気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(52)今ここ・根源・空が在る

2017-12-08 06:35:36 | 真我実現シリーズ
わたしは肉体である・・という、「思考」が、3次元的自己を創っている。
それは「思考」であることに気づかなければならない。
マインド、こころで創り上げているのだ。
決して、物質が作っているのではない。

ここがなかなか越えられないのだ。

目の前にある、自分の身体でもある「物質」なるものが、
自己とは無関係に、そこに絶対的な存在としてある・・という感覚がある。

物質を手でつかみ、冷たく硬く、重く、あるものは動かしようもない、
そういう、自分とは異なる、いや自分自身をも作っている「物質」のなかにいる。
そうではないか?

しかしながら・・・
それは思考、観念であることに気づかなければならない。
思考、観念といっても・・実に深く刻まれた、不動の信念のようなもの、
ペテロの言う、岩に教会をたてているようなものだ。(笑)
しかしながら、
それは・・意識の派生の思考、観念で作り上げられた投影像に過ぎない。

どうしようもない重い物質まみれの中に居る体験世界、
それを思考でこじ開け、加工し、文明を作り上げる・・
そういう設定・・の世界を人類が作り上げてきたということだ。

すべては意識の波の上に出来た高調波的・派生波動であると、
気づくのは確かに、実にむつかしい。

ところで、
あなたはいまでも、
世界の中に、宇宙になかに・・私個人がいる・・と考えているだろうか。
そうであれば、
それは、私が肉体である・・という観点から言っているだけだ。

たしかに肉体は月より小さい、肉体は銀河に比べて微小である。
まったくその通り。

しかしながら、わたしは”肉体単体”ではなく・・「意識」なのであれば、
大きい小さいの比較を超えていることがわかるはずだ。

体を通して観察している「意識」には大きいも小さいもない。
また、意識で観察する無限大の対象なるものは、
あなたの意識の・・・投影像なのである!




眠り、夢見、目覚めた後といわれる、人の全生活の中に、
すべてを通じてあるのは・・肉体ではなく、思考・心ではなく、
「意識」と言うべき・・それなのである。

あなたが世界を見ているから、あなたの世界はある。
わたしが在るからこそ、世界・宇宙がある。

あなたがが眠っているときは、まったくの無であるが、
いつか夢見に目覚め、そしていつもの現実に目覚める。
いつも気にしているのは、
肉体五感を通じた「現実世界」という、目覚めてからの世界だけであろうが、
眠り、夢見、現実、・・・
それらのすべての背後にあるのは・・「意識」であると気づかなければならないのだ。

思考や感情を個別に生じる意識を、純粋意識・・普遍意識というならば、
すべてはその純粋意識の中の出来事、あるいは創造である。

意識と名づけられる・・それが、永遠の常在・・であることに、
もはや気づかなければならないということだ。
毎日の眠りも、夢見も、目覚めも、
そして、それらの大きなサイクルである生と死も、
まったく同じ「意識」の中の出来事なのである。

転生も、その中での、この世的カルマに引っかかってしまう輪廻も、
同じく”意識”の中の出来事である。

昔からパスカルの”考える葦”などと言われて、そこで終わっていたが、
「考える」・・も意識の”働き”である。
葦が・・足枷(あしかせ)だったわけだ(笑)
わたしは考える・・葦・・でしかない・・という誘導、閉鎖。

しかしながら、
その葦を小さく分解してゆくと・・そこは空(くう)だった。
つまり、
物質を突き詰めてゆくと、原子があり、クオークがあったが、
それは有って無きがごとき、確率的存在でしかなく、
固まった、どうしようもない物質形自体が、
スカスカ、のさらにすっからかーん、の虚空であったわけだ。


そこに微細な波動エネルギーなるものが観察されるが、
その空間占有密度たるや、10のマイナス15乗程度の、
ほとんど全く・・空(くう)であったということだ。

これはスピリチュアルな、気持よいメッセージでもなんでもなく、
事実認識なのである。


それを観察、認識、気づいているのは誰か?
俺たちとは関係ない科学者・・・ではなく、
それは・・それぞれの<わたし>なのだ。

わたしは常在・・意識である。

頭の単なる知識でスラスラ流すのではなく、

意識・・自らの在る・・事実を”見つめる”必要がある。

自己観照は・・・避けて通れない。

投影された外の世界ではなく、
それを有らしめている・・真のわたしに深く気付いてゆくことだ。

それが、般若心経の冒頭にある・・観自在・・菩薩である。



意識の話52・・了
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意識の話(51)意識は常在す

2017-12-01 08:19:07 | 真我実現シリーズ
外の世界を見ているのは・・わたし・・である。
外の世界が・・わたし・・を見ているわけではない。

あなたの存在を四六時中、それとして感じているのは・・あなた以外にない。
あなたの面倒を見てくれた親でさえも、あなたの体のケアをしただけであり、
そこには無条件に愛があったとしても、あなた自身ではない。

