主に意識的であるのは、、肉体の知覚や思考・感情が生じる、
いわゆる目覚めている間であることは、やむを得ないことではあるが、
それが持続反復することで、
私とは肉体である・・という信念に固定されるのである。
毎朝目覚めるがごとく、生まれてから物心つくこと、
親や家族のもとで次第に成長してゆく過程で、
その信念が強く刷り込まれてゆく、というよりは、当たり前の真実として、
振り返ることもない、絶対の信念となっているわけだ。
わたしは肉体個人だ、という信念だ。
大勢の集団で漠然とながら、それを当然のように行動しているため、
それが「信念」となり、社会として事実化しているだけの話なのである。
それらの持続する体験と思考・感情の集積が、
この世界での人生なのだ。
しかしながら、
自分が肉体であると・・するのは明らかに「思い」である。
そもそも、思考、認識力・・それらがなければ、何があるだろう。
何も考えなければ、
あなたも単なる「岩」であり、また岩であることさえも自覚できない。
いわば、存在の無・・・である。
・・でもそんなことはない。
朝目覚めてから、わたしは、わたしとしての意識がある。
生まれてから・・わたしは・・ずっと在ると・・意識している。
元のもとは・・そこから起きている。
世界を知覚している、その経験によって生じる様々な「思い」があり、、
肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを見ることで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。
「あんた、そりゃ”思い”というより、事実だろ?」
そう思うものだが、(笑)
そう言うのは・・誰だろうか?
大勢の他人様か?・TVやネットか?・、
いや結局は・・「わたし」・・がそう思っている、
あるいは感じている、いや観じているのである。
思うのは・・それぞれ・・わたし以外にない。
肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを観察することで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。
ところが、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。
それが”わたし”といわれるものだ。
肉体の姿かたちも観察対象だし、
皮膚の感触も、五感での経験の同じく・・知覚、観察である。
もとにあるのは・・
気づいている・・意識している・・だ、
意識による知覚、観察、経験の次に、
それに対する「思い」が生じるのである。
「奴は嫌いだ、わたしの顔は美人とは言えない・・」等だ。(笑)
次といっても、ほぼ同時であるため、
深く自己の内面を見なければ・・ナカナカ気づけない。
このため、昔々から自己観察、修練、瞑想などというものがある。
自己を観察せずして、どうして本質のわたしに・・気づけるだろう?
勝手にいうのもなんだが・・・、
ある意味で、「こういう記事、なんか、やばくね?・・」と感じるならば、
それは肉体自我が敏感に反応している証拠であろうか(笑)。
実に肝心なところかもしれない・・・、
・・・
私たちのありさまを、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。
者・・というけれど、誰かの個人、私個人・・ではなく、
それが普段、多くの人が感じている・・わたし・・である。
わたしとは・・意識・気づきから・・生じているのだ。
その・・わたしの周囲に・・様々な思考や感情、思いが渦巻いている。
色々な思い・感情という「取り巻き連中」である。(笑)
そのさまざまな思いや感情で色付けされ脚色されたもの、
あるいはこの世界特有の支配的観念で加工されたものが、
私という肉体個人・・である。
・・・
原初の・・気付きによって、
充満する空(くう)から生じた意識の波紋、
それらは十重二十重の想念の波となって、
諸世界という無数の物語を創り上げている。
この世の目覚めも、壮大なその物語の1幕なのである。
むろん、この世界にあっても、
量子真空ともいわれる空(くう)に生じる、微細エネルギー、
あるいは意識の波によって創られた、
実にリアルでありながら、決して不変なるものがない、
いわゆるところの幻想世界なのである。
様々な世界、人生物語を創っているのは誰か?
実際に、わたし・・・の想念が・・その作者なのだ。
この世に在る・・ことも、それがゆえだ。
いわゆる目覚めている間であることは、やむを得ないことではあるが、
それが持続反復することで、
私とは肉体である・・という信念に固定されるのである。
毎朝目覚めるがごとく、生まれてから物心つくこと、
親や家族のもとで次第に成長してゆく過程で、
その信念が強く刷り込まれてゆく、というよりは、当たり前の真実として、
振り返ることもない、絶対の信念となっているわけだ。
わたしは肉体個人だ、という信念だ。
大勢の集団で漠然とながら、それを当然のように行動しているため、
それが「信念」となり、社会として事実化しているだけの話なのである。
それらの持続する体験と思考・感情の集積が、
この世界での人生なのだ。
しかしながら、
自分が肉体であると・・するのは明らかに「思い」である。
そもそも、思考、認識力・・それらがなければ、何があるだろう。
何も考えなければ、
あなたも単なる「岩」であり、また岩であることさえも自覚できない。
いわば、存在の無・・・である。
・・でもそんなことはない。
朝目覚めてから、わたしは、わたしとしての意識がある。
生まれてから・・わたしは・・ずっと在ると・・意識している。
元のもとは・・そこから起きている。
世界を知覚している、その経験によって生じる様々な「思い」があり、、
肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを見ることで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。
「あんた、そりゃ”思い”というより、事実だろ?」
そう思うものだが、(笑)
そう言うのは・・誰だろうか?
大勢の他人様か?・TVやネットか?・、
いや結局は・・「わたし」・・がそう思っている、
あるいは感じている、いや観じているのである。
思うのは・・それぞれ・・わたし以外にない。
肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを観察することで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。
ところが、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。
それが”わたし”といわれるものだ。
肉体の姿かたちも観察対象だし、
皮膚の感触も、五感での経験の同じく・・知覚、観察である。
もとにあるのは・・
気づいている・・意識している・・だ、
意識による知覚、観察、経験の次に、
それに対する「思い」が生じるのである。
「奴は嫌いだ、わたしの顔は美人とは言えない・・」等だ。(笑)
次といっても、ほぼ同時であるため、
深く自己の内面を見なければ・・ナカナカ気づけない。
このため、昔々から自己観察、修練、瞑想などというものがある。
自己を観察せずして、どうして本質のわたしに・・気づけるだろう?
勝手にいうのもなんだが・・・、
ある意味で、「こういう記事、なんか、やばくね?・・」と感じるならば、
それは肉体自我が敏感に反応している証拠であろうか(笑)。
実に肝心なところかもしれない・・・、
・・・
私たちのありさまを、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。
者・・というけれど、誰かの個人、私個人・・ではなく、
それが普段、多くの人が感じている・・わたし・・である。
わたしとは・・意識・気づきから・・生じているのだ。
その・・わたしの周囲に・・様々な思考や感情、思いが渦巻いている。
色々な思い・感情という「取り巻き連中」である。(笑)
そのさまざまな思いや感情で色付けされ脚色されたもの、
あるいはこの世界特有の支配的観念で加工されたものが、
私という肉体個人・・である。
・・・
原初の・・気付きによって、
充満する空(くう)から生じた意識の波紋、
それらは十重二十重の想念の波となって、
諸世界という無数の物語を創り上げている。
この世の目覚めも、壮大なその物語の1幕なのである。
むろん、この世界にあっても、
量子真空ともいわれる空(くう)に生じる、微細エネルギー、
あるいは意識の波によって創られた、
実にリアルでありながら、決して不変なるものがない、
いわゆるところの幻想世界なのである。
様々な世界、人生物語を創っているのは誰か?
実際に、わたし・・・の想念が・・その作者なのだ。
この世に在る・・ことも、それがゆえだ。