ」などと、「コロナ」を使って厳しく指示し命令する訳がないと思うのだ。だが、何度も言ってきたように「最早カタカナ語として戸籍を得てしまった以上、使いなさんななどと野暮は言わない」のである。

念の為に検索してみると、一般的には“zero-COVID policy”と言われているようである。更に追加で言っておくと、新型コロナウイするス用のワクチンにはハッキリとCOVIDと表示されている。

これは“corona virus disease”から発した略語であり、英語ではこれが通用する。私は誰かが何時か何処かで解説するかと期待してきたが、放置されたままだ。試しにアメリカ人に「COVIDを使わずに、中国でゼロコロナ政策が強行されている」と言って見れば良い。


後期高齢者ともなると時代の流れに付いていくのが難しくなる一方

2022-11-30 08:19:17 | コラム
コンビニエンスストアでは「アバター」が接客:

“Avatar”という映画が出たのは2009年だったそうだ。当方には76歳で第1回目の心筋梗塞発症の3年後のことだった。この頃は既に人混みの中に出ていくことを避けていたこともあって、映画館などは当然のように敬して遠ざけていた。従って、そう言えば、そんな題名のアメリカの映画があったかなという程度の認識だった。

所がである、近頃はしきりにテレビ等に「アバター」(=「分身」)なる言葉と画像が登場するようになった。多分、CGかAIの類いだろうと思って気にもしなかったし、相も変わらぬテレビ局の軽佻浮薄な騒ぎ立てか辺りかなと考えていた。だが、「アバター」はどうやら英語の単語にすれば“avatar”のことかな、くらいの見当はつけてあった。言ってみれば、ICT化が進んだ時代の流れの中に登場した人工知能かなとも考えていた。

ところが、昨日から数局で三菱系のグリーン・ローソンが店頭に設置してスクリーンにアバターを登場させて接客に活用を開始したと報じ始め、実際に分身が質問に答える場面も見せて貰えた。更に同社の竹増貞信社長が「今後はコンビニエンスストアの経営上には人手不足解消の手法として活用されていくだろう」と述べていた。尤もだと思って承った。

この竹増社長はつい先頃「コンビニエンスストアの経営では人件費のみならず電力代や設備投資の負担が大きい上に、何とかpayなどでの代金決裁が増えれば増えるほど、手数料の負担が重くなるが大変」との見解を述べておられたばかりだ。それかあらぬか、もう1年も前になるだろうか、セブンイレブンのレジでは店員が代金を受領せずに言わば自動支払機を設置して、係員が顧客に支払い方を指図するだけに変わっていた。

私はコンビニエンスストアの熱烈なユーザーではないので、詳しいことは言えないが、この近所のセブンイレブンにおける係員の接客の姿勢は余り丁寧ではなく、寧ろ不愉快にすら感じていた。それは、この種の支払いに慣れていない客と見ると命令口調になってしまうからだ。だが、時代の流れとしてこの方向に進まざるを得ないかと理解はしているがね。

もう一つ気に入らない事柄を挙げておくと「何故、アバターと呼称するのか」なのである。即ち、得意の「カタカナ語排斥論」なのだ。映画を知らなかった当方が時代遅れであり、ICT化の進歩発展についていけていないことは認めるが「何故、係員の分身が応答します」というように(超後期高齢者向けにも)カタカナ語ではない表現が使えないのか」と言いたいのだ。

新聞だったか週刊誌だったか失念したが、「このような自動支払機の類いを導入した先で、不慣れなお客様を誘導する仕事を与えられた人が、人間無視のような職務に嫌気がさして退職した」というのがあった。以前にも指摘したことで、多くの大病院では自動支払機導入後には、常に介添え役の女性が配置されていた。換言すれば、「時代は高齢者に対して優しくなくなりつつある」のだ。そこに、カタカナ語で追い打ちをかけようというのだ。

英語をある程度以上知っているつもりの私は“avatar”の知識は不十分なので、先ずはジーニアス英和を引いた。これは普通名詞のようで「(ある特性やタイプの)具現化、具現した人」があり「(コンピュータ)アバター(チャットルームを利用したりゲームをする人、物、動物を示すアイコン)とあって、良く理解できなかった。3番目には「ヒンドゥー教、この世に現れた神の化身、権化」とあった。

Oxfordには、いきなり“(Hinduism and Buddhism) a god appearing in a physical form”が出てきた。何れにせよ、何でもカタカナ語にして表したくなるのは少し解るが、その前に「本来の意味は此れ此れ然々」と解説しておいてほしいものだ。「何だ。結局はカタカナ語批判か」と採られたのならば、それでも結構である。


11月29日 その2 産経新聞の「主張」に異論を唱えたい

2022-11-29 16:59:20 | コラム
“「応能負担」確実に推進を”とは何事:

本29日の「主張」には「75歳以上医療保険」と題して、75歳以上の高所得者の保険料を来年から年間14万円増額の80万円に引き上げるとの政府の方針を支持する論調を展開している。私はこの件については、既に後期高齢者でも一定以上の年金を得ている者に窓口負担を1割から2割りに引き上げたことを非難した際に、この保険料の総額は俗に言う「ダブルパンチ」であると批判してあった。

産経新聞を非難攻撃したくなる理由は「このような負担増を決めた官僚の方々や国会議員の先生方の中には75歳も過ぎれば、どれほど多くの異なった種類の病気に悩まされた経験後有りでないから『彼らが増加させた部分を負担させるべし』などと気楽に言い出したのだ」と思っているからである。

先日も指摘したことで、高齢化すればするほど、長い間使いに使ってきた諸々の体の器官が衰えて、一寸したことでも発病してしまうものなのだ。かく申す私はそんな経年変化があるなどとは露知らず、愚かにも多少の血圧の高さなどを気にかけずにいたのだった。所が、2006年1月の72歳の最後の月に「心筋梗塞」という漢字が書けなかったほど無知だった心筋梗塞に襲われ、国立国際医療研究センター病院(NCGM)のお陰で辛うじて命を救って頂けたのだった。

それから後は、一旦衰えの兆しを見せた体力は抵抗力を失い始めたのだった。すると、前立腺肥大(後にガン)、皮膚ガン(切除済み)、白内障(及び後発白内障)、狭心症、顎関節症、腱鞘炎、蓄膿症、耳管開放症、2回目の心筋梗塞とその後の気象病、3回目の心筋梗塞、2度の心不全、膝の関節の痛み、ドライアイ、1985年10月にアメリカでの貰い事故だった自動車事故に起因する自室神経失調症という具合で、罹った病気の枚挙に暇がない。

私はアルコールを受け付けない体質なので飲酒は一切していないし、喫煙の経験は皆無である。確かに在職中は年間に6~7回もアメリカ出張を繰り返していたし、職責上無理もしていた。だが、72歳までは高校時代の仲間とサッカーやフットサルを楽しんでいられたほど体力を維持できてはいた。だが、一旦、72歳を過ぎてからの心筋梗塞の後では、抵抗力も衰えたのか一時はNCGMの全科目を制覇するかと悪い冗談を言ったほど、病気の総合商社のようになっていた。

言い方を換えれば「高齢化すれば、どれほど常日頃健康に留意して生活していても、如何ともし難い病には襲われるもの」なのである。その現実は60歳台程度に止まっている人々には理解も想像も出来ないことではないのか。だから、気楽に正論を唱えて「応能負担」などと言えるのではないのか。こう言っている私にでも、増加する一途である高齢者の医療費を節減したいとの考え方は解らないでもない。

だが、そう言う前に、彼らが何処まで「高齢者の病気が大変であるか」を理解し、認識できているのをあらためて問いたいのだ。彼らにも高齢の親御さんたちがおられるだろう。彼らが無病息災で生活できているかどうかくらいは解っているだろう。それでも「大義親を滅す」で「応能負担」を言うのか。大病院の循環器内科や街中のクリニックにでも行ってみてご覧、大勢の高齢の患者さんたちが待っておられる。それを過剰負担の基だから応能負担させよというのか。

念の為に申し添えておくが、今月は定期検査と診察の他にウイルス性の風邪を拾った為に、医療費と薬代は2割負担で2万円を超えた。この額を大きな負担というか大したことはないと言うべきか知らないが、私には生易しい出費とは到底言えないのだ。その上に来年から14万円増額だ。

だからこそ、繰り返して「岸田さん、しっかりしと奮起して善政を施して下さい」と依頼したくもなるのだ。

森保サッカーの問題点を指摘する

2022-11-29 08:40:50 | コラム
レッドゾーン・オフェンス対策を練り上げておくべきだ:

ご存じの方も増えてきたと思うが、この「レッドゾーン・オフェンス」とは(アメリカン)フットボールの用語である。「相手方のエンドゾーンまで20ヤードの距離にまで攻め込んだ場合に、攻撃する地域に奥行きが少なくなってしまうので、長いパスを用いて攻めにくくなってしまい、攻め方(オフェンス)のプレーの種類が限定される場合のこと」と解釈して貰えれば良いと思う。

何でサッカーの試合にフットボールのオフェンス論を持ちだしたかといえば、先日のコスタリカに負けてしまった原因の一つに「このレッドゾーン・オフェンスの失敗」があったと見ているのだ。これだけでは何ら具体性がないのでより詳しく分析していこう。

それは、既に指摘しておいた森保サッカーの最も宜しくない問題点の一つには「ディフェンス陣間とMF間の横から横、前から後への絶え間ない前進することがないパス交換の連続」があるのだ。あの消極的なパス交換は多くの場合に自陣のハーフライン近くで実行されているのだ。それに対して相手は人数をかけて引いて守っているので、縦一発の長いパスを蹴り込んで攻めたくても、守備側の裏側には殆ど誰かが駆け込んでフリーになれるスペースが残っていないのである。

即ち、後エンドゾーンまで20ヤードしか残っていないレッドゾーン・オフェンスとほぼ同じような手詰まりの状況に、自分から追い込んでしまっていたのだ。言うなれば「自縄自縛」なのだ。

より具体的に言えば、「オフサイド」の反則があるサッカーでは勝手に相手の守備陣の裏側に上がって行ってフリーになって、パスが来るのを待つ形式のオフェンスはできないのである。従って、前線に位置するFWもウイングバック等々が後方からパスが蹴り込まれてくる前に、守備陣の裏側には上がっていけないのだ。

それならば、「後陣でのディフェンダー間のパス交換を自分のゴールラインに少しでも近い場所でやれば如何か」との代案が出そうだが、これは禁じ手なのだ。それは、相手側は隙があればその横か後方へのパスを横取り(インターセプションであって、アナウンサーたちが使う「カット」は意味が違う)を虎視眈々と狙っているので、迂闊なパスを蹴ると、何時だったか柴崎が犯したような失点に繋がってしまうので、なるべく前の方に出てから実行する必要があると思う。

換言すれば、「どのようにして守備側のレッドゾーン・ディフェンスを破るか」の工夫というか組み立てが必要になるということなのだ。コスタリカのディフェンスは5人のバックスを並べた上にほぼ全員が守りに入っていたので、我が方は攻め込む手段を見失っていたかの感が濃厚だったし、何度攻め込んでも壁に向かって蹴っていたかのように跳ね返されていた。方法と対策としては個人技で切り裂いていくか、余程緻密にパスを組み立てていくだろう。

現実には、後半に起用した三苫は切り上がった2回ともゴールラインまでドリブルで攻め込み、センターリングができていたのだから、彼のキープ力をもっと多用すべきだったと思う。また、前半の開始早々には未だ前方にスペースがあったチャンスに相馬は縦に突っ込んで行けたので、あの形をより頻繁に活用すれば「レッドゾーン・オフェンス」で苦しまずに済んだのではないかと見ている。

思い出して貰いたい事は、対ドイツの場合に決勝点となった浅野の上がりは、言わば逆襲(カウンター攻撃)からで、ドイツは全員が上がっていたので後方に大きなスペースができていて、そこに浅野が走り込み、板倉にバックスピンが効いた縦パスを蹴り込む余地があったのだ。あの試合はドイツに80%の時間にボールを支配されたので、「ディフェンス陣間とMF間の横から横、前から後への絶え間ない前進することがないパス交換の連続戦法」に出ていく時間が取れなかったのだ。

我が方には嘗ての釜本邦茂のような強力なポイントゲッターがいないのだから、レッドゾーン・オフェンスの形にならないような工夫が必要ではないのか。その為には「ディフェンス陣間とMF間の横から横、前から後への絶え間ない前進することがないパス交換の連続戦法」からは可及的速やかに脱出して欲しいのだ。バスケットボールのようなセットオフェンスの形は好ましくないと思う。浅野拓磨や伊東純也のような俊足の飛び道具や三苫薫のキープ力を有効活用すべきではないか。


森保一監督の選手起用の大失敗だった

2022-11-28 08:44:13 | コラム
だから言ったじゃないか:

