救いの型

 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ7:25-8:4)

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 信仰は、つかみ取る類いのものではなく、与えられて備わるものである。
 神はイエスに「肉において罪を処罰」したが、ここに私たちへの救いの型が示された。
 私たち自身で「処罰」するのではなく、恵みによって、万物の父が私たちに「処罰」を行うのである。
 そして私たちは「キリスト・イエスにある者」にさせられる。

 救われてイエスにある者は、「罪に定められることは決してありません」。
 それは、外側にあった律法が、聖霊として内側に内住するからである。
 罪赦されるのみならず、この内側のものに突き動かされるようになる。
 イエスが主なのは、単に主としてあがめているのではなく、このようにして実際に私のあるじになってくれたからである。

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[一版]2021年 9月 5日
[二版]2024年 3月17日

 イエス様の平安がありますように!

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