世の原理に死に異なる原理によみがえる

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:16-20)

---

 聖書の目的、すなわち救いということ。
 「真理の御霊」が与えられること、また、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」るようになること。
 「あなたがたを捨てて孤児にはし」ないこと。
 これらはすべて、頭の上での理解や信念ではなく、その人にとって実際にそうである。

 しかし、イエスは言う。「世はその方を受け入れることができません」。
 世は異なる原理によるからだ。
 たとえばマモニズムにどっぷり漬かっている人は、イエスとその救いそのものを否むだろう。
 だが、そのような人々の中にも、魂の奥底では救いを必要としている人も少なくないはずだ。

 救いを求めるとき、救い主イエスは必ず応えてくださる。
 そうすると世の原理から離れることとなるのだが、そのことも含めてすべてイエスが整えている。
 この十字架の道は、世の原理に死に異なる原理によみがえるものであるから、かつてなく辛いものになる。
 しかしそのときには原理や価値観が新たにされる。それも瞬時に変わる。聖霊が住まわれるからだ。

 自分のことになるが、昔日教会に行っていた頃、悲しい気持ちで「キリストにはかえられません」、あの賛美歌を歌っていた。
 富も宝も欲しいし、有名にもなりたい。それをあきらめなくてはいけないのだろうか?
 しかし、今振り返ると、そういったものをあきらめたわけではないのだが、そういったものに対する興味そのものがいつしか消えてしまった。
 それは、富よりも名誉よりも、人にとって本来的に必要なもので満たされたからではないかと思っている。

---

[一版]2014年 9月15日
[二版]2017年 5月23日
[三版]2019年 3月 9日
[四版]2021年 2月21日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )