気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

多次元の話(6)魂の多次元ネットワーク

2016-05-06 10:51:50 | 宇宙的気付き
●人も多次元生命体
多次元的なこと、それは人間とは異なる何か別の世界の構造のことではなく、

いわゆる「魂」そのものが、多次元構造をしているということを意味している。

本質の自己が多次元構造であるからこそ、その観察する世界が多次元構造で投影されるということでもある。

繰り返しになるが、存在の根本にあるエネルギー、

その無限に連なる波動は様々な周波数帯域を作り出す。




本質の自己、真のわたし・・真我、のことを「魂」などと言う場合もあるが、

要は、存在の根源たる、神なる本質が、様々な自己にその身を変じて、

多次元宇宙、諸世界を創造・観察・探究している仕組みとなっているということ。

もとはひとつの・・<わたし>・・いわゆる「神」が様々な神々あるいは不滅の魂となって、

存在の諸相である多次元世界を創りだして、自らが体験しているということ。


●宇宙も星々も、多次元意識体

今地球から観察している3次元的宇宙も、その1つの周波数帯域のことで、

空間として無限遠方に広がるこのハッブル的膨張宇宙も、その1つの帯域を見ているということだ。

また、地球という惑星も壮大な「魂」であり、当然ながら、それそのものも多次元構造であって、

我々が家を建てビルを林立させている、地球の地平面での時空間、3次元的時空間さえも、

その多次元世界のひとつの世界相に過ぎない。


ヘミシンクで説明している地球の周囲の多層の信念体系世界、フォーカスレベルと言われるものもそれに符合している。

地球だけが宇宙での生命の惑星だとかは、まさしく地動説のようなものであって、

人類の小さな独善的な認識が全てだと言っているに等しい。


人間は死んだら終わりの肉体存在でしかないという常識?観念や、

例えばUFOなるものが世界各地、様ざまに観察されていても、

世間一般では、未だなんのことかわからないという有様は、

今まで人類全般が独善的な支配観念に閉じ込められていたことを示すのである。


●地球も多次元意識体

そう、実際のところは、地球という壮大な多次元魂の1つの相の中に、

鉱物、植物、動物、人間という発展途上の魂達が、その成長のために存在しているということになる。

そうして、生きるとか死ぬとか、そういう次元間の相転移をしながら魂の経験を積んでいるということなのだが、

しかしながら、この世界そのもの、いや人類意識レベル自体が粗いために、

毎回転生して生まれてきても、その多くが幼児期の教育、無知な大人たちの「良かれと思う常識洗脳」のために、

魂の記憶を思い出すチャンスが潰されてきたとも言えるだろう。

たまに前世を語る子供が現れても、「何変な事言ってんの、この子は?」みたいに、

何かの間違いのように無視されてきたことだろう。


●今までの地表3次元世界

目の前にある物質の諸形態のみを信じる場合、あるいは、

世間や他者が与えるものでそのまま人生を生きている場合は、

他者による支配という「揺りかご」が、無意識に心地よく感じる段階であり、

自らの意識と意図に気付き、その創造性を駆使し始める前の表現段階の魂とでも言えようし、

自信満々、まっこと3次元世界の常識人ではあるが、無知と無理解の文明のなかで、

善や悪、快楽と苦痛という2極性で醸し出される極端な経験での英知の蓄積によって、

真我である魂の無限性、その多次元性に気付いてゆく仕組みだったわけだ。


なるほど、ここは魂の修行のための地球学校というのが相応しく、

特に今の時期は、その学校が進化しつつ、模様替えを始めているということに、

魂の年長者たちはもう既に気付いているかもしれない。

またある意味で、地球も多次元意識生命体であれば、リインカーネーション(生まれ変わり)もして当然なのである。


●曼荼羅、魂の仕組みと多次元ネットワーク

仏教でいう「曼荼羅」は魂のネットワークを図解したものと言えるだろう。

大小の様々な<仏>が、「多次元的なネットワーク」を構成している・・・、





誰も皆、・・・その時々で・・・進化の途上で・・・、

その中のひとつである「わたし」なのだ。

しかし、すべてはひとつ・・それに気付けば、実に目出度いことではないか。

誰も皆、よぼよぼとして、弱弱しく、ポツネンと孤立している、スタンドアローンの、

それも死んだら終わりの儚(はかない)肉体存在・・等ではない。

漠然とした世間がいつも言う事が真実などではない。


生れて死すべき<肉体自我>としての、個人の<私>は儚く見えるが、

その大きな母体である、より大きな<わたし>は・・多くの個人我を超えて存在している。

言い換えれば、大いなるわたしが・・様ざまな個人我になり経験や英知を蓄積してゆくということだ。

今のここ時、この場所のあなたやわたし達も、元はひとつの「無限の叡智」そのものだが、

様ざまな存在層、次元を通して諸世界を体験しているということ。


より大きなわたし、高次の自己、それをハイアーセルフ等と言っているが、

あなたを含んでいる高次の自己、ハイアーセルフがあり、

さらにそのハイアーセルフを含む高次の自己というネットワークで、