それぞれ、世界の存在の根本にあるのは・それぞれの・”わたし”・・なのだ。

大勢の人々、社会、国家、宇宙という壮大な世界であろうとも、
あなたが観察し、感じているからこそ、そこに存在するのである。

あなたが生まれる前に、世界はあった?
確かに、歴史や記録をみて、かつて世界が持続していたと知ることはできるが、
それは、あなたの直接の体験と記録ではなく、また聞きなのである。

宇宙でさえも同じことである。
宇宙という時空間が無限に延びているからと言って、
あなた以上に・・実在性のあるものではない。

これは唯心論、唯物論、陰謀論?という、論・・ではなく、
毎日、毎瞬の・・直接の体験である。

いわばこれは『色即是空』の実体験であると言えよう。
それは頭の理論でもなんでもない。

意識という観点から観察すれば以下のようなこと。

眠りのときは意識が眠っているとされる。
 その時には世界を知覚していない、思考や感情もない。
  つまり私にとって・・現実世界、夢の世界も消えているのである。
  さらに・・わたし意識が自覚されず、記憶もされない。
  そこには肉体体感知覚も、想念もないということだ。

夢見の時には、内面での何かの知覚はしているが、
 その時の世界は、いつものリアルな現実世界とは異なる。
  さらに、その夢の世界が”単に夢だ”と思わず、まじに知覚・思惑している。
  夢の世界での記憶もあり、記憶自体は夢とか現実とかに関係なく、記憶だ。
  そう、夢の世界は・・「想念の世界」と言えよう。

目覚めた後の世界は、いわゆる人が現実だとしている世界は、
 肉体の五感による知覚があり、見る・聞く・味わうという経験や、
  それらに付随する思考や感情が起きているし、記憶もされる。



まとめると、
眠りの時は、「無意識」であり、当然「肉体感覚」も「想念」もない。
夢見の時は、「意識」はあり、「肉体感覚」はないが、「想念」がある。
目覚めた後は、「意識」があり、「肉体感覚」も「想念」もある。

これらすべてに在るのは何か?
常在の事実、実存在とはなにか?といえば、

肉体でもなく想念でもなく、「意識」である。
ここで、眠っているときは無意識だから、そこには意識がない・・ではないか、
と思うだろうが、それは潜在”意識”としてある・・と言えば分かりやすいだろう。

”わたし”という顕在意識を生じる母体である・・”潜在意識”である。
熟睡中は・・顕在化した意識はないが、潜在意識としてある。
顕在意識としてのわたし・・それは膨大な海とその上に生じる波、波頭のようである。

海が意識の大海であり、その意識が無数の波となって顕在化している。
普段人が、意識、意識といっているのは、
表面化した意識、顕在意識のことである。




その顕在意識の波紋が幾重にも伝搬することで
・・思い・感情という・・
明らかな情報を含んだ「活きた想念」が生じるのだ。

普段、わたし・・私と言っているのは、顕在意識である。
明確に何かに・・気付いていること・・顕在化した意識だ。

その背後にあるのは、その意識を生じる母体であるもの・・
一般に無意識と言われるが、無ではなく、潜在意識である。
何度も言うように、無は無いことを意味する概念であり、
無はないのである。



意識を生み出す、さらに想念を生み出す・・元のそれ、
それを潜在意識と言っているが、
それも概念、呼び名のことであって、

それは空(くう)といってよい。
眠りの空(くう)から夢見(想念)世界が生じ、さらに想念系の世界から、
肉体というものを付随した、「現実」という特定の世界が現れている。

眠り、夢見、現実・・の根底には・・「意識」となずけるべき存在があり、
その「意識」の移行に伴って、世界が現れているのである。

それはまるで、すべての背後に、
「意識」という名の、極限まで「微細な波動」が存在し、
その極限まで微細な波動が、その周波数や振幅、位相を変えることで、
様々な表現形を出現させているとも言える。

眠り、夢見、現実という、われわれの存在系、
そのすべてを通じ、常在のものは何か?
真のわたしは何か?

