人々が毎日、毎瞬経験し続けているのは「わたしの意識」である。
毎日の生活とは、人生とはそれである。
外の出来事は、わたしがいなくてどうして知覚できようか?
いいや、できはしない。
あなたが毎朝目覚めるからこそ、世界は同時に立ち上がる。
いつも同じように見えるのは、
基幹となる想念が変わらないからであり、またそれが恩寵でもある。
現実という、繰り返し現れるこの世界の体験は、
螺旋を描くように、繰り返しつつ拡大する、
氷山の一角たる・・わたし意識の成長・広がりを促している。
草木が種から成長し、優雅な花を咲かせるように、
動物が赤ん坊から成長してゆくように、
鉱物が壮大な時間の中で形を変えてゆくように、
人まで進化した魂・意識は、
大いなる意識の高みまで来ていることを自覚せねばならない。
わたし・・という自らへの気付き意識・・があることが、その証拠なのだ。
我あり!・・自己に気づき、自らを創造・観察する主体意識・・、
それが・・わたし・・意識。
わたしと言っても、分離した貴方や私個人等の・・私ではない・・。
周囲の猫や犬、動物たちを観てみよう・・
生きていることを喜ぶさまや、食べることを楽しむさま、
それを地で表現しているだろう。
人間がその歪んだ想念によって、余計な悪さをしない限り、
彼らは、生きていることを、
考えることなく楽しんでいる。
嗚呼、だからこそ人々は癒されているではないか。
とはいえ、彼らには、小さな意識はあるが、
”わたしは在る”と・・自己宣言すること能わない。
だからと言って、
愚かな人間に虐待され、利用され、あるいはその肉体を食われ、
金にするために、面白おかしく遺伝子を組み替えられている。
健気に思えないか?
愛しく思えないか?
申し訳なく感じないか?
そんなこと言っていては、人が生きてゆけないのか?
いや、
そんなこと言うばかりだからこそ、
この今までの世界が、終わりを迎えているのだ。
これ以上は、まさに「過ぎたるは、及ばざるがごとし」である。
また、それすらも気付けぬ人々も多い現状を見よ。
今まで、すべてが物質的組み合わせ、偶然の産物だと、
いつの間にかこの世界で、無意識に仕込まれた。
その観念を捨て去る時が来ている。
この観念を壊し去ること、それが真の意識革命である。
壊れ去ったあと、その後どうなるのか?・・は、
あくまでも頭の観念であり、そうではなく、
自らがどうあるべきか・・内部からの観念の崩壊と創造なのだ。
外側、世界がどうなってしまうのか?・・という不安は、
肉体の安楽や生存だけを最重要視する、物質的観念のままを示し、
自らが久遠永遠の意識たる気付きが足りないと知るべきであろう。
もともとこの世に居なかった者たちが、
つまり、生きること・死ぬことを超えていた者たちが、
この世に及び、いつのまにか、生きる事だけにしがみ付く・・・
生と死、所業無常、変化変遷、
・・一体それがどうしたというのか?
一時の身体にしがみつくこと・・そのものが、
今までの物質偏重の時代の主産物である、肉体自我を示している。
今在る・・こと、今の瞬間・・在ることは、
永遠の今であることを自覚すべし。
頭で考えるのでなく、今在ること・・それを在る・・ことだ。
今とは・・そこから、意識の展開する永遠の舞台を生み出す瞬間。
今在ること・・、失われる本質は・・「どこ」にも無い。
・・・
根源波動である純粋意識が、その波の様相を変え、
想念となって、身体、時空を描き出す。
想念は物語を描き出す、まんま・・のシナリオである。
多くの魂意識が、この世界に・・在るべく・・選択してきたように、
どのような世界を観るのかは、すべては・・わたしの想念によっている。
そうだ、
輪廻転生も、カルマも・・
深く深く、元を辿るならば、全てが・・わたしの想念作なのだ。
すべての物語の、その背後にあるのが、
すべてを貫く空(くう)という、
無限の可能性、遍在意識である。
そこから想念という波動が生まれてくる。
空(くう)は、何もないのではなく、それは、
想念による、さまざまな次元という波動帯域を蔵すところの、
極まった無限の意識の充満である。
フリー、真空のエネルギー等と言われるものは、
その理解の先に、当たり前のようにやってくる代物である。
空(くう)は根源波動で充満、満ち満ちている、
根源のそれは至福以外の何ものでもなかろう。
そうでなくで、どうして創造が出来るのか?
本来の至福、・・深く感じるべきところである。
この世界も、その1つ。
幼い意識を遊ばせ、成長させるためのこの3次元世界、
リアルな幻想世界の素子である原子、クオーク、
それらは大いなる意識によって描かれている。
リアルこの上もない幻想世界、
諸行無常、常に変化変遷しかない、
気づけば、どこにも確たるものがない世界、
ふと振り返れば、遠く過ぎ去った人生を、
いつも懐かしく、苦々しく、愛おしく思える世界、
嗚呼なぜ、そういう世界があるのだろうか?
それは、それを観ているあなたが、
一時の苦痛や快楽を経て、
いつの日にか、それらに、
感動し、成長し、気づけるために展開しているのだ。
何千年も、何万年という月日も、
意識にとっては、絵巻のように眺めるもの。
時空の変遷は・・意識にとっては「物語」なのだ。
まるで映画のように、
空(くう)という無限のスクリーンに投影された意識の綾、
マインド、想念のシナリオ、そのための素材・・
それを振動エネルギー、原子、クオークと呼んでいる。
時空の仕組みの、ちょっとそこまでたどり着き、
その時空を超えてゆくには、
あなたが「自らの作者」であることに気づかなければならない。
今、ここで・・本当のわたしである「真我」「神我」に気づき、
井戸から水をくみ上げるように、
あるいはその水で草花が開花するように、
真我という無限の意識における、わたし(顕在)意識の拡大が起きている。
「我とは、真我、神我、無限の意識なり」
その大いなる気づき、悟りが・・直通ルート・・。
天神様の通り道、古臭い表現だが、天神さまは<あなた>であり、
かつて、有限の時空にその意識を・・自己投入した者・・だ?
思い出せないだろうか?
ここで、思い出すとは・・・誤解なく表現すれば、
記憶に頼るのではなく、
それを”自覚する”ことなのである!
I am THAT I AM
ワレハ ソレ ナリ! の意味を。
気付いただろうか?
あなたの周囲、遠方、見る限りの世界は、
まさに全てを描き出す根源たる純粋意識で満たされており、
様々に観察される諸現象は、
その中に出現しているエネルギー波動である。
それを、それ・・として気づいているものは、誰か?
それぞれが、一なるものの自己投影、
わたし・・以外にないではないか。
・・・
日本の民謡・童謡には、
誰もみな、子宮の細いトンネルを通ってきたこと、
この世界への出現と帰還のありさま、生成死滅、
そして、普遍なる魂・意識の顕現と帰還のサイクル、
まるでそれを示しているかのような、
奥深く広く伝わっている、不思議な歌が残っている。
♪ ♪・・♬
とーりゃんせ、と~りゃんせ~、
こーこはどこの細道じゃ~?
天神さーまの、細道じゃー
ちーっと通してくりゃしゃんせ・・?
御用のないものとおしゃせぬ・・、
行きは良い良い、帰りは難(こわ)い・・
難(こわ)いながらも、
とーりゃんせ、とーりゃんせ ♪
毎日の生活とは、人生とはそれである。
外の出来事は、わたしがいなくてどうして知覚できようか?
いいや、できはしない。
あなたが毎朝目覚めるからこそ、世界は同時に立ち上がる。
いつも同じように見えるのは、
基幹となる想念が変わらないからであり、またそれが恩寵でもある。
現実という、繰り返し現れるこの世界の体験は、
螺旋を描くように、繰り返しつつ拡大する、
氷山の一角たる・・わたし意識の成長・広がりを促している。
草木が種から成長し、優雅な花を咲かせるように、
動物が赤ん坊から成長してゆくように、
鉱物が壮大な時間の中で形を変えてゆくように、
人まで進化した魂・意識は、
大いなる意識の高みまで来ていることを自覚せねばならない。
わたし・・という自らへの気付き意識・・があることが、その証拠なのだ。
我あり!・・自己に気づき、自らを創造・観察する主体意識・・、
それが・・わたし・・意識。
わたしと言っても、分離した貴方や私個人等の・・私ではない・・。
周囲の猫や犬、動物たちを観てみよう・・
生きていることを喜ぶさまや、食べることを楽しむさま、
それを地で表現しているだろう。
人間がその歪んだ想念によって、余計な悪さをしない限り、
彼らは、生きていることを、
考えることなく楽しんでいる。
嗚呼、だからこそ人々は癒されているではないか。
とはいえ、彼らには、小さな意識はあるが、
”わたしは在る”と・・自己宣言すること能わない。
だからと言って、
愚かな人間に虐待され、利用され、あるいはその肉体を食われ、
金にするために、面白おかしく遺伝子を組み替えられている。
健気に思えないか?
愛しく思えないか?
申し訳なく感じないか?
そんなこと言っていては、人が生きてゆけないのか?
いや、
そんなこと言うばかりだからこそ、
この今までの世界が、終わりを迎えているのだ。
これ以上は、まさに「過ぎたるは、及ばざるがごとし」である。
また、それすらも気付けぬ人々も多い現状を見よ。
今まで、すべてが物質的組み合わせ、偶然の産物だと、
いつの間にかこの世界で、無意識に仕込まれた。
その観念を捨て去る時が来ている。
この観念を壊し去ること、それが真の意識革命である。
壊れ去ったあと、その後どうなるのか?・・は、
あくまでも頭の観念であり、そうではなく、
自らがどうあるべきか・・内部からの観念の崩壊と創造なのだ。
外側、世界がどうなってしまうのか?・・という不安は、
肉体の安楽や生存だけを最重要視する、物質的観念のままを示し、
自らが久遠永遠の意識たる気付きが足りないと知るべきであろう。
もともとこの世に居なかった者たちが、
つまり、生きること・死ぬことを超えていた者たちが、
この世に及び、いつのまにか、生きる事だけにしがみ付く・・・
生と死、所業無常、変化変遷、
・・一体それがどうしたというのか?
一時の身体にしがみつくこと・・そのものが、
今までの物質偏重の時代の主産物である、肉体自我を示している。
今在る・・こと、今の瞬間・・在ることは、
永遠の今であることを自覚すべし。
頭で考えるのでなく、今在ること・・それを在る・・ことだ。
今とは・・そこから、意識の展開する永遠の舞台を生み出す瞬間。
今在ること・・、失われる本質は・・「どこ」にも無い。
・・・
根源波動である純粋意識が、その波の様相を変え、
想念となって、身体、時空を描き出す。
想念は物語を描き出す、まんま・・のシナリオである。
多くの魂意識が、この世界に・・在るべく・・選択してきたように、
どのような世界を観るのかは、すべては・・わたしの想念によっている。
そうだ、
輪廻転生も、カルマも・・
深く深く、元を辿るならば、全てが・・わたしの想念作なのだ。
すべての物語の、その背後にあるのが、
すべてを貫く空(くう)という、
無限の可能性、遍在意識である。
そこから想念という波動が生まれてくる。
空(くう)は、何もないのではなく、それは、
想念による、さまざまな次元という波動帯域を蔵すところの、
極まった無限の意識の充満である。
フリー、真空のエネルギー等と言われるものは、
その理解の先に、当たり前のようにやってくる代物である。
空(くう)は根源波動で充満、満ち満ちている、
根源のそれは至福以外の何ものでもなかろう。
そうでなくで、どうして創造が出来るのか?
本来の至福、・・深く感じるべきところである。
この世界も、その1つ。
幼い意識を遊ばせ、成長させるためのこの3次元世界、
リアルな幻想世界の素子である原子、クオーク、
それらは大いなる意識によって描かれている。
リアルこの上もない幻想世界、
諸行無常、常に変化変遷しかない、
気づけば、どこにも確たるものがない世界、
ふと振り返れば、遠く過ぎ去った人生を、
いつも懐かしく、苦々しく、愛おしく思える世界、
嗚呼なぜ、そういう世界があるのだろうか?
それは、それを観ているあなたが、
一時の苦痛や快楽を経て、
いつの日にか、それらに、
感動し、成長し、気づけるために展開しているのだ。
何千年も、何万年という月日も、
意識にとっては、絵巻のように眺めるもの。
時空の変遷は・・意識にとっては「物語」なのだ。
まるで映画のように、
空(くう)という無限のスクリーンに投影された意識の綾、
マインド、想念のシナリオ、そのための素材・・
それを振動エネルギー、原子、クオークと呼んでいる。
時空の仕組みの、ちょっとそこまでたどり着き、
その時空を超えてゆくには、
あなたが「自らの作者」であることに気づかなければならない。
今、ここで・・本当のわたしである「真我」「神我」に気づき、
井戸から水をくみ上げるように、
あるいはその水で草花が開花するように、
真我という無限の意識における、わたし(顕在)意識の拡大が起きている。
「我とは、真我、神我、無限の意識なり」
その大いなる気づき、悟りが・・直通ルート・・。
天神様の通り道、古臭い表現だが、天神さまは<あなた>であり、
かつて、有限の時空にその意識を・・自己投入した者・・だ?
思い出せないだろうか?
ここで、思い出すとは・・・誤解なく表現すれば、
記憶に頼るのではなく、
それを”自覚する”ことなのである!
I am THAT I AM
ワレハ ソレ ナリ! の意味を。
気付いただろうか?
あなたの周囲、遠方、見る限りの世界は、
まさに全てを描き出す根源たる純粋意識で満たされており、
様々に観察される諸現象は、
その中に出現しているエネルギー波動である。
それを、それ・・として気づいているものは、誰か?
それぞれが、一なるものの自己投影、
わたし・・以外にないではないか。
・・・
日本の民謡・童謡には、
誰もみな、子宮の細いトンネルを通ってきたこと、
この世界への出現と帰還のありさま、生成死滅、
そして、普遍なる魂・意識の顕現と帰還のサイクル、
まるでそれを示しているかのような、
奥深く広く伝わっている、不思議な歌が残っている。
♪ ♪・・♬
とーりゃんせ、と~りゃんせ~、
こーこはどこの細道じゃ~?
天神さーまの、細道じゃー
ちーっと通してくりゃしゃんせ・・?
御用のないものとおしゃせぬ・・、
行きは良い良い、帰りは難(こわ)い・・
難(こわ)いながらも、
とーりゃんせ、とーりゃんせ ♪