大いなる全てのわたし・・I AM  に繋がっている。


すべては・・様々な段階の・・I AM・・われあり・・

すべてはひとつの意識でつながっているのだ。




大小の仏が描かれているのは、

個別のわたし・・神の派生意識が、

いわゆるところの「悟り」「魂の開花」・・の程度に応じて、

大きく、小さく描かれるだけのことであり、

例えば端末PCの情報そのものは、端末にありつつ本体サーバに確実に接続されているように、

無限に続く広大無辺な・・わたし・・のネットワーク全体が・・本質のわたし・・、

その究極のわたし・・至高の存在・・「真我」だ。

そう、それぞれのあなたの本質は、

真我、本質の自己・・究極のわたし・・宗教的に言う「仏」「神」・・である。

余計なお世話だが、ニヤケテ、ボヤケテいる場合ではないし(笑)、

あなたもわたし達も、次元降下先の肉体衣服ではないし、死んだら終わりなどではないのだ。


●全てはひとつ、また無限なり

魂の展開、それらは多次元に渡って、無限数であり、またひとつである・・。

一は即ち・・多なり、 多は即ち 一なり・・・・

禅で出てくる話が、ピンと来れば・・それはネットワーク間に生じる「直観知」が起動しているとも言えるかもしれない。

分ったようなわからぬような・・なぞなぞゲームではなく、真実の語りなのだが、

論理、物量加減算、大きさ・重さの3次元観念世界では、これが何が何だかで、

「無限」を扱え、測れ、と言われているようで、なかなかピンとこないかもしれない。


●物量思考の暗いトンネルをくぐったか

なぜなら、それほど競争や物量の計算ばかりに明け暮れ、勝った負けた、

あれが旨い、これはまずいとか、

何千円になったとか、第何位だったとか、どんだけ獲得したとか達成したとか、

そういう唯物偏重文明のただ中にいたからには、

本質では全ては神である・・という言明さえも空しく響き、

自らの無限性さえも、すぐに獲得すべき物量でイメージするような、

そういう物量思考のマトリクスに囚われていたのであろう。

・・・
●魂の進化とは、もとはひとつ・・への帰還の旅

高次の自己、それをハイアーセルフ等と言っているが、

あなたを含んでいる高次の自己、ハイアーセルフがあり、

そのハイアーセルフの中に、今ここの次元に、・・生きている・・今の私がある。

すべては・・様々な段階の・・I AM・・われあり・・

ひとつの意識でつながっているのだ。


昔から不滅の「魂」といっているのは、これら「霊的仕組み全体」のことと言えるだろう。

実のところ、それぞれの私という肉体自我、「個人我」もこの無数の中の・・

もとは、ひとつの「わたし」以外の何ものでもない。


この世界でごく一般に、生きる、死ぬ等と言うのは、

より高次元のわたしに帰還する、あるいは逆に多次元に派生するということで、

魂の相転移、次元降下、次元上昇であり、それによって

魂は・・もとはひとつ、あらゆる全てへと帰還する旅の途上にあるのだ。

今までの地球次元の特殊性とは、唯物観念支配が濃厚が故に、生れて以降、思考の罠にはまり、

何度も無意識的に繰り返し転生をするという仕組み。

魂が・・閉じ込められるという意味で、宇宙の牢獄等と言う場合もあるが、

悟りや解脱とあるいはアセンション等と言われてきたように、

そこから脱出する為にはかなりな英知、エネルギーを要したわけだし、

それもこれも、今までのこの世界が極めて低エネルギー世界、

荒い波動で満ちていた世界であったからだと言えるだろう。


しかしながら、気付ける人には解るのだが、それは今はもう過ぎ去った時代なのである。

そう、個人が別箇に切り離された時代、分離の時代は終わりを迎えている。

今残っているのは、古い思考のパターン、癖になった分離感だけなのだ。

・・・

●分離から統合へ

本来、すべては・・様々な段階の・・I AM・・われあり・・

もとはひとつの意識でつながっている。


ここで<われ>・・というのは、個人、あんた、おれ、儂、僕・・という個人名・人称のことではなく、

I am・・我、われ・・という自己創造・存立原理そのものであり、


創造主、根源神、神様、仏さま・・表現はなんでも良いが

全てであり、全ての元である「無限」のわたし・・意識そのものだ。

そして、あなたもまたそれである。

だから、小さくとも、今・・わたしという「自意識」がある。

●神々の時代

それぞれの私の・・本質は、

真我、本質の自己・・究極のわたし・・本当の意味での「仏」「神」・・である。

他人事でなく、すべてそれぞれの・・わたし・・意識の中に在る・・それ。

だから、あなたも私たちも、いわゆる「神」と言って良い。

それに宗教的違和感があれば、

「わたしとは・・つまり、無限の叡智の顕現である」と自覚すべきところだ。


言葉というものはいつもその限界を感じるものだが、

あなたが神だと言う意味・・・、

・・・直感で理解可能だろうか。




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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宇宙の原初・・我(われ)・・在り