わたしは・・肉体を持っているが、肉体ではなく、
思考、感情・想念は様々に起きているが、想念ではなく、
それらすべてに共通して在るもの
・・・意識、あるいはすべてへの気づき・・である。

あらゆる現象は、出現・消滅を繰り返す
・色即是空、空即是色、
常にその背後にあり、すべての母体であり、
あらゆる時空・存在様式の根源にあるもの、

それは、いつでもどこでもそれで満ちている、空(くう)だ。
身の回りも、身の中も、はるかな多次元宇宙も、
無限に多彩な想念も・・・その空(くう)である。
すべてが空(くう)という究極のひとつによってできている。
それは個人、私、貴方、あれ、これなどが自他一体どころではなく、

すべてが・・わたし・・真我・・なのである。

自他を同じく慈しむことを「愛」と言うならば、
空(くう)は「愛」で満ちているのである。

空(くう)であるからこそ、すべてが生じる。
空(くう)は、あらゆるすべての”充満”である以外に何があろう?
明らかに・・それは「至福」以外に何であろう?

今、本来のわたし・・であるそれ、
すべての根源であるそれに気づき、
自らが・・・其れで在る・・意識的シフトが必要である。
それを実践するのが探究者・・菩薩である。

未だ多くが、それに気づかない無明の世界の中であっても、
肉体を維持し、飯を食い、生活をする以前に、
人間とは本来、真実の探究者なのである。

悟るとか覚醒とか解脱とか、目覚めとか言っていること、
その道程で、様々な気付きレベルはあるものの、
それは、
本来そうである・・わたし・・真我・・を
”意識の底”から真剣に・・思い出す・・意識的行為である。
それは間違いなく、
今まで経てきた想念の騒乱を静めてゆく方向にあるのは間違いない。




ラマナ・マハルシの教え

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意識の話(50)在るがまま・・

2017-11-25 09:47:11 | 真我実現シリーズ
色即是空という言葉で有名な「般若心経」という仏教の経典があり、
その中身は如何せん、その名前は誰しも多少とも知っているはずだ。

多くの人はそれを過去の教えだと考えている場合もあるだろうが、
そうではなく、まったくいつの時代にも、どこでも通用する教えといえよう。
特に、残り少なくなった感がある、今の末法の時代こそ、
その真骨頂があるといえるかもしれない。

実際、どの経典聖典、も本質は同じことを言っている。
その表現、飾りなどが異なるだけなのである。

銭・金・物に追われている忙しい時代に、何の役にも立たない、
何か難解で高尚な教えであると”考える”こと自体、大きな間違いなのだ。

これなども実に、末法の世、迷妄の時代の特徴であると感じざるを得ない。
本当に、人類はこれ以上はない、とんでもない遠くにきたものである。

別に何かの宗教の宣伝でも、何でもないが、

このサイトには、超わかりやすい解説があるので紹介する次第だ。
宗教的色合いはあるが、興味のある、またゆとりのある人は、
般若心経のエッセンスを理解できるだろう。
また当然ながら、既に知っている方も多いかもしれない。

色即是空、空即是色。
空(くう)なんて言われて、なんとなく怖いとか、
また、なんとなく味もそっけもない感じもするものだが、
シンプルなところにこそ・・真実がある。

この般若心経も、若干の宗教的な色合いを除けば、
「教え」というよりも、時空を超えた真実、
存在の・・在るがまま・・を解説しているものだと知るだろう。

ちなみに、
”あるがまま”とは、
そのまま、のんべんだらり、いい加減でも良い・・ではない(笑)
また、裸のままでもなく、欲望のまま、ひずんだ心のまま、わがままでもない。
好き勝手、思惑次第、勝手し放題ではない(笑)
それはマインドのお遊び騒ぎのことだ。

あるがまま・・とは、
在ること・・その状態のこと・・だ。
そのままとは、まんま在ること・・。

究極、まんま・・在ることは・・
突き詰めればそれは・・空(くう)であること、
またそれは、すべてで充満していることを示す。

あらゆる色を集めれば白になるように、
すべての充満は・・空(から)に等しいのである。

時空も物質も、命も無機物も・・そこから生まれて消えるところ。
消えては生じるところ・・あるがまま・・空(くう)。

逆に、そうでなければ、
どうして様々な事物、事象をその中に包含できるだろうか?
いいや、できはしない。





完全なる空(くう)であり、

同時にあらゆるものの充満でなければ、

この宇宙も、どの宇宙も存在するわけもない。

あなたもわたし達も、在るわけもない。

ましてや、苦悩も快楽もありはしない。

次元も諸世界も何もありはしない。







色 即是 空、空 即是 色、

逆に、色でもなく、空でもない。

これはまた、”不生不滅”と同義だ。

ちなみに、即、とはすぐ、直ち・・にであり、
時間やあるいは空間など超えているということ。

また、是・・とは、ただしい、正(まさ)しく・・で。
まさしく・・ただそうであること、あるいは法則とでもいえるだろう。

let it be,
良いも悪いもない。
偉いも卑賎もない。
すべてがOK。


言うならば、・・ただ在るがままに・・在る・・だ。








追記)量子真空に関する某大学の講義PDFは非公開になったため削除しました。
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意識の話(49)眠り・夢・見覚めの あいだ

