京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

我は咲くなり

2024年04月07日 | こんなところ訪ねて
明日からの天気を考えると花見には外せないお日和だ。賀茂川べりを歩き、上賀茂神社を覗いてみることにした。

一方通行の道で、平素は車で通ることもあるけれど、満開の桜の下をひっきりなしに徐行運転の車が続く。規制してほしいと思うのは、勝手に過ぎるのかな。
(それでも切れ目はあるわけで、がまんせい!と言われそう)





津村節子さんの『絹扇』を読んでいた。お名前や福井県出身であること、作品にちなんでつけられた「風花随筆文学賞」があることなど、存じ上げているけれど作品を読むのは初めてだった。
裏表紙には、機織りに生きる女の半生を福井の産業史に重ねて描いた作品だと記されている。

【4時を少し回ったころ。家中がまだ寝静まっていた。
蒲団の上に重ねて掛けてある筒袖の着物を寝巻の上から着こみ、つぎはぎの袖なしを着て、もう3日もはいていて汚れ冷え切った足袋をはいて、土間に板を張った機場(はたば)に入った。窓の破れ障子からは雪が吹き込んでくる。
母が織る一日分の糸を繰るために糸繰車を廻すのが、明治21年生まれの数えで9歳になったちよの一日の始まりだった】

「…学校行きたや / 遊びたや」
明治5年に学制が発布されたが、子守りや糸繰り、機織りに幼い女の子供は労働力としてあてにされ続けていた。


福井県はもともと絹織物の有数な産地で、奈良時代に越前、若狭に課せられた調(ちょう)の物産の中に、すでに絹織物が加えられていたいう。
江戸時代、明治維新と、福井羽二重が桐生、足利を凌ぎ、生産量日本一となって発展していく変遷が綴られる。

のぞまれて18歳で大手機(はた)業の次男に嫁いだちよ。独立し機業を創業した夫は、事業の拡張に意欲的だった。
「機を織るのは女の仕事。仕事を発展させるのは男の才覚や」
だが、機業界がバッタン機から力機織導入へと転換期を迎えるとき、夫の無鉄砲な事業欲は時勢を読み違えた。そして急死、借金が残った。
工場も住む家も失った。

「自己犠牲」ではないと思うのだ。献身的でありながら、意思を持つ。
苦難の数々を、すべて受け容れていく器の大きさはどこから来るのだろう。他人の身になるというより自分事として引き受ける中で、言動に現れる人となりには魅力もある。彼女をずっと見ている人がいた。



バッタン機一台を小さな小屋に据えて、子どもたちと一からの暮らしが始まった。


   人知るもよし 人知らざるもよし 我は咲くなり        実篤
コメント (4)
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