気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

マインドの話(5)本当は楽しいのが「楽」

2016-12-05 07:26:14 | 宇宙時代の考え方
人生とは、例えば「ある映画」に見入るようなものである。

普通、映画とは、人が日常の生活モード(3次元レベルの感覚)から、
まったく違う物語を展開するスクリーン映像に見入りつつ、
あたかも別の3次元物語に入り込んでいるかのような臨場感を与えるものだ。
そんなこと誰でも経験があるはずだ。


この人生も、それが多次元的な仕組みといえばそうだが、
実際まったくそのようなものなのである。
覚者以外はほとんどがそれに気づいていないだけのこと。
知っていた?

<真実は最も身近なところにある>というのは「真実」である。
絶対に・・どこか遠くにあるわけではない。
常に・・あなたの・・今・・この瞬間にある!

何か抽象的、思わせぶりな示唆などではない。
これは哲学的、宗教的な示唆ではなく、事実なのである。
「今・・!」にすべてがある。

今の生活の現状やら、環境条件、物の多さなどとか、
全くそういうというものではなく、
それら枝葉のような観念、常識、物質という外のガラクタおもちゃではなく、
今・・在ること・・そのもの・・、
これからすべてが生じている。

これ、というのは、<わたしは・・在る>・・こと。

在ること・・は事実だが、
社会の現実なるもの、思考や観念加工物質、人の決めた名誉、序列、
それらはすべてマインドのつくる仮の観念、仮想現実なのだ。
幻想、イリュージョン、仮想現実である。
実にリアルに事細かく出来ているように見える・・「幻想」である。

あなたの思考・想念は常に、ころころ変化するだろう、
マインドはそういうものであり、だから仮想、「仮の想い」なのだ。
真実ではなく、仮の想いを大勢で常識、事実として固定することで、
そういう観念世界が現れているのである。
地域、国家、地球人類の常識なるものは、仮想現実で出来ている。
どれかが真実・・なんかじゃない。

常に移り変わる多様性こそがマインドの本質であり、
そのことを十分に把握することが「悟り」であるともいえよう。

そう、十分に・・だ、十分とは嫌というほど、
また飽きる・・飽和するという意味でもある。
なるほど確かに、苦労は買ってでもするものだ(笑)。


この世界のどんなものも、どんなことも、
決してそれが真実なのではなく、
マインドの本質である多様性の無限に展開する姿なのである。
宇宙は・・それだ。
あなたも・・それだ。



映画の話だが、
2次元平面で展開するスクリーン上の「物語」のなかに、
意識を集中するのを持続することで、
その状態ではあたかも「そこに居る」かのような臨場感があるわけだ。
そうではないか?

自己の意識を投入、つまり集中することで、
そこに仮にでも・・何かのリアリティーを感じているために、
手に汗握るとか、ハラハラ、ドキドキすることになる。

内容によっては嘆き悲しみ、理不尽な悪役に対して憤りすら覚えるわけだ。
「あっ、あの野郎っ!何てことするんだ・・!」(笑)

しかしながら、ふと気づけばこれは映画だったと気づく。
当然ながら、視覚や聴覚という感覚だけで、味覚や臭覚、
そして皮膚感覚での臨場感ではないために、
これは映画だということがすぐにわかるというよりも、
常にそれを知っていながら、部分的な臨場感を楽しんでいるわけである。

実は、
この人生も全く同じように展開しているのだが、
母親の子宮から身体が成長し、えらい苦労をして生まれてくる、
そしてその身体の経験を中心として、<私>という自我意識が成長するという、
そういう目茶目茶シリアス?な設定になっているわけだが、
これも仮想現実なのである。

この地球という小さく閉じたような世界に生まれてくることも、
実に・・それも仮想現実なのだ。
とはいえ、映画のような2-3次元的なものではなく、
もっと多次元的なものであるがゆえに、
それに気づかないだけの話である。

どうして映画を見るのかといえば、それが楽しいからだ。
楽しくないものはまったく見ない、・・そうだろう?