2017-11-24 08:29:45 | 真我実現シリーズ
人はすでに、意識の観点からすべてを観る時期に来ている。

意識の観点から見れば、わたしとは、
眠り、夢見、そして目覚めた現実という世界にも常在している、それだと気づく。

意識はそれ、眠り、夢見、目ざめの間、常に在るものだ。

そうでなければ、夢見に移行することもなく、
日常というこの世界に再び目覚めることもない。

眠りの間は全然意識が無い・・わけではなく、静まっているだけだ。
それはまさしく、量子真空の状態、基底状態にあるともいえよう。

わたしとは、・・常在の意識、あるいは生命、または存在・・である。

たとえば、人がいつ生まれたのか?という話になると、
この・・「いつ」「ある時」またある「場所」というのは、
常在の意識の・・上の・・ある出来事であるということになる。

眠り、夢、目ざめ・・?
なんという刺激のない話をしているのかと思われるだろうが、
このわたしたちの・・常にある・意識・の事実を知ることは、
何をおいても重要と言わねばなるまい。

重い観念、歪み切った想念のマトリクス世界から、
いや、気づかず知らず行われる、不都合で不本意な輪廻の繰り返しから、
ようやく離脱する意識レベルにまで行くためには・・だ。

そうでなければ、気付くことも、またその必要もありはしない。
・・・

常在の意識、存在、あるいは魂と言おうか、
人は皆・・、ある時、ある所で・・目ざめた・・。
それが生まれたということだ。

24時間という小さなサイクルではなく、
それらを含む、意識・生命の大きなサイクル上での話だ。

この逆は眠り、あるいは死ぬとか言われる意識の遷移である。
生命というのは具象化した肉体形態、知覚している現象・・ではなく、

それらを含む全包容的な意識・生命なのである。

わたしが肉体であるならば、それは生まれて死んで終わりである。
それが世間一般に執拗に信じられていることだ。

わたしがそれを超えたもの、意識、魂、真我・・表現は如何様にも、
そうであるならば、生れて死んでも、

それは <わたし>・の中に起きる出来事なのである。

・・・

もともと、われわれの周り、内部すべて満たしているのは、
空間と言われる、物と物の間・・空(くう)である。
概念でいえば、無ではなく、空の状態のことだ。

空の中に様々なものが出現・消滅している・・、これが現実である。
そこに様々な人間の想いが組み合わされて、追加工されているのが、
この世界なのである。

これは大勢の人が気づいているか、賛同を得るかどうかに関係なく、
また多数決もお墨付きも全く関係なく、
古来から言われてきたこと、
そしてようやく科学技術によっても知られることになった、
真の我々の・・現実であると知らねばならないはずだ。

たとえば、
良く言われる・・現実が、現実が・・という騒ぎは、
実に・・空の中に描かれたマインド、信念・観念・概念の騒乱に過ぎない。
環境の中の身体という五感の知覚によってリアル化されてはいるが、
実際によくよく調べるならば、
いかようにも幻想を創り出す
マインドの物語なのであると気づけるのである。

すべては意識の中にあり、
あらゆるものは、
そこで生じる様々な想念の描く物語である。

そう、いままでは、
物には気づけるが、意識に気づかぬ惑星生命圏であったろうか、
今、それが静かに、大きく変貌していることに気づけるだろうか。



敏感な人たちは、あるいは厭世的な気分の人たちは、
今か今かと言われていた、その大団円たる騒ぎが起きようとしている、
ザワザワした雰囲気を次第に感じ始めているかもしれない。
いや、まったく何も感じさせられないまま、
TVやメディアの吹聴する、いつも何も変わらない、
肉体の快楽を餌にした、負債と消費の刺激の世界にいるかもしれない。


人まで進化した魂は、壮大な想念の創る世界で、
ある時空のある肉体に自己同化する。
生れてから、肉体を自己だと信じるという事、
そうであるからこそ、その肉体の快楽と苦痛の狭間で、
何度も苦しむことになるわけだが、それがマインドがゆえであることを、
この簡単な事実を、肉体自我は何としても認めたがらない傾向がある。
当然ながら、肉体自我は一時の存在であるということを知っているためだ。