昨日の朝、私は「FIFAのランキングでコスタリカよりも上位にある我が方が負けてしまうこともあり得る」と、我が方が上位にあったドイツに勝った例を挙げて、言わば予言してあったのだ。結果としてはそれが当たってしまったことは極めて残念だし、腹立たしいことだった。本稿の内容は殆どが森保監督批判になってしまうと思うが、宜しくご理解の程を。

試合開始前の6時頃だったかに二男から「先発メンバーを大幅に入れ替えて、特にFWには・・・」と知らせてきた。「また、森保監督がやったか」と、この時点で既に慨嘆させられていた。森保監督の常套手段に「結果が良かった後の試合に先発メンバーを大幅に入れ替えて、言わば二軍のようにしてしまうこと」があるのだ。

これはW杯の地区予選などの段階で選手層の厚みを増すことと、その底上げには結構な手法だとは認めるが、まさかこの手をW杯本番の試合にまで使ってくるとは予想していなかった。要するに「やるべきではないことやってくれた」のである。

入れ替えた顔ぶれの中に上田綺世がCFの位置に入っていたのを見て、忌憚のないところを言えば「これは寧ろ最悪」と感じた。それは「彼はフル代表でそのようなポジションにおくべきタマではない」というのが私の評価だったからだ。同様に相馬を入れていたのも失態だと見た。私の評価では彼らは二軍の選手だから。

それは、彼らが優れているとかいないとかの論議ではなく、大事な一戦に二線級を使ってきたことが誤りだと指摘しているのだ。ドイツ戦で効果があった浅野、南野、三苫、伊東純也、久保等々最初から並べておくべきだったということ。私にはコスタリカを「与し易い」と見たのではないかとすら感じさせられた先発メンバーだった。果たせるかな、試合開始の前の画面からの「閃き」は「これは負け試合だ」だった。そして、「閃き」が外れるのを試合中に祈り続けていた。

後半になったから小刻みに浅野から起用していったのも、監督の誤り。あの、私には劣勢と見えた試合の流れを変える為には、交替できる限度の5人を全て一斉に投入すべきだった。だが、森保は動かなかった。思うに「余程、この格落ちの顔ぶれでも勝てる」と踏んでいたのだろうとしか読めなかった。

読んで頂く方には不愉快だろうが、次に「致命的にダメだった作戦」を指摘していこう。それは森保イズムとでも形容したい「ディフェンス陣間とMF間の横から横、前から後への絶え間ない前進することがないパス交換の連続」である。その後陣でのボールキープの間には、既に批判してあったように「前線に位置する者たちが静止画のように動かないこと」を挙げたい。この結果で何処かの局のアナウンサーが言った「圧倒的にボールを支配しながら・・・」となったのだ。

私はコスタリカがスペインに大敗した試合を見ていないので、何とも言いようがないのだが、手負いのコスタリカは非常に積極的だった。彼らは非常に寄せが早かったし、セカンドボールへの出足も素早く効率的に奪い取って、我が方の二次攻撃の余地を与えなかった。しかも、ハーフライン近くで後陣でのパス交換を続けていた為に、コスタリカ陣地に殆どスペースを作る余地もなく、引いて守っている相手の壁に当たっては突き返されていた。そして、焦り始めたのだった。

三苫がキープしたら深く侵入できたのだから、あの形をもっと活用すべきだったのではなかったか。伊東純也だって使えただろうし、浅野にスペースを目がけて走り込ませる手だったあったはずだ。それにも拘わらず、真ん中から突っかけては跳ね返されて時間を浪費していた。私には監督に「このティームで点を取る形はこれで」とハッキリと全員に徹底できていなかったのではないかのと、疑いたくなった。

以上のように非常に不愉快な100分ほどの試合だった。私は「勝てたはずの試合だった」とまで言わないが「少なくとも、引分けにはできたはずだ」と考えている。この敗戦で予選リーグ勝ち抜けの可能性は消滅したと思っていた。だが、意外にも「そういう可能性はあるかも」と見ていたスペインがドイツに引き分けたので、微かに「スペインに勝てれば」との可能性は出たようだ。

自分たちがドイツに勝って、コスタリカに負けた以上、格上のスペインに勝てる可能性だってあるのではないか。スペイン戦には森保監督が必ず第一線級の者だけを先発メンバーに並べてくれれば、ドイツ戦にも増した“upset“の可能性はあると期待しよう。

余りに残念で悔しい敗戦だったので、つい厳しく森保監督を批判したが、これも我が代表を思えばこその批判なのだから、何卒悪しからず。