2016-05-01 11:55:53 | 偉大なる先達の言葉
(「I AM THAT・・」より)



探究者とは自分自身を探している人だ。

「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。

結局、あなたが確信できる唯一の事実とは、

あなたは在るということだけだ。

「私は在る」は確かだ。

「私はこれだ」は確かではない。

真実のあなたとは何なのか

それを見いだすために努めなさい

あなたが何なのかを知るために

あなたが何でないかを知りなさい

あなたではないものすべてを発見しなさい

身体、感情、思考、時間、空間、あれこれ

具象であれ、抽象であれ

あなたに知覚できるものはあなたではない

知覚するという行為そのものが

あなたの知覚するものが

あなたではないことを示している

マインドのレベルにおいては

あなたは否定的言語でによってしか描写できない

ということをより明確に理解するほど

あなたの探究はより早く終焉を迎える

そして、あなたが無限の存在であることを悟のだ

----

わたしは在る

そして私が在るゆえにすべては在る

「私は誰か?」という質問に答えることは出来ない

いかなる体験もそれに答えることは出来ない

なぜなら、真我はそれを超えているからだ。

 (シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ)

・・・・

外の世界の様々な出来事や事象に意識をやっているかぎり、

いつまでも外の世界に振り回されることになる。

外の世界の中に、雑多な事象現象のなかに、

か弱く小さな肉体としての私が存在していると想っているかぎり、

その閉鎖された観念世界、一見安定なマトリクスで苦労することになる。

いままでのように。


なぜ苦労するかといえば?

なぜならば、それは本来の姿ではないからだ。

苦労や苦痛は他者があなたに押し付けるようにみえて、

まったくそれは違っている。

社会が悪いせい? その中の人間達が悪いから?


実際、それも違う。

押し付けられるような、押しつぶされるような、

小さくか弱い「あなた」をそこに作り出しているから、

怯えて、怒って、嘆き続ける・・

小さくか弱い「わたし」をそこに創りだしているからこそ、

わざわざ、それに感情や思考のゴミを押し付けてくる他者がいてくれるのだ。

どうしてこんな風なんだろうか、こんなに不幸なんだろうか、

どうしていつもどこか不安なんだろうか、

どうして・・・。


苦痛や苦労は・・・「それは違うよ・・」という合図。

あー、嫌だ・嫌だ、こんな人たち、こんな世界・・と思っているならば、

その人は、嫌な目に合う小さき人を、好き好んで自ら演じているということだ。

えー、ばかな! 自分が悪いだと? 俺は悪くない! いい加減にしろ、と、

こころが感情に震えて怒り狂うか、しゃがみこんで嘆き悲しむか、

恨みに燃えて復讐するか、逃げて隠れておびえるか・・・

そういうこころのパターンの繰り返しだっただろう。


あなたの意識があるからこそ、世界を見て、聴いて知ることが出来る。

あなたの意識があるからこそ、人々を観て、聞いて関係することが出来る。

極めて、極めてシンプルだから、何千年も気づかぬこともあるものだ。

本来の自己を忘れるこの世界で、忘れたまま、生れては死んでの繰り返し、

それすらも覚えていない・・この世界における、そんな魂の学習は終わったのだ。

それとも、苦痛と快楽の狭間の・・経験を・・もっとやりたいのだろうか。


あなたの意識、われ在り・・という自己認識、

それがなくて世界も宇宙も・・観測できないことを思い出そうか

この世界に生まれる・・という物語が無くて、この世界を知ることは出来なかった。

そうだろう?

意識を有する人々がいたからこそ、世界の記録が残っているのだ。

過去の歴史や事実記録さえも、そういう他者たちの知覚の寄せ集めに過ぎす、

例えば、宇宙の中にどこにも人がいなくて、どうして世界を認識できるだろうか?

宇宙や自己を「認識する」働きが無くて、どうして宇宙やわたしがあるだろうか?



宇宙のどこでも、その叡智を全て自己投入しているのが創造の根源ならば、

無限の愛や叡智が、どうして出し惜しみをするだろうか。

嗚呼、そう! 自らが・・本質においては、

無限の叡智、生命の根源であることに気づかなければならない。



世界が有って、宇宙が有って、・・わたしがあるのではなく、

わたしが在るからこそ・・・世界や出来事、多くの人々を知覚できるのだ。

そういう無数のわたし達が在るからこそ・・多次元宇宙、存在諸世界が展開されている。








本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。






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