シリアスなもの、野蛮なもの、感動で涙するもの、あるいは恐怖のホラー、
いろいろあるが、その時々の心境に応じて、様々なものを観たかもしれない。

しかし、そういう映画をなぜ観るかといえば、実際に楽しいからなのである。
とはいえ単純なお花畑的な楽しさというものではなく、
悲惨な戦争も、恐怖のホラーも、後味が悪い結果になったとしても、
興味があってそれを楽しみたいから観るのである。

人々は、何をそんなに必死になっているのか?
そういう風に感じないか?
次元構成は違えども、映画のように楽しめるのではないか?
もっとも、楽しみとは「味わい」の実感のことで、
肉体感覚の心地よさや快楽、安楽のことばかりではない。


あなたやわたしたちは、地球物語中心となっている主人公に
仮に自己投入して楽しんでいるわけだ。
その主人公とは・・この世界に居る、個人としての「私」
ハラハラ、ドキドキしながら、いつのまにか感情移入をして、
あたかもそこにいるかのような臨場感を楽しんでいるわけだ。

映画もそうだが、本質のわたし、映画を観ているわたしのほうは
いつの間にか映画の主人公に成り代わってしまい、
ある部分マジに真剣になってしまうもの。

「あー、やばい!やばい!、追手が迫ってきた~!」
「あー、逃げ道はそこじゃない・・あっちだ~」(笑)

しかし、そうでありながら、いつでもこちらの自分に戻ることができる。
活きて死ぬ、来ては帰る、生死の仕組みも、
まさにそうでなければ人生劇場を楽しめないではないか。

すべては恩寵であり、愛であるというのは、
全くそういう事なのである。
・・・

映画やビデオは主人公などに感情移入しつつ、
その仮のストーリーの臨場感を味わって楽しんでいる。

あなたはその目の前に展開される、
スクリーンの2次元平面に展開される映像・音声の中に、
一時的に「意識を投入」することを行っているのである。

例えばネバーエンディングストーリー等のように、
物語本の中に入り込んでしまい、
その中で展開する物語に巻き込まれて冒険をする設定があるが、
これは単なる小説の1つの設定方式というわけではなく、
今の我々の入り込んでいるこの世界の設定と同じことなのである。
宇宙という無限時空舞台は・・多次元構成なのだ。

それら全ての元の根源、宇宙の興行主・・というか、神というか、
宇宙意識というか、宇宙マインドというかそれで出来ている。
顕れたものは全て「マインド」の結果である。



そう、現実とはバーチャル・リアリティーのことだ。
仮想という意味は、「仮の想い」・・仮の思考、想起・・、
常に変化してやまない・・マインドが創り上げている。

物質的なものが、硬くて重くてどうしようもない・・
そう思っているならば、
あるいは思い込んでならば、

あるいはみんなが言うからそうだと信じ込んでいるならば、
まるでその通りの・・仮想現実の集合世界にいることになる。

たぶん、いま我々がいるこの現実は・まったくそうだ。(笑)
気づいていた?

・・で、同じような繰り返し(輪廻転生)ばかりでは面白くないからこそ、
「ある時」そういう重たい世界から目覚めることになるのである。
あー、この映画はもう十分・・楽しんだ、みたいな。

あれ?、これって本当・・?
なになに?・・なに!
わたしはだれ?・・ここはどこ?・・(大笑)、
・・わたしとは何か?

(霊的)探求とはそのためのものなのだ。
そりゃそうだ。

本質的なわたしたちは、
この3次元スクリーンの中にいるわけではない。

私という特定個人も、その世界も、魂の経験している
ある次元世界の物語体験だ・・という気づき、

それぞれのわたしたちが、
この次元を超えた存在であることに気づき始めるということだ。
この記事を観ているあなたは、多分そうだ。


ニサルガダッタ・マハラジはかつてこう言った。

「わたしはかつて生まれたことも死んだこともない」・・と、

ええー?!と思うかもしれない、
そればっかりはねえ・・。
覚者である、ニサルガダッタ・マハラジも信用できない!
・・と思うかもしれない。(笑)

常識や経験から言って、個人は・・生まれて死ぬというわけだが、
えー、それって真実だろ?・・と思うかもしれないが、
それも物語のストーリーなのである。


世界とは・・、変化してやまない仮想現実の中の物語であれば、
それを観ている・・、味わっている、体験している・・
本質のわたしは・・かつて生まれたことも死んだこともない!

まったくそうだ。

あなたはどう感じる?

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