自己が肉体、物質であるという信念体系にあるのは、
それはまるで、閉じられた、回転式洗濯機の中でもまれる様なものであり、
頑張れがんばれの見えない掛け声とともに、
生まれて死ぬを繰り返し、一旦歪み切ったマインドが、
洗われつつ、いつかまっさらになるまで、
幾千年も通過するような世界であったと言えるだろう。

意識としての人は、その物語の中で自己自身の臨在観を感じつつ、
また、本来その物語を観照する者でもあることに気づけるだろう。

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意識の話(48)想念を見るもの

2017-11-22 07:34:22 | 真我実現シリーズ
主に意識的であるのは、、肉体の知覚や思考・感情が生じる、
いわゆる目覚めている間であることは、やむを得ないことではあるが、
それが持続反復することで、
私とは肉体である・・という信念に固定されるのである。

毎朝目覚めるがごとく、生まれてから物心つくこと、
親や家族のもとで次第に成長してゆく過程で、
その信念が強く刷り込まれてゆく、というよりは、当たり前の真実として、
振り返ることもない、絶対の信念となっているわけだ。

わたしは肉体個人だ、という信念だ。

大勢の集団で漠然とながら、それを当然のように行動しているため、
それが「信念」となり、社会として事実化しているだけの話なのである。
それらの持続する体験と思考・感情の集積が、
この世界での人生なのだ。

しかしながら、
自分が肉体であると・・するのは明らかに「思い」である。
そもそも、思考、認識力・・それらがなければ、何があるだろう。

何も考えなければ、
あなたも単なる「岩」であり、また岩であることさえも自覚できない。
いわば、存在の無・・・である。

・・でもそんなことはない。

朝目覚めてから、わたしは、わたしとしての意識がある。
生まれてから・・わたしは・・ずっと在ると・・意識している。
元のもとは・・そこから起きている。

世界を知覚している、その経験によって生じる様々な「思い」があり、、
肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを見ることで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。

「あんた、そりゃ”思い”というより、事実だろ?」
そう思うものだが、(笑)
そう言うのは・・誰だろうか?
大勢の他人様か?・TVやネットか?・、

いや結局は・・「わたし」・・がそう思っている、
あるいは感じている、いや観じているのである。
思うのは・・それぞれ・・わたし以外にない。

肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを観察することで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。

ところが、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。

それが”わたし”といわれるものだ。

肉体の姿かたちも観察対象だし、
皮膚の感触も、五感での経験の同じく・・知覚、観察である。

もとにあるのは・・
気づいている・・意識している・・だ、

意識による知覚、観察、経験の次に、
それに対する「思い」が生じるのである。
「奴は嫌いだ、わたしの顔は美人とは言えない・・」等だ。(笑)
次といっても、ほぼ同時であるため、
深く自己の内面を見なければ・・ナカナカ気づけない。

このため、昔々から自己観察、修練、瞑想などというものがある。
自己を観察せずして、どうして本質のわたしに・・気づけるだろう?

勝手にいうのもなんだが・・・、
ある意味で、「こういう記事、なんか、やばくね?・・」と感じるならば、
それは肉体自我が敏感に反応している証拠であろうか(笑)。
実に肝心なところかもしれない・・・、

・・・
私たちのありさまを、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。

者・・というけれど、誰かの個人、私個人・・ではなく、
それが普段、多くの人が感じている・・わたし・・である。

わたしとは・・意識・気づきから・・生じているのだ。
その・・わたしの周囲に・・様々な思考や感情、思いが渦巻いている。
色々な思い・感情という「取り巻き連中」である。(笑)

そのさまざまな思いや感情で色付けされ脚色されたもの、
あるいはこの世界特有の支配的観念で加工されたものが、
私という肉体個人・・である。
・・・
原初の・・気付きによって、
充満する空(くう)から生じた意識の波紋、
それらは十重二十重の想念の波となって、
諸世界という無数の物語を創り上げている。

この世の目覚めも、壮大なその物語の1幕なのである。

むろん、この世界にあっても、
量子真空ともいわれる空(くう)に生じる、微細エネルギー、
あるいは意識の波によって創られた、
実にリアルでありながら、決して不変なるものがない、
いわゆるところの幻想世界なのである。

様々な世界、人生物語を創っているのは誰か?
実際に、わたし・・・の想念が・・その作者なのだ。

この世に在る・・ことも、それがゆえだ。





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